友人Y君のこと

歌手の本田美奈子(本名工藤美奈子)さん(37)が急性骨髄性白血病のため東京都内の病院に緊急入院したことが13日、明らかになった。
所属事務所によると、昨年末から風邪のような症状が続き、数日前、受診したところ、12日になって病気が判明、そのまま入院した。約6カ月間の入院治療が必要という。
本田さんはことし、デビュー20周年。コンサートツアーのほか、3月から東京・帝国劇場で始まるミュージカル「レ・ミゼラブル」の出演などを予定していた。
本田さんは「1日も早く復帰できるよう頑張りたい」と話しているという。

最近では、お笑いコンビ「カンニング」の中島忠幸が良性の「急性リンパ球性白血病」であることが発表されたばかり。
かつては渡辺謙や吉井怜も闘病生活を送った白血病。どうか闘病生活に打ち勝ち、復帰されることをお祈りしております。
…実は私、「白血病」に関しては、一生忘れることの出来ない悔悟の思い出があります。勢いに任せて綴っていたら、物凄く長文になってしまいました。


Y君とは、高校2年の時に初めて同じクラスになり、以降高校を卒業するまで同じクラスでした。それほど仲が良かったというわけではないのですが、彼は将棋の達人として名を馳せ、高校時代には県大会でも常に上位入賞を果たすという、かなりの腕前でした。
二人とも大して勉強が出来たワケではないのですが、これまた偶然といいましょうか、地元にある大学の同じ学科に入学することとなりました。それを機に、急速ではないにせよ徐々に接近、同じ講義を履修したり、一緒に昼食を取るようになりました。
恥ずかしい話、私はあまり大学に足を運んだ方ではない(つまりよくサボっていた)のですが、彼は私以上に大学に来ないヤツでした。よって、決して知人友人が多いというわけではなく、他の友人にY君の話をすると、「誰?それ」と言われるのがオチでした。ただし、彼についての説明を繰り返すうちに「ああ、あの色白で眼鏡の…」という風に認識されていたようです。
3年次からは、Y君は私と同じゼミに所属することとなりました。これは別に奇遇ではなく、Y君が私に「何処のゼミを希望するの?」と確認してきたからだと今でも思っています。
しかし、Y君のサボり癖は相変わらずで、ゼミをすっぽかすこともしばしば。心配になり、私がY君宅に電話をするということもよくありました。不幸中の幸いといいましょうか、4年次後期からゼミの教官がカナダに行くこととなり、ゼミは自然消滅することとなりました。このことで結果的に、単位は全員取得することができ、ホッと胸をなで下ろしました。
この頃には、まだ就職も決まっていなかったのですが、私は何の気無しに受けた県、そして弘前市の採用一次試験に合格。実はこの時、Y君も県の一次試験を通過しており、私以上に「奇跡だ」と笑われたものでした。
県の採用二次試験の前に、健康診断を受けるよう指導がありました。指定された日時に保健所へ出向くと、基本的な診断の他、血液検査も行われました。実はこの検査が、私とY君の明暗を分けることとなりました。
この日を境に、Y君の姿をほとんど見かけることがなくなりました。二次試験の会場にも彼の姿はありませんでした。彼の実家は米穀店。ヒョッとしたら他にいい就職先でも見つかったのだろう、と思っていたのですが…。
噂を耳にしたのは、私が県の二次試験を通過し、4月から公職に就くことが決定した直後でした。
「Y君が、白血病で入院しているらしい。」
事実関係を確認しようにも、私は何だか恐れ多くて、Y君の自宅に連絡することができませんでした。いや多分、事実を確認することに臆病になっていただけかも知れません。自分だけ県の採用試験に合格したということが、何となくそういう行動を起こすことの足かせとなっていたことは紛れもない事実です。
その後いろんな情報から、噂が真実だということが判明しました。しかし、入院先までを知ることはできませんでした。
当然、大学の卒業式の日にも、Y君の姿はありませんでした。
大学を卒業した私は青森市内の公所に配属され、3年間勤務。1年目こそ、思い半ばで倒れ現在も闘病しているY君の分まで頑張る!と本気で思いましたが、2年、3年と時が経つにつれ、Y君のことが自分の意識の中から薄れて行きました。
平成8年4月。某公社に派遣され、八戸市へ転勤。そして同月末には結婚。新婚で単身赴任という変則的な夫婦生活が始まりました。
配属されて1年目の夏。
その日も、朝から照りつけるような暑さ、そして抜けるような青空が広がっていました。
毎朝職場で必ず目を通すようにしている新聞には、青森市でねぶたまつりが賑やかに行われているといった内容の記事が踊っていました。
そんな中、久しぶりにY君の名前を発見したのです。
鈍器で頭を殴られたような感覚。青天の霹靂とは、こういうことをいうのでしょうか。
彼の名前は、黒い四角の中に囲まれていました。8月2日に永眠し、通夜お葬式が行われるというお悔やみの広告だったのです。黒い囲みを見て、私の頭は一瞬真っ白になりました。
えっ…ウソだろ…。
信じられませんでしたが、それは紛れもない事実でした。白血病に倒れ、闘病生活が始まってからまもなく5年目を迎えるという時の、突然の訃報でした。
いてもたってもいられない状況、飛んででも駆けつけたい思いでした。何故だ。どうしてだ。今頃一緒に県の仕事をしていたはずなのに。走馬燈とはまさにこのこと、いろんな思いが頭の中を駆けめぐりました。
しかも、お通夜とお葬式の日は、どうしても抜けられない予定が既に入っていたのです。どうにかしたいがどうにもできない。悔しい。本当に悔しい。会って、最後のお別れをしたいのに。ぶつけようのない、自分に対する怒りがこみ上げてきました。
でも、その時ふと思ったのです。もちろん言い訳や自惚れに過ぎないのですが、これはきっと、「僕の分も仕事してくれよ」というY君からの最後のお願いなのだろう、と。
お通夜に参列した友人によると、憔悴しきった親御さんの姿が実に痛々しかったとのこと。私には、そんな親御さんにかける言葉もなかったかも知れません。見舞いにも行かず、お悔やみにも来ない冷淡な「同級生」と思われているかも知れません。無理をしてでも駆けつけるべきだった。お前それでも同級生か?友人じゃなかったのか?次々沸き起こる懺悔の思い。私の心の中で、このことは今でも大きな傷として残っています。
気がつくと今年の夏は、あの暑かった日からちょうど10年目を迎えます。
今日こうやって彼とのことを綴ってみて、再び彼の思い出に浸っています。そういえば私は、彼の分も…という思いでこの仕事を頑張っていたんだ。すっかり忘れてた。初心忘るべからずとは、まさにこのこと。
「Y君、ホント久しぶり。こっちは元気でやってるよ。」
今年の夏は、これまでの不義理を詫びるとともに、彼の墓前にそっと花を手向けたいと思います。

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