精神鑑定

昼休み、生協に注文した「冷やし醤油ラーメン」なるものを食べています。実に微妙です。チープな味です。変なものを注文してしまったと後悔しきりです。
と、ラーメンの話をするように臭わせておきながら、今日も違う話題です。
最近、養老孟司氏の本をよく読んでいます(といっても、3冊読んだだけですが)。もちろん最初は「バカの壁」に始まり、続編とも言える「死の壁」を読み終え、今読んでいるのは「真っ赤なウソ」。
実は、「バカの壁」がバカ売れし、次いで「死の壁」が出たときには、「あぁ、こりゃ永六輔と同じパターン(「大往生」に始まり、その後続編が途切れなく発刊された例)かなぁ」と思ったのですが、さすが養老博士、そう易々と出版社のトラップにはまることはなかったようです。
で、これら著書の中で、凶悪事件における犯罪者心理と言うんでしょうか、例えばオウム真理教、麻原被告に帰依する人たちの思想や、宮崎勤のような凶悪犯人の心理にちょっとだけ触れている場面があります。
昨日も、加古川市でとんでもない惨殺事件が起きてしまいました。片や長崎の女子児童殺害事件。加害者児童の事件後の発言を巡り、「責任能力」を問う声が上がっています。
最近は、加害者の若年化や事件の凶悪化により、加害者の「精神鑑定」を行う機会が増えているように思われます。養老博士に言わせると、これも宮崎事件をきっかけに増えたとのこと。大阪の小学校乱入事件然り、神戸の児童殺傷事件然り、いずれも「精神鑑定」が行われました。恐らく、今回の事件に関しても、まだ犯人は逮捕に至っていないわけですが、回復を待ち逮捕、起訴されると、弁護側は精神鑑定を求めることでしょう。しかしよく考えてみると、「人を殺す」という時点で【まとも】な人間とは思えないわけですが、見方を変えると、殺そうと思って死に至らしめているという点においては、極めて冷静沈着な精神状態で殺人が行われたのではないか、という気がするのです。では、いったいなぜ鑑定をするのか。弁護側が精神鑑定を求める目論見としては、精神障害(犯行時には心神耗弱だった、とかいうヤツ)を理由に減刑あるいは無罪まで持って行きたいということ。ただ、先も述べたとおり、人を殺すくらいの「分別」があるわけですから、むやみやたらと「精神鑑定だ」と事を進めようとするのは、いかがなものかと思うわけです。むしろ、短絡的に何でもかんでも精神鑑定だと持って行こうとする弁護士やその他周囲の人たちの精神状態こそ、実は一番不安定なのかな、なんて思ったりして。
と、偉そうに書いてみました。
あんた、人殺ししたことあるのかよ、と問われそうですが、そんなことがあるわけない。
じゃぁ、犯人の心理、精神状態なんてわかるわけないだろう、と突っ込まれそうですが、その通り。わかりっこありません。
しかもこの問題、とてもデリケートな問題だから、ホントはここで私見を述べるべきではないのかも知れません。でも、私の書いたのを読んで「あ、そういわれればそうかも…」と思う人が一人でもいれば、僕は今日この話題を持ってきた意味があるわけです。もちろん「そう思わないよ」という人でも、心のどこかに疑問符を抱いて頂ければ、それだけでこの話題を持ってきたという意味があるのです。
つい先日、青森市内でも殺人事件がありました。犯人はどうやら夫のようでした。でもその夫は事件後姿をくらまし、山中で自殺体で発見されました。夫は一体、どんな精神状態で妻を殺害し、そして自分を死に至らしめたのでしょう…。
と、書き終えたところに、一枚の紙が。
「ねぶた期間中は極力時間外勤務をしないこと」(理由:ねぶたまつりを中継しているケーブルテレビの映像に時間外勤務の模様が映り、視聴者から「いかがなものか」と苦情が届いたので)
凄いですね。こんな理由で時間外を制限されては、終わる仕事も終わらないことでしょう。何か、呆れてモノが言えないというか、開いた口が塞がりません。本末転倒も甚だしい。こんな文書回す方が「いかがなものか」ですな(もっとも、僕はいつでも極力定時退庁なので関係ありませんが)。

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