祖母の命日

3月7日は、父方の祖母の命日である。父がこの世からいなくなるまではあまり意識していなかった3月7日、奇しくも父の命日が9月7日であったことから、ちょうど半年のブランクがあるということで、否が応でも意識をせざるを得なくなった。祖母には申し訳ないが、僕の中では「祖母の命日」というよりも「父の6ヶ月目の月命日」ということで3月7日という日を強く認識するようになった。

祖母が亡くなったのは、僕が中学1年の時だ。祖母は昔から鼻腔のあたりに腫瘍があったらしく、頻繁に大学病院で手術を施した。その回数は一体何度なのかはわからないが、手術後は我が家で1~2日(それ以上の時もあった)静養し、そして自宅のある西目屋村大秋に帰るというのが常だった。

そして、僕が小学生の頃は、手術前あるいは手術後に我が家で静養する祖母と一緒の布団で横になり、祖母から色んな話を聞かせてもらった。それは、祖母が中国に行った時の話であったり、祖父の話であったり、幼い頃の父の話であったり…。とにかく色んな話ではあったのだが、残念ながら今となっては、そのほとんどが僕の記憶の片隅から消え去ろうとしているような状況だ。親戚の皆さんごめんなさい。

幾度となく大学病院への入院も余儀なくされ、また、その間生命の危機に晒されながらも、祖母は生き存えた。

一時祖母の容態が悪化した時、ちょうど仕事の関係で札幌に出張していた父からは、連日のように電話が掛かってきた。今になって思い起こせば、家族(肉親)の身を案じ、連日のように電話をしてきた父というのは、あれが最初で最後だったと思う。

やがて祖母は記憶の欠片を徐々に失い、危篤状態に陥った。祖母危篤の報を受け、我が家からそれほど離れていない大学病院に父と母が向かい、僕と妹は留守を預かっていた。
程なく母から電話があり、祖母が他界したことを伝えられた。
外孫だったこともあってだろうか、「ああ、そうか。」ぐらいにしか思わなかったのだが、仏壇にろうそくと線香を供え、東側にある窓の向こうで明かりを放つ大学病院に向かって、手を合わせたことは今でも記憶として残っている。それが当時の僕がすることのできた、最大の供養だった。

未明に帰宅した父の目が真っ赤に腫れ上がっていた。父が涙に暮れた姿を見たのは、それが初めてだった。父の年齢は当時36歳、だったかな。僕が父と別れた時が37歳。こういう奇遇は全くもって必要ない。

しかし、祖母の訃報に接しても、多分それほど深い悲しみを覚えなかったのは、外孫であることはもとより、父が幼い頃に養子として出され、本来の姓である「三上」を名乗っていなかったことも伏線としてあったのかも知れない。

父が亡くなった時に、親戚から祖母がうちの父を養子に出したことを本当に悔やんでいたということを聞いたのだが、残念ながらそれは一番伝えたかった父の耳には届けることができなかった。しかしその時ふと思ったのだが、僕にとっては父が養子だろうと何だろうと、祖母が「三上家の祖母」であることには何の変わりもなかったのだ、と…。

祖母は、僕たち外孫に対しては厳しい顔をほとんど見せなかったが、内孫をはじめとする同居家族に対しては、相当厳しかったということを、後になって誰からともなく聞いたことを覚えている。

そして、祖母の御通夜は、祖母が嫁いだ(=父が生まれた)西目屋村大秋地区と白沢地区の中間にある公民館で営まれたのだが、この日は大雪と悪天候に見舞われ、車でやってくることができず、村役場に車を置いて何分もかけて山道(くねくねしたカーブが断続的に続くのだ)を登ってきた人が大勢いたことも、後になって聞かされた。

祖母とは、13年間という短い期間しか同じ時間を過ごすことのできなかった。
記憶として残っているのは、弘前市鍛冶町にある「藪そば」が好きだったこと、そして、僕たち子どもがいようといまいと構わず父のことをいつまで経っても「ヒロちゃん」と読んでいたこと(その名残りとして、未だに父方の親戚のことは、伯父叔母問わず「ちゃん」付けで名前を呼ぶ)。

祖母が亡くなって28年、そして父が亡くなって3年半が経つ。
父は、三途の川を渡るのも難儀だっただろうし、無事に仏に仕えることができたかすらも怪しいが、先に行っていた祖父や祖母と再会を無事果たしただろうか。

再会した暁には、父の姿を見つけた祖母ならきっと目くじらを立てて父のことを怒鳴りつけていることだろう。

「ワイワイワイワイ、ヒロちゃん…。アンダマンダ、何やってらのシ!」

合掌

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