自死遺族として生きるということ


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今日のタイトルの内容は、知っている人は知っている話。
僕自身このことを隠しているつもりはないし、これから先も隠し通そうなんて思っていない。ただ、こういうことというのはなかなか口外するのが難しく、そのことがまた変に同情を誘っているのではないか、と思われるのもイヤで、なるべく文字や言葉にするのを避けてきた。また、逆に周囲の人は気遣って、腫れ物に触らないようこの話題から避けていた、ということもあったのかも知れない。
少なくとも、「オレさ、自死遺族なんだよ。へへへ~。」なんて明るく振る舞う人なんてどこにもいないはずだ。

でも、社会問題として「自殺」が取り上げられている中、何年経ったところで自死遺族は密かに苦しんでいるんだ、ということは知っていただきたく、あれから7年という年月が過ぎ、敢えて今日はそのネタを取り上げることにした。

ただ、このネタを取り上げるに当たって、自分自身相当のエネルギーを浪費し、また、推敲を重ねるうちにかなり疲弊していたことだけは申し上げておきたいと思う。

導入部として、父との別れについて触れなければならないだろう。これまでほとんど口外してこなかったこのことを、7年経った今だからこそ、改めて振り返り、そして思い返してみたい。

【前兆・予兆】
父は現職の市議会議員だった。市内をかけずり回り、色んな会合に出席し、開催される議会や委員会では、ほぼ毎回質問をしていた。その過程にあって、質問案を作成するときに、僕に意見を求めてくることも結構あった。父と僕との間には(議員と理事者側という)直接的な利害関係はなかったが、そういう形で少しでも頼られていることに、ちょっとした嬉しさも感じていた。
ところが5月あたりから、「今回は質問しないわ。」と言うようになった。まあ、質問するネタが尽きたのか、あるいは市政が健全に運営されているのか、大して気にはしていなかったのだが、今思えば、あれが予兆の一つだった。
そしてこの頃から、家にいる頻度が徐々に増え始めた。普段は会合などで家を空ける機会が多かった(というかほとんど家にいなかった)のに、土日になると家でゴロゴロする機会が多くなった。そしてそれは、「父がいない」ことに慣れていた我々からすると、ちょっとした「厄介者」「邪魔者」みたいな扱いに変わっていった。結婚式の案内状が届いても、「今日は調子が悪い。」といって出席せず、会費だけを僕に持たせて届けるという有様。そういうことも、徐々に増えていった。
さらに、僕が仕事を終えて帰宅すると、既に真っ赤な顔をして独酌でビールを飲み続けている父の姿をしょっちゅう見かけるようになった。500mlのキリンラガーの空き缶が3本。そんな姿に呆れ、父と交わす会話もほとんどなくなり、お互いテレビを観ながら無言でビールを飲み続ける。そういった機会が増えた。
…やがて、父が自宅にいるということ自体が鬱陶しいとまで思えるようになった。

だが、あとで聞いた話では、これが「鬱」の症状なのだということだった。
日々同じ屋根の下で生活している過程において、この変化が「鬱」の症状だということは、当然我々家族の頭の中にはなかった。

【更なる変化】
その後、父が出歩くのは、せいぜい父が仲良くしていたAさんからお誘いを受ける時ぐらいになってしまった。そして、Aさんからお誘いを受けて出かけた夜は、父は帰宅せずにAさんの家に宿泊する、ということがしばしばあった。もっともそれは、その予兆が始まる前から続いていたことなのでさほど気にしていなかった。

8月の「弘前ねぷたまつり」が開幕すると父は連日、弘前市役所や町内などあちらこちらのねぷた運行に参加していた。
ところがその年に限っては、町内のねぷた運行にすら参加せず、例のごとく自宅でビールを呷り続ける、という日が数日あった。
「一体何本飲めば気が済むんだよ!」と母とともに声を荒げることも多くなったが、父は相変わらず無言のままだった。

お盆明けのある日、町内の納涼会に珍しく出かけた父。が、自転車で出かけたはずの父が、帰ってこなかった。Aさんのところには行っていない。その日はAさんがいないことを聞いていたからだ。
早朝、父がいないことを告げると、「またいつものことなんじゃないの?」と誰も気に留めなかったが、自転車がないことに、イヤな予感が走った。たまたま休みだったこともあり、自転車(というか父)を探しに車で奔走した。結局自転車はあるところに停めてあるのが見つかった。そしてしばらくすると、いつも以上に真っ赤な顔をした父が帰宅。家族と会話をすることもなく、また一人で自室にこもってしまった。
が、この日の出来事で、何か父が良からぬことを考えているのではないか、という不吉な胸騒ぎを覚えることとなった。

【平成20年9月7日・最期の一日】
珍しく父が出かけるという。市内で行われる社会人野球の大会に、大会役員の一人として参加するようお誘いを受けたからだ。父の友人が迎えにやってくることになった。珍しくその日に限って、父のためにおにぎりを握った。それも、母と妻と僕の三人で役割分担を決めて。
そして、我々が握ったおにぎりとペットボトルのお茶を片手に、父は出かけた。

…そしてそれが、僕らが見た父の最期の姿となってしまった。

昼過ぎ、妻と買い物に出かけながら、なぜか平川市尾上にある猿賀神社に立ち寄った。中学校時代以来だったので、四半世紀ぶりぐらいに訪れた。既に蓮の時期は過ぎていたが、一輪だけまるで枯れそびれたような立派な蓮の大輪が、見事に咲いていた。何でこんなところに足が向いたのかはわからなかったが、それも思い返せば「何かの予兆」を察知したからだったのだろうか。

…夕方、父から電話があった。一緒に球場に出かけた方と、飲んでから帰るという。
普段そんな電話なんかしないのに、変なの。…と、誰も気にも留めなかった。

…が、その数時間後、父は自らこの世に別れを告げた。

その頃我々は、特に気に留めることもなく、3人で晩ご飯を食べていた。犬たちも含め、何事もなく静かな夜だった。

【平成20年9月8日・青天の霹靂】
翌朝、またしても父の姿がなかった。またいつものことだろうと気にすることなく出勤。この日は関連団体への定例の検査があったため、職場に到着するやすぐに移動を開始。五所川原市金木へと向かう車に同乗していた。
9時過ぎに、携帯に着信があった。発信者が母であることを知った途端、胸騒ぎというか、僕は何が起きたのかを察知してしまった。
電話に出ると母は、聞いたこともないような嗚咽を漏らしながら、父が亡くなったことを僕に伝えようとしていた。
激しく寄せては返す動揺を必死に隠し、同乗者に「父が亡くなりました。」と伝えた。

「ええっ!?」
僕より動揺する同乗者。しかし、その時点で僕の頭の中は真っ白になっていた。何をどうすればいいのか、完全に動転していた。「どうすればいい?」と聞かれ、「取りあえずタクシーに乗りたい」と告げたが、どこに行けば乗れるのか、全く浮かばない。今思えば最寄り駅に行けばいいだけの話だったが、それすらも思い浮かばなかった。
本来向かうべき方向と異なる方向に進む車。その間僕は、妻や妹、親戚など、思い浮かぶところに片っ端から電話を掛けていた。
結局浪岡駅まで乗せてもらい、そこからタクシーで弘前に急いだ。「とにかく冷静に。オレがしっかりしなければどうする。」そのことばかり考えていた。

父が発見されたところに到着すると、見慣れぬ警察の車両や、なぜか他の方々の車がたくさん停まっていた。既に妻も到着していた。狼狽した母が、警察の事情聴取を受けていた。僕の姿を見るなり、泣き崩れる母。この時ほど母が小さくなったと思ったことはなかった。
母の肩を抱き、悔しさと悲しさとやりきれなさをかみ殺しながらまた思った。
「オレがしっかりしなければどうする。」
動揺を必死で抑え、警察の事情聴取を受けた。
程なく、警察官が「ここじゃあれだから」と、自宅で事情聴取を行いたいという。
そういえば父は、どこに?
間もなく、白いシートを被せられた父が担架に乗せられ、警察の車両に押し込められた。白い靴下の底が、真っ黒に汚れていた。

【なぜ、どうして?】
現職市議の自殺というスキャンダルは、あっという間に弘前市内を駆け巡ったらしい。知り得た情報を口外してはならないはずの立場の人が守秘義務違反を犯し、そしてその情報をあちらこちらに漏洩した関係者がいたことも知っている。更に、その情報を嗅ぎつけたスピーカーが、弘前市内全域に喧伝したような勢いだった。
無言の父と帰宅。そして、ようやくその姿と初めて対面した。まだ赤ら顔をした父は眉間に皺を寄せ、ちょっと難しそうな顔をしていた。

…なぜだ。どうして。悲しみより怒りがこみ上げて仕方がなかった。

義母がやって来た。妻と僕は、義母から「お前たち、何やってるの!何でこうなったの!」と激しく叱責された。
その直後に、情報が錯綜し、こちらが混乱していることなどお構いなしで、マスコミからの取材攻勢が始まった。電話はもちろん、直接訪問してくるマスコミ関係者、更にはどさくさに紛れて家に上がり込もうとするとんでもない輩もいた。
挙げ句の果てに、遠巻きに家の外で待機しながら、話を聞きつけて家にやってきた人の帰りを狙って、何が起きたか話を聞いているマスコミ関係者の姿もあった。
こちらはそれどころではないのに、マスコミってホントにハイエナみたいな連中だな、と思った。
そして、無神経で非常識なマスコミの連中が、心底大嫌いになった。(このことから、未だにマスコミ不信は拭えていない。)

僕の仲間が自宅にやって来た。彼が父の訃報をどこからリークしていたのかは知っていた。がしかし、思わず「どこからこの情報を聞いたんだ?」と詰め寄った。彼は口をつぐみ、お茶を濁した。

多分、この時ほど弘前という街全体を憎み、嫌悪感を抱いたことはなかっただろう。弘前ってこんなにイヤなところだったっけ、と疑心暗鬼を抱かざるを得なかった。
続々と情報を聞きつけてやってくる人々。とうとう玄関から靴が溢れた。中には「なぜ?どうして、どうやって発見されたの?誰が発見したの?遺書は?」と、マスコミばりに詰問してくる人もいた。もはや僕には、誰の言うことも信用ならなくなっていた。

昼頃、妹が東京から帰ってきた。妹の顔を見るなり母は激しく泣き崩れ、僕はこういう事態を招いてしまったことに、ただただ謝るしかなかった。

その後、文字通りあっという間に葬儀の段取りがされたが、何が起こったのか咀嚼できぬまま、僕の心の中にはただただ「怒り」ばかりが渦巻いていた。気がついたら、親戚一同が集まっていた。僕は、弔問客(そしてそれは興味本位でやって来た人達も含む)への対応に追われることとなり、その日は、ほとんど眠ることができなかった…。

【怒りから悲しみへ】
喜怒哀楽。
楽しければ喜ばしいし、喜ばしければ楽しい。
哀しければ怒るし、怒ると哀しい。

当時の僕の心境は、この四字熟語が、全てを物語っている。
怒り心頭だった前日から一転、この日はずっと泣いていた。いくら泣いても父が戻ってこないことは百も承知だった。でも、泣くしかなかった。棺に収められた父の顔は幾分穏やかになっていた。客足が途絶えると、棺に向かって無言の会話をしようと試みたが、当然のことながら父は一言も話してくれなかった。

直後に、妻が倒れた。予期せぬ事態に見舞われた結果、過労によるものだったようだ。僕なんかと結婚していなければ、こんな辛い目に遭うこともなかったのに…と本気で思ったし、こういう事態を招く一端となった自分を責めた。この時ばかりはただただ、妻に申し訳ないことをしたと思った。

総じて見るとこの間、僕はずっと自分自身を責めていたような気がする。もっともその自責の念は、今も完全に払拭されたというわけではない。

【父が遺してくれたもの】
その後、皆さんの力を借りながら、滞りなく全ての物事が執り行われ、弘前はまるで何事もなかったかのように普段の落ち着きを取り戻した。…いや、我々だけが嵐のような日々を過ごしたというだけのことで、弘前は別に何も変わっていなかったのだ。

結局、父からのメッセージ(遺書)は見つからなかった。元々我々に対しては無口な人だったので、何も言わなくても何でこうなったのか、お前らならきっとわかるよな、という謎かけをされたような気分だった。
ただ、こういう時には一人では何もできないということを痛感したし、父が持っていた幅広い人脈が、本当にありがたいと思った。
そしてこの人脈こそが我々家族に対する父からの遺産であり、今でもその遺産を大切にしている。

人の噂も七十五日とはいうが、あっという間に我が家の周囲も静寂を取り戻した。
しかしながら、しばらくは元のペースに戻ることができず、仏壇の前に座っては父に語りかける日が増えた。
ある人によると、僕の様子をちゃんと見た方がいい、と助言をした人がいたらしい。つまり、父の後を追って逝ってしまうのではないか、という懸念があったようだ。残念ながら僕には、そんな決断をする勇気なんてないし、そもそも微塵たりともそんなことを考えたことはなかった。

あれから7年という月日が流れた。
これまで明らかにしていなかったことも含めてあの前後に何が起こったのかを、長々と綴ってみた。もちろんこれで全てではないし、ここには書き切れないこと、書けないこともあるということをご了承いただきたい。

そしてここからが、是非皆さんに知っていただきたいことである。

【自死遺族として、生きるということ】
僕にとって一番辛い質問が、「お父さんの後を継いで選挙に出るんですか?」ということだった。
父がなぜ自ら命を絶つに至ったのかは、7年経った今となっても知る由がない。しかしながら、議員であり続けることへのプレッシャーがあったことは、傍で見ていて何となくわかっていた。
直接的な引き金ではないにせよ、既に7年も経ってしまった中で、今更父の後継として選挙に立つわけもなく、そのつもりもない。大体にしてそういうところに身を置く気になれないのだ。

なので、僕に対してこの質問は「愚問」であり、実は一番聞きたくない質問だったということを今だから明かそう。…ただ、亡くなった直後は出るべきなのだろうか、とマジメに考えたことがあったことは事実だ。

実は、父が亡くなった直後に「父の意志を継いで頑張りたいと思います」…としたり顔で公言した議員が何人かいたことを僕は知っている。他人の不幸でさえも自分の票に変えようというそのイヤらしさに、ほとほと議員という仕事に嫌気が差した、というのが正直なところだ。
その方々とは不幸中の幸いで直接対峙しなかったが、一度お目にかかった暁には、是非とも「あの時貴方が語っていた父の遺志って何ですか?」と詰問したいと本気で考えていた。

意外と何でもないような些細なことで、実は結構傷ついているものなのだ。

【他人事と思うことなかれ】
皆さんの周囲で、塞ぎ込んでいる人、あるいはそういう兆候が見え隠れしている人はいないだろうか。アクティブに活動していた人が徐々に出不精になったり、おしゃべりだった人が、何も話さなくなったり。

ちょっとした変化にいち早く気づいてあげること、そして場合によっては心療内科などでの診察を受けさせること。近くにいる人ほど、些細な変化には気づかないものだ。だから、周囲にいる人達がそういった変化に気づいたときは、言いづらいことでも教えてあげた方がいい。少なくとも僕の周りでは、父の変化に気づいていた人が何人かいたけれど、誰もその変化を教えてはくれなかった。後になってから「実は…」という話で聞いた。「実は…」となっては、遅すぎるのだ。

気づいた時には、もはや手の付け所がなかった、ということにならないように。

若年層の自殺の記事を目にするたびに、なぜ遺族の心情も考えず周囲に対する過剰な取材をするのだろうか、と思う。いじめが原因となれば犯人探し、生活困窮者が自殺をすれば社会が悪いと煽り、叩く。
正直、そっとしておいて欲しいと思っているはずだ。だから僕も、ほとぼりが冷めるまでしばらく家から出なかった。仕事場では平静を装っていたが、内心はずっと後ろ指を指されているのではないかと怯えていた。母は、買い物に行くことすら嫌がった。自死遺族として人目に晒されるということは、本人たちにしてみれば神経をすり減らすということなのだ。裏を返せば、自死遺族であるということを、周囲が思っている以上に当の本人が気にしていることの現れなのだろう。

自殺者の数が昨年と比べて何人減ったとか、そういうのはハッキリ言ってどうでもいい。
かといって、そうならないように対策を講じるって凄く難しい。そもそも、そういうことを考え始めた人を思いとどまらせるのは、実はとても難しいことだと、僕は思っている。例えは悪いが僕は、父が「死に神に取り憑かれた」と思い込んでいた。
いくら思いとどまらせようとしたって、やってしまう人はやってしまうのだ。

これからも一緒に生きていくために、相手の言葉に耳を傾けよう。目を見てあげよう。

【死ぬな。死ぬことを考えるな。】
人それぞれ「死」に対する考え方は異なる。そして「死」と向き合うことって、とても難しいことだと思う。
今年の5月、義父がガンのために約5年半の闘病を経て他界した。晩年というか、「もうダメかも知れない」と聞かされて1か月もしないうちにあっという間に衰弱し、この世を去ってしまったのだけど、死を受け入れる準備はしっかりできていたらしい。だが、これは闘病生活を経てのことであり、自死とは全く異なる。

人間誰しも塞ぎ込んだとき(そしてそれは八方塞がりで逃げ道がないとき)、「死」を意識せざるを得ない状況に陥ることもあるかも知れない。だが、その暗闇の中でピンホールを見つけ、そこから「生きていく術」を見つけることが非常に大事なことだと思う。

死ぬ勇気を振り絞るぐらいなら、生きる勇気を振り絞ろう。
死ぬことを考えるのではなく、生きることを考えよう。

【変わらず普段どおりが一番いい】
僕は別に自死遺族を代表してメッセンジャーになる気はないし、所詮こんな内容は関係ない人にとって何の関係もないことだろう。だから、果たして今日のこの投稿が何の意味があるのかは、正直僕にもよくわからない。

ただ、実は自死遺族はこういう苦しみを抱えていることを知っていただきたいと思っただけのことだ。

何だかんだ言って、自死遺族が一番強く願っていることは、多分こういうことなんじゃないかな。

故人が亡くなる前と同じように、普通に接して欲しい。

7年経った今、改めて父の遺した様々な足跡に触れ、その偉大さを噛みしめている。
そして生前父がお世話になった人達に対して、きちんと御礼をしなければならないところ、それすらもまともにできていなかった無礼を詫びなければならないと思っている。

こうやって当時のことを冷静に振り返ることができるようになっただけでも、僕の心の傷は少し癒えたらしい。
僕の中で父は、今もしっかりと生きている。
自死遺族であることにこれから先も変わりはないが、素晴らしい父親に恵まれたことを愚息として誇りに思いながら、これからも父とともに生き続けて行こうと思う。


投稿者: のんべ

1971(昭和46)年 青森県生まれ。弘前市在住の青森県職員。 プリンスとビールと豆腐とラーメンを愛する。安いカメラでいかに安っぽくない写真を撮影するかに興味あり。 ブログの内容の多くは、いつの間にか趣味となった「走ること」がメインです。

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