今だから話す

今朝は気温が6度近くまで下がりました。気が付くと既に10月中旬に差し掛かっており、あと1ヶ月もすると山肌に白いモノが見えたりする季節がやってきます。吐く息も白く、清々しい気持ちで通勤、と行きたいところですが、この時期になると、必ずと言っていいほど胸の痛み、例えようのない「死への恐怖感」に襲われることがあります。
それは、体調云々といった類が原因しているのではなく、精神的な部分、言わば気持ちの部分で左右されているところが大きいのだろうと、勝手に推測しています。ただこれは、ひょっとしたらPTSDに近いのかも知れません。この話は、ごく一部の人にしか話したことがないのですが、いつまでも抱えていたくないので、今日はそのことをお話したいと思います(ちょっと重苦しい話かも知れません)。


…遡ること今から10年前。新採用から3年目の職場は、僕にとって地獄のような日々でした。新採用当初、僕に仕事や仕事以外での「イロハ」を教えて下さった皆さんは方々に転勤し、3年目に残ったのは僕と係長だけ。所属する係は人数こそ増えたものの、年配でありながらこの業務に関しては未経験者だという方が半数を占め、環境がガラリと変わってしまったのです。その中にあって、同じ職場で「3年目」ということで、僕はいろいろ問題を抱える多くの事業を担当することとなりましたが、力量不足であったために、それはそれは大変なことになっていました。
遅々として進まない事業。僕の抱えている案件は進捗率も悪く、更に過去の案件から生じた問題も多く抱えることとなり、日に日に僕の心は蝕まれていくことになったのです。
周囲の係員は極めて冷酷で、しかも、一部の係員にあっては、それまで僕が過ごしてきた2年間の仕事の内容のみならず、僕にいろいろ指導してくれた方々さえもひっくるめ、僕に関するもの全てを否定するようになっていきました。
単なる嫌がらせか職場内イジメと言えばいいのでしょうか。
この性格ですので(笑)、誰にも相談することなく悶々とした日々を送るようになりました。ただ、こんなことで仕事を休んでしまっては、彼らの思うツボだと考え、我慢しながらも職場にはほとんど毎日足を運んでいました。
日に日に秋が深まり、八甲田の山頂から紅葉が徐々に広がりつつあるそんなある日のこと。その日は朝から左腕に、痺れを覚えるようになりました。後でわかったことですが、ストレスから相当血圧が上昇していたのでしょう。いよいよ痺れは止まらなくなり、ついにその日の午後休むこととなり、アパートで休息を取ったのです。しかし、僕の身体は何故か興奮状態にあったらしく、なかなか眠りにもつけず、結局まともに睡眠をとらぬまま朝を迎えました。その日は金曜日。勤務時間が終わるとともに帰宅、その夜、車で50分の距離にある実家に戻ったのです。
土曜日。仕事から解放されているハズなのに、ふとしたことで仕事のことが蘇ります。こんなことじゃダメだ、何か気晴らしでもしないと…。向かった先は、パチンコ屋でした。異変は、そこで起きました。ボンヤリとしながらパチンコ台のハンドルを握りしめていても、仕事のことが頭をよぎります。そして、パチンコ台から響く音や光を見ているうちに具合が悪くなり、心臓の鼓動がそれまで経験したことのない、物凄いスピードで脈打ち始めたのです。全身から、血の気が引いていくのがわかりました。
や、やばい。このままでは死んでしまうぞ…。
咄嗟にそう思った僕は慌ててパチンコ屋を飛び出し、車で自宅に向かいました。しかし、何かが体内から心臓めがけて襲いかかるかのように、どんどん鼓動が早くなっていくのがわかりました。千手観音が一斉にドラムを叩く、そんな感じでしょうか。
取りあえず、自宅まで持ちこたえてくれ…。自宅に着けばきっと何とかなる…。薄れ行く意識の中、息も絶え絶えで自宅に戻ると、運良く妹が家にいました。明らかなる兄の異変に気づいた妹は、たまたま自宅にあった僕の保険証を手に、僕を車まで誘導し、かかりつけの医者の元へ運んでくれたのです。
その時点で、僕の意識は既に遠のいていました。
病院に到着すると、風雲急を告げる事態と見たのか、確か僕はそのまま診察台へ促されました。横になった途端、肩口にブスリと注射の針が刺さった記憶があります。しかし、心臓の鼓動があまりに激しく脈打つため、その痛みは全く覚えていません。血圧180。脈拍200。医師がそう言ったことだけは、朧気ながら耳に聞こえてきました。どれくらい経ったのでしょう。気が付くと僕は、点滴を打たれたまま横になっていました。少しずつ心臓の鼓動が収まり始めた時、医師が僕の元に歩み寄り、耳元でこう言ったのです。
「ストレスだな。完璧にストレス。何をそんなに一人で抱え込んでるんだ?」
何も知らないはずの医師からそう言われた途端、僕の目からはポロポロと涙がこぼれ落ちました。
結果、「自律神経失調症。高血圧症、狭心症の疑い有り。」と診断されました。
恐らくその他の要因があったのかも知れませんが、敢えて医師は、僕には伝えませんでした。
その日のうちに自宅に帰りました。それまで経験したことのない早さで動いた心臓にはじんわりと痛みが残っていました。しかし、まるで嵐が去った後のようにゆっくりと、かつしっかりと、鼓動を打っていました。
僕は生きてる。取りあえず、生きてる。
当時の彼女(=現在の妻)が、慌てて家にやってきました。しかし、青白い顔ながら普通に横たわっている僕の姿を見て、何が起きたのか状況が今ひとつ飲み込めなかったようです。そりゃそうだ、事故に遭ったワケじゃないし、外傷は負っていないんだから。
結局入院することもなく、投薬治療が続けられることとなり、僕は翌週から、何事もなかったかのようにごく普通に振る舞い、業務を続けました。ただし、それまでの3割にも満たない労力で。残業は極力控え、乗り物に乗るとまた「あの発作」がやってくるかもしれない、という恐怖から、外回りもほとんどしませんでした。交渉的業務が主たるものでしたので、ハッキリ言って仕事にはなりませんでした。僕に対する嫌みばかり口にしていた係員からは「全然仕事をしないヤツ」と、更なるバッシングが繰り広げられることとなりましたが、ある日上司から別室に呼び出され「今の環境はキミにとって本当に苦痛だろうけれど、あと半年辛抱してくれ。」と言われた時は、涙が出るほど嬉しかったですし、本当に溜飲の下がる思いでした。
結局、この日を境に煙草をピタリとやめました。
そしてその後も血圧が若干高めだったり、時折言いようのない不安に襲われたりしたこともあったのですが、転勤に伴うさまざまな環境の変化とともに、症状は徐々に収まっていきました。
しかし、この時期になると必ずと言っていいほど「あの日」のことを思いだし、時々心臓のあたりがキュンとするのです。
あの時、判断を誤っていたら。妹が家にいなかったら。
ひょっとしたら僕は、この世にはもう、いなかったかも知れません。
あの日、病院まで連れて行ってくれた妹、その後もずっと支えてくれた彼女(妻)に感謝です。
追記。当時僕をバッシングしていた人とは、今でもたまに廊下ですれ違います。あの人の姿を見かけた途端、心臓がドキッとするとともに、例えようのない不快感を覚えます(これってPTSD?)。大人げないと思いつつ、先方も僕も挨拶すら交わさない、今ではそんな関係です(笑)。

7 thoughts on “今だから話す

  1. けいこりん

    辛かったんですね・・・・。
    私は社会で働いたのはたった3年なので「お気持ちわかります」なんて簡単に言うことはできませんが、つい自分の置かれた環境とダブッてしまいました。
    私も、今でも働いていたころの夢をみます。
    すでに13年も前の出来事なのに、見ます。
    そのころの上司の事を考えると鮮明にムカムカが蘇ります。
    みんなそんな思いを抱えているんだなぁって久しぶりに考えられた日記でした。
    なんか長くなってしまってすみませんねぇ。

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  2. じゃん子

    私にはもはや笑い話(ネタ)になりつつあるあの事件。今だから思うけど、あの頃の兄は本当にやばかったよ!!
    病院の待合室で、私も泣きかけてました。先生が、「な〜に、大丈夫大丈夫!点滴一本で治るから!」なんて励ましてくれたけど、本当は結構ひどかったんだよね・・。あの待合室での時間が長かったこと長かったこと・・。鮮明に覚えてるわ。
    兄に勧められて買った「過労自殺」という本を今もたまに読み返してはゾッとしています。そんな本勧める時点で、兄、やっぱりヤバかったよなぁ、って!
    いろんな病気に侵された知人に会うたびに、我が家族の健康だけが救いって、本当に思います。思い出は思い出として。明るい未来を信じて頑張ろうぜぃ!
    そういえば、救急車を呼ぼうとした私に、「こ、これで病院に連れてってくれ!」と言って渡した財布・・。すごい大金入ってたよね。パチンコでどれだけ買ったんだ?

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  3. へなこ

    うん。皆、いろいろ歴史があるのだね、、、。
    元気なnonveyさんにお会いできて良かったです。これからもお互い頑張って行きましょう!
    あたしゃ、あなたにどれだけ救われたか分かりません!元気で居てくれてありがとう!

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  4. nonvey

    辛くなかった、といえばウソになります。しかし今思えば、あの出来事というのは多分、新採用の頃からちやほやされ、天狗気味になっていた僕自身に対する、戒めの意味があったんだろうと思います。今は何の接点もない当時の係員は、多分そういう「役回り」で僕の前に現れたんだろうと、都合のいいように解釈しています。事実、あの当時の経験や体験は、確実に活かされていますからね。
    ちなみにその後、ちょっとした霊能者の方にお話を伺ったところ、僕には強い守護霊が付いている、といわれました。しかもその守護霊は、とても身近な人だということがわかり、今こうやって生きていく励みにもなっています。
    ちなみにあの時、パチンコで稼いだ金は2万7千円でした。金額はハッキリ覚えています。
    それから、一つ思い出したこと。途中フラフラになりながら薬局に立ち寄り、「救心下さい!」と言うところを間違えて「宇津救命丸下さい!」と言ってしまったのでした。ワハハ

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  5. mayte

    大変なことがあったんですね。
    事態の重さはまるで違うのものかもしれないけれど
    私がパニック障害の発作が出るときに似ています。
    結局、一度そんな目にあうと
    またそうなるんじゃないかと言う、不安神経症を併発してしまったりして、更なる発作を呼び込んでしまうという悪循環に陥りがちなのですが
    nonveyさんは、本当に強い人なんですね。
    最近は症状がすっかり沈静化していて
    電車にも普通に乗れるようになりましたけど
    前は電車に乗るだけで鼓動が早くなって、息が苦しくなって眩暈がしたりしたものでした。
    ストレスって、表面に現れづらい。
    とくにnonveyさんのように強い人のは。
    それが危険なんですよね。本人も『ドンぐらいの酷さか』って言うのが今いちわからなくて。
    本当に無事でよかった。
    その時の辛さはnonveyさんをまた一つ強く大きくしたんでしょうね。
    でも今度は、溜め込む前にちょろちょろとまた、吐き出してくださいね!

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  6. nonvey

    電車に乗って鼓動が早くなる、というのはよくわかります。暫く車に乗るのも怖かったですから。そう思うと、症状はかなりパニック障害にも近かったのかも知れません。
    僕は、皆さんが思っている以上に他人の意見に左右されやすく、かつそれを意識するといった、とてつもなく脆い人間だと思っています。でも、確かにあの経験があってから少しだけ強くなれたような気がします。ただ、強そうに見えるとすれば、それは単なる見せかけだけで、自分で言うのも変ですが、とてもナイーブで繊細なヤツだと思っています。
    当時は、インターネットもまだそれほど普及していませんでした。
    今はこうやって自分でHPを運営管理し、その中でこうやってブログという形のはけ口があるだけでも、僕にとっては救いだと思っています。
    直接お顔を拝見した人はごく僅かですが、こうやっていろんなメッセージを拝見し、癒されるだけでも、物凄く大切なことなんだと気づかされています。

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  7. 通りすがり

    自分も持ってましたが、脈拍200ともなると
    発作性上室性頻拍という不整脈ではないのでしょうか?

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