生態系と自然体

昨日は、某町にて行われたある発表大会の「審査委員」を仰せつかったため、直行直帰の出張だった。
といっても、若輩者で無知なこの僕がいきなり審査委員に任命されるワケがなく、所用で行くことの出来ない上司から順繰り順繰りその役が回ってきたためで、野球でいうところの代打の代打…というか他に誰もいないのでとりあえず代打、みないな立場だった。

他の審査委員はといえば、地元の民放テレビ局の報道制作部長、町の教育長、主催者側の専務理事…。

そうそうたる顔ぶれの中、何で俺みたいな若造が?という疑問は結局最初から最後まで拭えぬまま、しかも後援団体の代表ということで、最優秀賞の賞状と副賞を授与するという大役まで任され、約100名が集まったという会場(それも全員が(元)お嬢さん!)の好奇の目に晒された僕は、自然体を装っていたつもりが、コッチコチに緊張していたわけで(苦笑)。

その審査会場にて、町の教育長がとても興味深い話を聞かせてくれた。


「さくら」と「りんご」の話だった。

弘前公園のさくらは、今では日本一のさくらと称されるまでに有名だが、あのさくらの管理は、市の公園緑地課というところが行っている。
どういうことをしているのかというと、枝切りをしたり、薬を撒いたり、枯れそうな木があれば樹木医が治療したり。

ある市の小学校校庭に植えられたさくらの木。当時PTAでもあった親御さんが、弘前公園のさくらのように、植えたさくらが立派に育つようにと薬剤を散布した。それは、たまたまそのお父さんが農業関係の試験場に勤めていたということもあったのだが、子供が小学校に在学している間は、毎年の恒例行事のように行われた。ところが、子供が小学校を卒業したと同時に薬剤の散布が行われなくなったところ、さくらの木は急激に弱りはじめ、枯死寸前の状態まで追い込まれ、樹木医の診察に頼らざるを得なくなったそうだ。

片や青森の「りんご」。こちらも長野と並んで(イヤ、今は長野よりも上かな?)有名。青森の代名詞とも言えよう。
こちらも、立派な(=商品価値のある)リンゴの栽培のため、農家の人たちが摘果を行ったり、剪定をしたり、農薬を撒いたりしている。

隣町にあるリンゴ園。リンゴの実に穴を開けてしまう害虫を駆除しようと農薬を散布したところ、この害虫はほぼ駆除された。ところが、今度は葉ダニに悩まされることとなった…。

この二つのエピソードが意味するところは、つまり「人の手をかけなくてもよかった」ということだ。
さくらの木は、ある程度の免疫力を有していたはずなのに、農薬散布により抵抗力が猛烈に低下した。リンゴについては、実につく虫が葉ダニもエサにしていたのに、人手による害虫駆除で天敵がいなくなったことから、葉ダニが猛烈に増えてしまった、というものだ。

結論から言うと、ともに人間の手が加えられたことで、生態系が崩れた。

例えば、自然の山に咲く木々や草花。誰も手を加えなくても、きれいな自然は保たれている。
結局、人間がエゴを追究するあまり、既存の生態系はどんどん崩壊し、やがてそれが自然界においていろんな形で悲鳴を上げ始めている。

大体、弘前公園に咲き誇るソメイヨシノそのものが、人的交配により生命を保っている品種であることを知っている人は、どれぐらいいるのだろう(そもそも雑種だということも含めて)。

リンゴの穴一つで商品価値が下がると考える方も考える方だが、見た目の美しさこそがリンゴのおいしさを表す指標だと考えている料理研究家もしくはその種の人がいたら、是非考えを改めて頂きたいと思う。ついでにいえば、美しいリンゴこそが高値で取引されるべきと考える業界関係者も、いい加減目を覚まして欲しいものだ。

さくらもリンゴも、実は人の手がかからない姿こそが一番美しく、そして一番美味しいのではないだろうか。

要するに、何事も「自然体」が一番ということだ。
人間はよく「自然体を心がけて」などと言っているが、その自然体を自然体でなくしているのが自分たちだということを、今一度認識しなければならない。

いや、もはや認識したところで、人間の手には遠く及ばない。むしろ自然は、着々と天敵(=人間)を排除するための変化を続けているのだろうか。

「リンゴ」と「さくら」のエピソードを聞きながら、ふとそんなことを思った。

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