被災地に想いを寄せて – 2024年、スタート

2024年1月1日16時06分。
正月を迎え、年始の宴が始まるのを待ちながらスマホのゲームで遊んでいた甥っ子が突然、「石川で地震だって!震度6だって!」と大声を出した。
ほぼ同時刻、公用のスマートフォンに「緊急地震速報」のメールが届く。
慌ててテレビを付けると、屋外に備え付けられたカメラからの映像が大きく揺れているのがわかった。

その4分後。アナウンサーが地震発生を報じている中で、再び緊急地震速報。
画面が切り替わると、先ほど地震の状況を報じていたカメラが更に大きく激しく揺れ、建物が崩れ、土煙が上がるのが映り込んだ。その光景を見ながら、あ然とした。
程なく、ミシミシと音を立てながら家が少しだけ揺れた。石川県を震源とする地震なのに、こっちまで揺れるなんて。
背筋に悪寒が走り、心臓がバクバクするのがわかった。ちょっと具合が悪くなった。

直後に発表された津波警報、そして大津波警報。青森県にも津波注意報が発表。
これは長丁場になると咄嗟に悟った。
震えを抑えながら、職場に向かうために列車の出発時刻を調べると、ほぼ同時に「運転見合わせ」の報が。
焦りというよりも動揺を何とか抑えながら、甥っ子にお年玉だけ渡して職場に車で向かった。

17時30分過ぎに職場に到着すると、ちょうど会議が開かれようとしていた。
幸いにして青森県では被害の発生は確認されていないとのこと。
とはいえ、津波注意報が発表されている中、予断を許さない状況に変わりはなかった。

実は、昨年暮れからあまりにも穏やかな年末年始だったので、何か嫌な予感がずっとよぎっていた。

気象の変化の幅がどんどん大きくなっていることは気になるし、昨年の大雨のように突然の大雪に見舞われるかも知れない。

…と思っていたところへの今回の地震。元日にこんな大地震が来るなんて、考えたくもなかった。
追い討ちをかけるかの如く2日に発生した羽田空港での航空機事故。
民航機側に犠牲者が出なかったことは奇跡だというものの、亡くなられた海保の職員が5人いることを考えると、胸が痛くなった。

今回の地震の被害は、阪神淡路と東日本と熊本の複合みたいだ。これに、半島という地形が早期の状況把握の足かせとなり、救助救出を阻害する要因となっている。

一刻を争う状況なのに、行政は何をやっているのだ、と思われる方もいるだろう。

(お前もこんな投稿してる場合か!と気分を害している人もいるかも知れない。)

だが既に、中部、関西、関東の40近い都府県市が、能登半島の被災自治体に対する応援(対口支援)を始めている。せめてそのことだけでも、知って欲しい。

我々にはまだ声が掛かっていないが、青森県からは保健師が被災地に派遣される。この先、ブロック協定を締結している新潟県での被災状況を見つつ、石川県の応援態勢の増強が必要となれば、我々も出番となるはずだ。

何だか全容がわからないまま、こんなに時間の経過を長く感じる年始を過ごしたのは初めてかも知れない。
ただ今は、被災された地域の方々や事故に遭われた方々に想いを寄せながら、なるべく普段通りの生活を送ろうと思う。

被災された地域の皆さまには、心よりお見舞い申し上げるとともに、残念ながら亡くなられた皆さまの御冥福をお祈り申し上げます。

兎にも角にも2024年がスタートしました。明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

2023年の回顧録

50歳を迎えてから色々思うところがあり、やりたいことはやれる時にやろう、そんなことを考えるようになった。

この4年間、仕事面だけでみると、新型コロナウイルスや相次ぐ災害への対応を筆頭に、様々な業務に振り回され、とりわけ年度末(3月)は、相当気が滅入っていたのも事実。

正直言うと今の仕事、従事している業務からドロップアウトし、この先何も考えずに過ごすことも幾度となく考えるようになっていた。もしかしたらそれは、「逃げ」を意味するのかも知れないが、このままだと心身の調子を崩してしまうのではないかという恐怖にも苛まれていた。

ひとまずこの状況から脱却する方法として、今年は、とことん自分の好きなことを楽しみ、会いたい人に会うことを選択した。

2023年1月8日。一人で仙台へ向かい、吉川晃司のコンサートに足を運んだ。

東日本大震災後に東京ドームで行われたCOMPLEXのライブにも足を運んだが、ソロコンサートを観るのは約30年振りだった。

想像もつかない出来事信じられない出来事が色々重なり、絶対に忘れることのできないライブとなった。

その翌週、中学時代からの仲間たち、古くは小学校から付き合いのある幼馴染み、いや、そんな言葉で表すのも烏滸がましいぐらい、僕にとってはとても大切な畏友5人と新年会を開催。僕は勝手に「いつものメンバー」と呼んでいるが、このメンバー6人全員が揃うこと自体が久し振りだったので、心の底から楽しむことができた。

畏友たち。

2月。2022年7月から延期となっていた山下達郎のコンサートを岩手県盛岡市にて鑑賞。御年70歳になったばかりなのに、年齢を感じさせないパフォーマンスに圧倒させられた。

3月。久し振りに熊本から帰省してきた高校の同級生を囲んで一献を設け、高校時代の同級生数名と談笑。

高校3年の時の同級生。30年以上経ってもこうやって会えることに感謝。

その2週間後には、3月末で一足先に早期退職することとなった他自治体の仲間・同志を囲んでの「勉強会」にも参加した。

初めてお目にかかる人ばかりだったけど、楽しかったなあ。

仕事面では、昇格しながらも残留が決定。とはいえ業務やら人事やら難局続きで多忙を極めており、ある意味一番疲弊していた時期だった。

4月。年度初め早々に地元の自治体職員や異業種の方、学生も交じえての朝活交流会に参加、人と会う機会を増やしていった。久しく足が遠のいていたランニングクラブの朝練にも参加。

年度初め早々にもかかわらず、たくさんの人が集まりました。

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4年ぶりのフルマラソン(後半) #NAHAマラソン

前半から続く)
周囲を走る人のゼッケンの大半がCとなり、AやBのランナーも混じるようになってきた。結構な人数を追い抜いてきたのかも知れない。しかしここまでやってくると、地力のあるランナーがしっかりとペースを刻んでいるのがわかる。
ふと、総合1000番以内に入ると、明日の朝刊に名前が掲載されることを思い出した。
今どの辺の順位なのかは知る由もないが、このまま走ったら案外1000番以内も狙えるかも知れない。
いやいや待て待て。ゴールは4時間半がターゲットなのに、そんな欲を出してどうする?
欲が出ているということは、走りに集中できていないということ。道路を蹴る足音もどんどん大きくなっていることに気づく。まずはいったん落ち着こう。
中間地点を通過。1時間55分って、上出来。さすがに後半は落ち込むだろうけれど、4時間半を切るには十分過ぎるペースだ。

気分を高揚させながら先へ進む。 25㎞付近の「ひめゆりの塔」には立ち寄らず、手を合わせるだけでご容赦を。
今回参加者に配られたTシャツには、「No Run No Life」と描かれていた。

今年の出場記念Tシャツ。

僕が着用しているシャツには、「No Apple, No Life」と描かれている。
25kmを過ぎた辺りで「No Apple, No Life、頑張れ!」と初めて女性に声援を送られた。

無性に嬉しくなり、手を挙げながら「ありがとう!」と返答した。
続いて30km手前。坂を下りきった付近、一人声援を送る男性。

笑みを浮かべながら手を挙げると、「その調子!行けます!行けます!いい笑顔です!」と声を掛けられた。
30km通過が2時間40分であることを電光掲示板で確認。これならペースを落としてもグロスタイムで4時間切れるじゃないですか!
ということで、ここからターゲットを4時間に上方修正しつつ、ペースを落とし、雰囲気を楽しむことにした。
もう少し頑張れは明日の新聞掲載も見込めるのかも知れないが、それが目的で走っているのではない。何せ4年振りのフルマラソン。無理は禁物。そして、欲は封印しないと。
顔や腕に手を当てると、ザラッと塩が浮き出ているのがわかる。両足もピクピク疼き始めている。脚攣りの前兆が現れていた。そしてここに来て、予想通り向かい風が吹いてきた。
風除けとなりそうな人を探せば良かったのだが、レース勘が戻っていないこともあり、そんな余裕はなかった。

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4年ぶりのフルマラソン(前半) #NAHAマラソン

ホテルの中にあったホワイトボードに感動。

コロナ禍がようやく終息しつつある中、意を決しマラソンの大会に参加した。 復帰第一戦は、9年振り2度目の出場となる「NAHAマラソン」。前回投稿したとおり、母を沖縄に連れてくる口実であり、4年ぶりに沖縄訪問を果たす契機だった。

このユニフォームに袖を通すのは、初めてとなる。

4年振りのフルマラソンということもあって緊張するのかと思いきや、全く緊張することもなく、受付で受け取ったゼッケンナンバーをシャツに装着し、レース中の補給食を揃え、旅の疲れもあって21時過ぎに就寝。 

翌朝は、4時半に目が覚めた。 いよいよこの日を迎えることの喜び。今日は自分自身が楽しめるよう、気分良く走ろうじゃないか。

朝食会場で自分で仕込んだ「ゆし豆腐そば」

ホテルの朝食、胃袋5つ欲しいです。

ブルーシールアイスも食べ放題。

朝からガッツリ沖縄料理を。

NAHAマラソンは、沿道の声援が凄いことで知られている。運営側が設置したエイドがなくとも、勝手に沿道の住民が水やらコーラやら飴やらを準備しているので、水や食料に困ることはないのだ。  続きを読む

大人の修学旅行 ~4年ぶりの #沖縄 ~ #OKINAWA

今年密かに掲げた裏の目標が二つ。
一つは、今年こそマラソン大会に出場し、完走すること。
もう一つは、しばらく遠出していない母を旅行に連れて行くこと。
この二つを一度に叶えるため、とある画策を練っていた。

それは、NAHAマラソンにエントリーし、母も同行させるというものだった。
これで、マラソン大会出場と母の旅行という二つの目標をいっぺんに叶えることができる。

マラソンブームの影響で、かつてはNAHAマラソンに出場するのも抽選だったが、ブームが去り、新型コロナの影響もあってマラソン離れも相当加速したらしく、結局最後まで定員に達しなかったようだ。

母を説得するのは簡単だった。約40年にわたり犬猫を飼っていた我が家。昨年11月に愛犬チョコが旅立ち、ペット不在となった。旅行だマラソン大会だコンサートだと家を空けるとき、ペットの面倒を見ながら家の留守を預かっていたのは、母だった。その面倒をするペットがいなくなった今、母を外に連れ出しても文句はないだろう。

こうして、12月初旬から4日間にわたり、母を連れて沖縄へ行くことが決まった。
「大人の修学旅行」…なんて言えば格好いいだろうか。

しかし、そんな旅行にも暗雲が立ちこめる。
11月29日から30日にかけて北日本は悪天候に見舞われた。
30日の青森空港は大荒れ、出発する便は軒並み遅延(最大2時間近く)となり、翌日に出発を控えた我々の不安を掻き立てた。というのも、羽田経由で沖縄那覇を目指す行程、乗継時間は40分しかないのだ。大雪に見舞われたら、搭乗予定の始発便は遅延がほぼ確実。乗継便には間に合わないことだろう。

  • 初日

出発時の青森空港は一面真っ白。青空が顔を覗かせているのがせめてもの救い。

そしていよいよ12月1日。6時過ぎに自宅を出発。悪天候を見込んで通勤の皆さんも行動を早めたらしく、途中の予期せぬ渋滞に相当焦らされたが、搭乗便出発の25分前に青森空港到着、無事機上の人となった。懸念していた遅れも5分程度で、乗継も十分間に合いそうだ。

ただ一つ誤算だったのは、羽田空港着陸後がバスでの移動だったこと。結果的に羽田空港内の移動距離が短くなったため、母の負担は減ったわけだが、少々焦りを感じていた。

…実はこの時、その焦りから大チョンボをやらかしていた。

カード類の入ったケースを紛失したのだ。4日間カードのないまま、買い物は電子マネーや現金で済ませることとなったが、カードケースは結局、全ての旅程を終えてから見つかった。JALに遺失物がないか確認をお願いしたところ、羽田到着後の機内に落ちていたらしい。

ただ、旅行期間中は僕よりも母がカードケースの行方を案じていたようだ。せっかく楽しい旅行になるはずだったのに、余計な気を揉ませることとなり、母には本当に申し訳ないことをしたと猛省している。

沖縄を訪れるのが初めての母のため、今回は「初級コース」を用意。
ただし、3日目は僕のマラソン出場に伴い「自由行動」となるため、隊長に母を託し、美ら海水族館、万座毛、琉球村などを巡る観光バスでの本島ツアーに参加してもらうことにした。

いよいよ沖縄那覇空港に到着。気温は18度程度で、暑さは全く感じられない。
レンタカーを借りたあと、初日は隊長の希望により「アウトレットモールあしびなー」へ向かった。時折雨も混じる天候だったが、強い雨には当たらずになんとかしのいだ。

ずーっとこんな天気だった。

初日2日目は沖縄県庁の向かい、国際通りのすぐそばにある「ロコアナハ」に宿泊、3日目は恩納村の「リザンシーパークホテル谷茶ベイ」に宿泊した。

初日の夜に訪れた、ホテル近くにある居酒屋「食の番屋もも太郎」は、沖縄産の食材や料理を多数揃えたお店。

手書きのメニュー。食べ物のメニューはこれからチョイス。

刺身盛合せは沖縄近海の魚、そして「ビタロー」と呼ばれるキンセンフエダイの姿揚げなど、母も大満足の夜となった。

沖縄近海で獲れた魚の刺身盛り合わせ。海ぶどうを追加してもらった。

ビタローのみぞれソース焼

ちなみにその足で国際通りを少しだけ散策、ドンキホーテで土産を一気に購入した。毎回、沖縄の土産はドンキかイオン、地元スーパーで購入すると決めているのだ。

  • 2日目

「首里城」~「海中道路」~道の駅「かでな」~「イオンモール沖縄ライカムのコース」をドライブ。

この時期は各地から多くの高校生が修学旅行で訪れており、首里城も高校生で溢れていた。しかし、青森とは全く趣の異なる風景に、母は感銘を受けたようだ。良かった。
首里城は約5年前に焼失し、現在再建が進んでいる。テレビで見た首里城焼失の光景はかなり衝撃的だったが、あの光景を目の当たりにしたらきっと号泣してしまうんだろうな、なんてことを思ってしまった。

シーサーがお出迎え。

今回は無料区域のみ。

首里城から那覇市内を望む。

続いて向かったうるま市の海中道路の途中にある海の駅、宮城島にあるぬちまーすで土産物を購買し、次の島へと渡った。

この日の昼食を取るために訪れた浜比嘉島。島内にある「丸吉食品」が、相当燻し銀の店だった。

店構えからいい味を出している。民宿もやっているらしい。

観光客というよりは地元民相手の店といった雰囲気で、なんと勝手に家の中に入って食事するという、呆気に取られる展開が待ち受けていたが、ここで食した中味汁は本当に絶品だった。

この中に厨房がある。

玄関を開けると、靴箱がある。

券売機までは土足OKだそうな。

券売機。最下段の真ん中のチケットにドキッとした。

営業を示す看板。「塩」の下に隠れた文字が気になる。

続いて訪れた道の駅「かでな」は、展望スペースが拡張されていた。オスプレイの事故が起きてすぐだったこともあり、報道機関のカメラも待ち構えていたが、米軍に動きはなかった。

展望デッキから嘉手納基地を望む。

イオンモール沖縄ライカムは、ちょっと欲しいものがあって立ち寄った程度。ブルーシールの塩ミルクと紅いものミックスは、大変おいしゅうございました。

暑い時だとあっという間に溶けることでしょう。

そしてこの日の夜は、予約がなかなか取れないという「食彩酒房 まつもと」にてアグー豚のしゃぶしゃぶを堪能。大会前日ということでアルコールを控えるつもりだったが、これを前にしたら無理だった。

風情がありますなあ。

アグー豚。これを鍋にくぐらせて…。

鍋の中に肉の花が咲く。

〆はぞうすいにして。激ウマ。