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当たり前なこと、当たり前じゃないこと -オヤジの命日-

最近、空き地や空き家、リフォームされた建物が多くなったと思う。

コンビニエンスストアを改装した建物だけは、そこにコンビニがあったということを認識することができるけれど、毎日通っている道端にあった建物が突如として消えた時、そこにあった建物が一体どんな形状をしていたかということを思い出せなくなることが多くなった。

この世の「当たり前」が、いつか「当たり前」じゃなくなることなんてざらにある。

逆に「当たり前」じゃなかったことが「当たり前」になってしまうこともある。

そもそもその「当たり前」が一体何であったかを忘れてしまうってことって、ないですか…。

(高校2年生、安比高原へスキーバカンスに訪れた時の写真。恐らくオヤジが飲んだチューハイの缶なんぞが前にありますが…)

オヤジがこの世を去って9年の月日が流れた。

何年経っても忘れることのない、オヤジの声、そして臭い。

自分がオヤジに似ているという自覚は全くなかったのだけれど、最近、ちょっとした振る舞いや仕草、言葉遣いの端々に、オヤジの影を感じるようになった。

そして、気付いたらそんなオヤジのような振る舞いをしている自分が何だかちょっと恥ずかしくなり、独りで苦笑いする機会が増えた。

考えてみると、オヤジが今の僕の年齢(46歳)だった時、僕はちょうど社会人としての第一歩を踏み出した時だった。

あの頃を振り返ってみても、僕は全然オヤジの域に達していないんだな、ということを痛感する。

あれから24年が経ち、まさか今自分がこういう生活を送り、そしてオヤジもあちらの方に既に旅立っているなんて、誰も考えていなかったことだろう。

そりゃそうだ、オヤジがいること自体が僕にとっては「当たり前」だったんだから。

社会人として15年目、部局間を転々とするような異動が続いていた頃に、オヤジの突然の訃報に接した。

まあ、この時の顛末については、2年前になってようやく記事にする決心がついたので、そちらをご覧頂くということで。

自死遺族として生きるということ

まさにどん底に突き落とされたような精神状態だった当時、変に気遣うこともなく、普通に接してくれた同僚の皆さんには救われるような思いだったし、本当にありがたかった。

あの頃は、普通に接してもらうのが、一番の薬だった。

逆に、すぐ身近にいる友達の方が接しづらそうにしていたのが、何だかちょっと申し訳なくもあり、こちらも辛かった。至って普通のつもりだったのに。

あれから9年という月日が流れたが、僕はこの9年間で何か成長したんだろうか、という自問自答。

実のところ僕は、何の成長もしていないんじゃないかと悶々としながら頭を抱えている。

オヤジに少しでも追いつくことが僕の人生における最大のテーマであり、いわば人生の目標でもある。

そのオヤジの背中は、最近近づくどころかどんどん遠くなっているような、そんな気が。

でも、振り返って考えてみると、それって自ら撒いた種に水やりをせず、枯らしてしまったからなんだよね。

そこに至るまでの経緯については色々思うところがあるけれど、苦い経験として胸にしまっておこうと思います。

(婆さんの傘寿のお祝いを兼ねた新年会だったかなあ。今頃オヤジはあちらの方で、婆さんが手にする杖でフルボッコにされていることでしょう…嗚呼)

9月7日はオヤジの命日。でも、自分の中では、いなくなった今日がオヤジの命日。

オヤジの生きた年齢まであと14年。オヤジの凄さは既に何度も実感しているけれど、その年齢になってみて、改めて凄さを実感するんだろうか。

そこに居て「当たり前」がいなくなって9年。

既に居ないことが「当たり前」になりつつあることが、ちょっと悲しい。

笑顔の裏に、時々隠している悲しみ。

作り笑いの裏に隠している、誰にも知られたくない深い苦しみ。

また昔みたいに、ビール飲んでグダメギながら、何だか七面倒くさい話でもしたいな、って時々思う。

ふと思い立って昔の写真を見ながら献杯。

しかし、今更ながらオヤジと一緒に撮影した写真がほとんどないということに気付いて愕然とした。

皆さん、親御さんと写真、撮影していますか?お子さんと写真、撮影していますか?

居なくなって感じる空虚感。思い出はあるに越したことはない。今も、後世にとっても。だからこそ記憶だけじゃなくて、記録も絶対残しておいた方がいいです、絶対に。

(日付を見ると今から13年も前の写真。この日のことははっきり覚えている。けれども恐らくこれが、オヤジと一緒に撮影した最後の写真だろうか…。)

…オトン、たまには顔出してケロじゃ。

合掌

8年目の9月7日

9月7日、父が他界してから8度目の命日を迎える。4日の日曜日は、朝早くから妻と母と墓参りに行き、父や先祖の眠る墓前に花を手向けた。

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不思議なもので、父が亡くなった前後のことの記憶は今でもハッキリ覚えているくせに、2年前の七回忌法要のことについては全く自分の記憶から抜け落ちていて、墓前で妻や母と話をしながらその時の記憶を呼び起こそうとしたが、法要に誰が同席して、その後どこで何をしたのか、まるっきり記憶が欠落していることを知り、愕然とした。

父は普段は多くを語らない人間だったが、アルコールの勢いを借りると雄弁になり、時としてそれは他人を不愉快にしたり、傷付けたりすることもあった。
そんな父の姿を目の当たりにするたびに、父のようにはならないぞ、と思っていたけれど、ここ最近の自分を振り返ってみると、かなり父に近い素性をさらけ出している感じがして、正直ちょっと焦っている。

父は5人兄妹のちょうど真ん中だったが、幼い頃に養子縁組で今の家にやって来た。村の人から市の人になり、M家の人からM家の人になった。父は、生い立ちから母との馴れ初めまで、ほとんど自分で語ることはなかったけれど、伯父叔母や母からいろいろ聞かせてもらった。僕が物心ついた頃には、父は家を空ける機会が多かったし、晩年も家にいないことは日常茶飯事だった。それが七回忌が終わった途端、いよいよ父が「うちの人」としてちゃんと居るべき場所に戻ったような感じがしている。

しかしながら父の没後8年経ってもなお、未だに父に関して知らないこと、わからないことがたくさんある。
別に父の全てを知り尽くそうというつもりはないが、父がこの世に存在したという足跡を辿ることが、愚息としての一つの使命なんじゃないか、ちょっと大げさに言うならば、生きとし生ける者として故人の思い(想い)を紡いでいくことが、最大の弔いなんじゃないか、と勝手に思い込んでいる。だから、市内はもちろん全国各地に足を運ばなければならないところが、まだまだたくさんあるのだ。

_20160904_124637(晩年、父が足繁く通っていた弘前市郊外の飲食店の名物「冷たいラーメン」。ここを訪れるようになったのは、父が居なくなってからだった。)

今年の6月頃から、盲人ランナーであるAさんの伴走で、時々一緒に練習しているが、Aさんと父はかつて、同じ時期に青年会議所活動に従事していた。Aさんは、僕がまだ知らない父のことを知っていたし、「これはあなたのお父さんが繋いでくれたご縁だ。」と言って喜んで下さった。些細なことであっても、伴走している途中で父の話題になるのは、嬉しいものだ。

父の死のことについては以前このブログに投稿したとおりだが、今もなお連日のように、とあるキーワードで検索した結果、このブログに辿り着いている人がたくさんいることを知っている。
例えば、こんな感じのキーワードだ。

「自死遺族 辛い」「自死遺族 結婚」「自死 父」「自死 生活できない」

裏を返せば、それだけこの世の中には自死遺族がたくさんいるということだし、そしてそのことに対する後ろめたさというか負い目というか罪悪感というか、そういう「何か」を抱えたり築いたりしながら生活している人がたくさんいるということなのだろうと思う。

僕はせいぜいこのブログで勝手に自分が思ったことを発信しているだけのことで、別にそのことを隠し立てしようとは考えたことがない。当時は地元のテレビも新聞もこぞって父のことを取り上げ、もはや隠しようがなかったということもあって、ある意味「開き直り」でもあるんだけれど。

僕と同じような境遇に遭った人達はきっと、心のどこかで慰めて欲しいと思う一方で、周囲の人達には触れて欲しくない、普段通りのまま接して欲しいという複雑な気持ちを抱えているんじゃないだろうか。
その一方で、周囲の人からすれば、一体どう接すればいいんだろうかと困惑しながら、きっと腫れ物に触るような思いで、どこかによそよそしさを隠しながら接している人も多いことだろう。
人の噂も七十五日とはよく言ったもので、自死遺族の皆さんが思っているほど周囲の人はそのことを覚えていないというのも事実。さっきも触れたとおり、「こちら側」の人はこちら側で、勝手に自分の中に壁を作ってしまっている人が結構多いような気がする。
他方、「外の人」から見ると、憎悪と悲哀に満ちあふれたその「壁」にどう触れたらいいのかわからず、困惑している、ということなのだろう。

できればタイムマシンに乗って、晩年の父と膝をつき合わせていろいろ(もちろん説得も含めた)話をしたいと思うことがある。それに、もしかしたらこういう事態を招く要因を作ってしまったのは、実は僕なのかも知れないという罪悪感に苛まれることだって未だにある。でも、亡くなってしまった者はもう二度と戻ってこないし、過去を取り戻すこともできない。一番苦しかったのは本人であり、その苦しみから自らを解き放った結果としてのことなのだから、その苦しみまでを僕たちが継承する必要は、ないはずなのだ。
…いや、実際本人が苦しみから解放されたのかどうかは知る由もないし、遺された僕たちが抱えなければならないものが少なからずあるのも事実なのだけれど。
僕自身、こういう投稿を続けることによって自分の気持ちを浄化しつつも、同じ境遇にある人達の「壁」を少しでも低くして差し上げたい、願わくば同じ境遇の人達にはいつまでも塞ぎ込むことなく、少しでも楽になって前を向いて生きていって欲しい、いや、生きていきましょう、そう願っているのは事実だ。

…などという投稿を未だにしている時点で、僕自身の心の中に築かれた「鉄壁」は、取り払われるどころか高さを変えることもなく、今も立ちはだかっているのだろうか。
あれから8年経った今も、父に対する思いが簡単に色褪せることがあるはずもなく。

合掌

自死遺族として生きるということ

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今日のタイトルの内容は、知っている人は知っている話。
僕自身このことを隠しているつもりはないし、これから先も隠し通そうなんて思っていない。ただ、こういうことというのはなかなか口外するのが難しく、そのことがまた変に同情を誘っているのではないか、と思われるのもイヤで、なるべく文字や言葉にするのを避けてきた。また、逆に周囲の人は気遣って、腫れ物に触らないようこの話題から避けていた、ということもあったのかも知れない。
少なくとも、「オレさ、自死遺族なんだよ。へへへ~。」なんて明るく振る舞う人なんてどこにもいないはずだ。

でも、社会問題として「自殺」が取り上げられている中、何年経ったところで自死遺族は密かに苦しんでいるんだ、ということは知っていただきたく、あれから7年という年月が過ぎ、敢えて今日はそのネタを取り上げることにした。

ただ、このネタを取り上げるに当たって、自分自身相当のエネルギーを浪費し、また、推敲を重ねるうちにかなり疲弊していたことだけは申し上げておきたいと思う。

導入部として、父との別れについて触れなければならないだろう。これまでほとんど口外してこなかったこのことを、7年経った今だからこそ、改めて振り返り、そして思い返してみたい。

【前兆・予兆】
父は現職の市議会議員だった。市内をかけずり回り、色んな会合に出席し、開催される議会や委員会では、ほぼ毎回質問をしていた。その過程にあって、質問案を作成するときに、僕に意見を求めてくることも結構あった。父と僕との間には(議員と理事者側という)直接的な利害関係はなかったが、そういう形で少しでも頼られていることに、ちょっとした嬉しさも感じていた。
ところが5月あたりから、「今回は質問しないわ。」と言うようになった。まあ、質問するネタが尽きたのか、あるいは市政が健全に運営されているのか、大して気にはしていなかったのだが、今思えば、あれが予兆の一つだった。
そしてこの頃から、家にいる頻度が徐々に増え始めた。普段は会合などで家を空ける機会が多かった(というかほとんど家にいなかった)のに、土日になると家でゴロゴロする機会が多くなった。そしてそれは、「父がいない」ことに慣れていた我々からすると、ちょっとした「厄介者」「邪魔者」みたいな扱いに変わっていった。結婚式の案内状が届いても、「今日は調子が悪い。」といって出席せず、会費だけを僕に持たせて届けるという有様。そういうことも、徐々に増えていった。
さらに、僕が仕事を終えて帰宅すると、既に真っ赤な顔をして独酌でビールを飲み続けている父の姿をしょっちゅう見かけるようになった。500mlのキリンラガーの空き缶が3本。そんな姿に呆れ、父と交わす会話もほとんどなくなり、お互いテレビを観ながら無言でビールを飲み続ける。そういった機会が増えた。
…やがて、父が自宅にいるということ自体が鬱陶しいとまで思えるようになった。

だが、あとで聞いた話では、これが「鬱」の症状なのだということだった。
日々同じ屋根の下で生活している過程において、この変化が「鬱」の症状だということは、当然我々家族の頭の中にはなかった。

【更なる変化】
その後、父が出歩くのは、せいぜい父が仲良くしていたAさんからお誘いを受ける時ぐらいになってしまった。そして、Aさんからお誘いを受けて出かけた夜は、父は帰宅せずにAさんの家に宿泊する、ということがしばしばあった。もっともそれは、その予兆が始まる前から続いていたことなのでさほど気にしていなかった。

8月の「弘前ねぷたまつり」が開幕すると父は連日、弘前市役所や町内などあちらこちらのねぷた運行に参加していた。
ところがその年に限っては、町内のねぷた運行にすら参加せず、例のごとく自宅でビールを呷り続ける、という日が数日あった。
「一体何本飲めば気が済むんだよ!」と母とともに声を荒げることも多くなったが、父は相変わらず無言のままだった。

お盆明けのある日、町内の納涼会に珍しく出かけた父。が、自転車で出かけたはずの父が、帰ってこなかった。Aさんのところには行っていない。その日はAさんがいないことを聞いていたからだ。
早朝、父がいないことを告げると、「またいつものことなんじゃないの?」と誰も気に留めなかったが、自転車がないことに、イヤな予感が走った。たまたま休みだったこともあり、自転車(というか父)を探しに車で奔走した。結局自転車はあるところに停めてあるのが見つかった。そしてしばらくすると、いつも以上に真っ赤な顔をした父が帰宅。家族と会話をすることもなく、また一人で自室にこもってしまった。
が、この日の出来事で、何か父が良からぬことを考えているのではないか、という不吉な胸騒ぎを覚えることとなった。

【平成20年9月7日・最期の一日】
珍しく父が出かけるという。市内で行われる社会人野球の大会に、大会役員の一人として参加するようお誘いを受けたからだ。父の友人が迎えにやってくることになった。珍しくその日に限って、父のためにおにぎりを握った。それも、母と妻と僕の三人で役割分担を決めて。
そして、我々が握ったおにぎりとペットボトルのお茶を片手に、父は出かけた。

…そしてそれが、僕らが見た父の最期の姿となってしまった。

昼過ぎ、妻と買い物に出かけながら、なぜか平川市尾上にある猿賀神社に立ち寄った。中学校時代以来だったので、四半世紀ぶりぐらいに訪れた。既に蓮の時期は過ぎていたが、一輪だけまるで枯れそびれたような立派な蓮の大輪が、見事に咲いていた。何でこんなところに足が向いたのかはわからなかったが、それも思い返せば「何かの予兆」を察知したからだったのだろうか。

…夕方、父から電話があった。一緒に球場に出かけた方と、飲んでから帰るという。
普段そんな電話なんかしないのに、変なの。…と、誰も気にも留めなかった。

…が、その数時間後、父は自らこの世に別れを告げた。

その頃我々は、特に気に留めることもなく、3人で晩ご飯を食べていた。犬たちも含め、何事もなく静かな夜だった。

【平成20年9月8日・青天の霹靂】
翌朝、またしても父の姿がなかった。またいつものことだろうと気にすることなく出勤。この日は関連団体への定例の検査があったため、職場に到着するやすぐに移動を開始。五所川原市金木へと向かう車に同乗していた。
9時過ぎに、携帯に着信があった。発信者が母であることを知った途端、胸騒ぎというか、僕は何が起きたのかを察知してしまった。
電話に出ると母は、聞いたこともないような嗚咽を漏らしながら、父が亡くなったことを僕に伝えようとしていた。
激しく寄せては返す動揺を必死に隠し、同乗者に「父が亡くなりました。」と伝えた。

「ええっ!?」
僕より動揺する同乗者。しかし、その時点で僕の頭の中は真っ白になっていた。何をどうすればいいのか、完全に動転していた。「どうすればいい?」と聞かれ、「取りあえずタクシーに乗りたい」と告げたが、どこに行けば乗れるのか、全く浮かばない。今思えば最寄り駅に行けばいいだけの話だったが、それすらも思い浮かばなかった。
本来向かうべき方向と異なる方向に進む車。その間僕は、妻や妹、親戚など、思い浮かぶところに片っ端から電話を掛けていた。
結局浪岡駅まで乗せてもらい、そこからタクシーで弘前に急いだ。「とにかく冷静に。オレがしっかりしなければどうする。」そのことばかり考えていた。

父が発見されたところに到着すると、見慣れぬ警察の車両や、なぜか他の方々の車がたくさん停まっていた。既に妻も到着していた。狼狽した母が、警察の事情聴取を受けていた。僕の姿を見るなり、泣き崩れる母。この時ほど母が小さくなったと思ったことはなかった。
母の肩を抱き、悔しさと悲しさとやりきれなさをかみ殺しながらまた思った。
「オレがしっかりしなければどうする。」
動揺を必死で抑え、警察の事情聴取を受けた。
程なく、警察官が「ここじゃあれだから」と、自宅で事情聴取を行いたいという。
そういえば父は、どこに?
間もなく、白いシートを被せられた父が担架に乗せられ、警察の車両に押し込められた。白い靴下の底が、真っ黒に汚れていた。

【なぜ、どうして?】
現職市議の自殺というスキャンダルは、あっという間に弘前市内を駆け巡ったらしい。知り得た情報を口外してはならないはずの立場の人が守秘義務違反を犯し、そしてその情報をあちらこちらに漏洩した関係者がいたことも知っている。更に、その情報を嗅ぎつけたスピーカーが、弘前市内全域に喧伝したような勢いだった。
無言の父と帰宅。そして、ようやくその姿と初めて対面した。まだ赤ら顔をした父は眉間に皺を寄せ、ちょっと難しそうな顔をしていた。

…なぜだ。どうして。悲しみより怒りがこみ上げて仕方がなかった。

義母がやって来た。妻と僕は、義母から「お前たち、何やってるの!何でこうなったの!」と激しく叱責された。
その直後に、情報が錯綜し、こちらが混乱していることなどお構いなしで、マスコミからの取材攻勢が始まった。電話はもちろん、直接訪問してくるマスコミ関係者、更にはどさくさに紛れて家に上がり込もうとするとんでもない輩もいた。
挙げ句の果てに、遠巻きに家の外で待機しながら、話を聞きつけて家にやってきた人の帰りを狙って、何が起きたか話を聞いているマスコミ関係者の姿もあった。
こちらはそれどころではないのに、マスコミってホントにハイエナみたいな連中だな、と思った。
そして、無神経で非常識なマスコミの連中が、心底大嫌いになった。(このことから、未だにマスコミ不信は拭えていない。)

僕の仲間が自宅にやって来た。彼が父の訃報をどこからリークしていたのかは知っていた。がしかし、思わず「どこからこの情報を聞いたんだ?」と詰め寄った。彼は口をつぐみ、お茶を濁した。

多分、この時ほど弘前という街全体を憎み、嫌悪感を抱いたことはなかっただろう。弘前ってこんなにイヤなところだったっけ、と疑心暗鬼を抱かざるを得なかった。
続々と情報を聞きつけてやってくる人々。とうとう玄関から靴が溢れた。中には「なぜ?どうして、どうやって発見されたの?誰が発見したの?遺書は?」と、マスコミばりに詰問してくる人もいた。もはや僕には、誰の言うことも信用ならなくなっていた。

昼頃、妹が東京から帰ってきた。妹の顔を見るなり母は激しく泣き崩れ、僕はこういう事態を招いてしまったことに、ただただ謝るしかなかった。

その後、文字通りあっという間に葬儀の段取りがされたが、何が起こったのか咀嚼できぬまま、僕の心の中にはただただ「怒り」ばかりが渦巻いていた。気がついたら、親戚一同が集まっていた。僕は、弔問客(そしてそれは興味本位でやって来た人達も含む)への対応に追われることとなり、その日は、ほとんど眠ることができなかった…。

【怒りから悲しみへ】
喜怒哀楽。
楽しければ喜ばしいし、喜ばしければ楽しい。
哀しければ怒るし、怒ると哀しい。

当時の僕の心境は、この四字熟語が、全てを物語っている。
怒り心頭だった前日から一転、この日はずっと泣いていた。いくら泣いても父が戻ってこないことは百も承知だった。でも、泣くしかなかった。棺に収められた父の顔は幾分穏やかになっていた。客足が途絶えると、棺に向かって無言の会話をしようと試みたが、当然のことながら父は一言も話してくれなかった。

直後に、妻が倒れた。予期せぬ事態に見舞われた結果、過労によるものだったようだ。僕なんかと結婚していなければ、こんな辛い目に遭うこともなかったのに…と本気で思ったし、こういう事態を招く一端となった自分を責めた。この時ばかりはただただ、妻に申し訳ないことをしたと思った。

総じて見るとこの間、僕はずっと自分自身を責めていたような気がする。もっともその自責の念は、今も完全に払拭されたというわけではない。

【父が遺してくれたもの】
その後、皆さんの力を借りながら、滞りなく全ての物事が執り行われ、弘前はまるで何事もなかったかのように普段の落ち着きを取り戻した。…いや、我々だけが嵐のような日々を過ごしたというだけのことで、弘前は別に何も変わっていなかったのだ。

結局、父からのメッセージ(遺書)は見つからなかった。元々我々に対しては無口な人だったので、何も言わなくても何でこうなったのか、お前らならきっとわかるよな、という謎かけをされたような気分だった。
ただ、こういう時には一人では何もできないということを痛感したし、父が持っていた幅広い人脈が、本当にありがたいと思った。
そしてこの人脈こそが我々家族に対する父からの遺産であり、今でもその遺産を大切にしている。

人の噂も七十五日とはいうが、あっという間に我が家の周囲も静寂を取り戻した。
しかしながら、しばらくは元のペースに戻ることができず、仏壇の前に座っては父に語りかける日が増えた。
ある人によると、僕の様子をちゃんと見た方がいい、と助言をした人がいたらしい。つまり、父の後を追って逝ってしまうのではないか、という懸念があったようだ。残念ながら僕には、そんな決断をする勇気なんてないし、そもそも微塵たりともそんなことを考えたことはなかった。

あれから7年という月日が流れた。
これまで明らかにしていなかったことも含めてあの前後に何が起こったのかを、長々と綴ってみた。もちろんこれで全てではないし、ここには書き切れないこと、書けないこともあるということをご了承いただきたい。

そしてここからが、是非皆さんに知っていただきたいことである。

【自死遺族として、生きるということ】
僕にとって一番辛い質問が、「お父さんの後を継いで選挙に出るんですか?」ということだった。
父がなぜ自ら命を絶つに至ったのかは、7年経った今となっても知る由がない。しかしながら、議員であり続けることへのプレッシャーがあったことは、傍で見ていて何となくわかっていた。
直接的な引き金ではないにせよ、既に7年も経ってしまった中で、今更父の後継として選挙に立つわけもなく、そのつもりもない。大体にしてそういうところに身を置く気になれないのだ。

なので、僕に対してこの質問は「愚問」であり、実は一番聞きたくない質問だったということを今だから明かそう。…ただ、亡くなった直後は出るべきなのだろうか、とマジメに考えたことがあったことは事実だ。

実は、父が亡くなった直後に「父の意志を継いで頑張りたいと思います」…としたり顔で公言した議員が何人かいたことを僕は知っている。他人の不幸でさえも自分の票に変えようというそのイヤらしさに、ほとほと議員という仕事に嫌気が差した、というのが正直なところだ。
その方々とは不幸中の幸いで直接対峙しなかったが、一度お目にかかった暁には、是非とも「あの時貴方が語っていた父の遺志って何ですか?」と詰問したいと本気で考えていた。

意外と何でもないような些細なことで、実は結構傷ついているものなのだ。

【他人事と思うことなかれ】
皆さんの周囲で、塞ぎ込んでいる人、あるいはそういう兆候が見え隠れしている人はいないだろうか。アクティブに活動していた人が徐々に出不精になったり、おしゃべりだった人が、何も話さなくなったり。

ちょっとした変化にいち早く気づいてあげること、そして場合によっては心療内科などでの診察を受けさせること。近くにいる人ほど、些細な変化には気づかないものだ。だから、周囲にいる人達がそういった変化に気づいたときは、言いづらいことでも教えてあげた方がいい。少なくとも僕の周りでは、父の変化に気づいていた人が何人かいたけれど、誰もその変化を教えてはくれなかった。後になってから「実は…」という話で聞いた。「実は…」となっては、遅すぎるのだ。

気づいた時には、もはや手の付け所がなかった、ということにならないように。

若年層の自殺の記事を目にするたびに、なぜ遺族の心情も考えず周囲に対する過剰な取材をするのだろうか、と思う。いじめが原因となれば犯人探し、生活困窮者が自殺をすれば社会が悪いと煽り、叩く。
正直、そっとしておいて欲しいと思っているはずだ。だから僕も、ほとぼりが冷めるまでしばらく家から出なかった。仕事場では平静を装っていたが、内心はずっと後ろ指を指されているのではないかと怯えていた。母は、買い物に行くことすら嫌がった。自死遺族として人目に晒されるということは、本人たちにしてみれば神経をすり減らすということなのだ。裏を返せば、自死遺族であるということを、周囲が思っている以上に当の本人が気にしていることの現れなのだろう。

自殺者の数が昨年と比べて何人減ったとか、そういうのはハッキリ言ってどうでもいい。
かといって、そうならないように対策を講じるって凄く難しい。そもそも、そういうことを考え始めた人を思いとどまらせるのは、実はとても難しいことだと、僕は思っている。例えは悪いが僕は、父が「死に神に取り憑かれた」と思い込んでいた。
いくら思いとどまらせようとしたって、やってしまう人はやってしまうのだ。

これからも一緒に生きていくために、相手の言葉に耳を傾けよう。目を見てあげよう。

【死ぬな。死ぬことを考えるな。】
人それぞれ「死」に対する考え方は異なる。そして「死」と向き合うことって、とても難しいことだと思う。
今年の5月、義父がガンのために約5年半の闘病を経て他界した。晩年というか、「もうダメかも知れない」と聞かされて1か月もしないうちにあっという間に衰弱し、この世を去ってしまったのだけど、死を受け入れる準備はしっかりできていたらしい。だが、これは闘病生活を経てのことであり、自死とは全く異なる。

人間誰しも塞ぎ込んだとき(そしてそれは八方塞がりで逃げ道がないとき)、「死」を意識せざるを得ない状況に陥ることもあるかも知れない。だが、その暗闇の中でピンホールを見つけ、そこから「生きていく術」を見つけることが非常に大事なことだと思う。

死ぬ勇気を振り絞るぐらいなら、生きる勇気を振り絞ろう。
死ぬことを考えるのではなく、生きることを考えよう。

【変わらず普段どおりが一番いい】
僕は別に自死遺族を代表してメッセンジャーになる気はないし、所詮こんな内容は関係ない人にとって何の関係もないことだろう。だから、果たして今日のこの投稿が何の意味があるのかは、正直僕にもよくわからない。

ただ、実は自死遺族はこういう苦しみを抱えていることを知っていただきたいと思っただけのことだ。

何だかんだ言って、自死遺族が一番強く願っていることは、多分こういうことなんじゃないかな。

故人が亡くなる前と同じように、普通に接して欲しい。

7年経った今、改めて父の遺した様々な足跡に触れ、その偉大さを噛みしめている。
そして生前父がお世話になった人達に対して、きちんと御礼をしなければならないところ、それすらもまともにできていなかった無礼を詫びなければならないと思っている。

こうやって当時のことを冷静に振り返ることができるようになっただけでも、僕の心の傷は少し癒えたらしい。
僕の中で父は、今もしっかりと生きている。
自死遺族であることにこれから先も変わりはないが、素晴らしい父親に恵まれたことを愚息として誇りに思いながら、これからも父とともに生き続けて行こうと思う。

「日々是好日 津軽富士」の裏話

5月14日。青森県内で発刊されている「東奥日報」夕刊。
「日々是好日 津軽富士」という月1回の連載企画の第2回目に、僕の顔写真入りの記事が掲載された。

7年前から始めているランニングと、これに岩木山のことを絡めたエピソードが掲載された、というものだ。

まず一つお断りしておかなければならないことがある。皆さんからメールやお電話などをいただき、僕自身が反響の大きさに非常に驚いているところであるが、あの記事は、僕が執筆したものではない。
取材に応じた僕の口述を、そのまま記者の方に拾って頂いただけの話であるので、ご了解頂きたい。

4月28日。
それは、「弘前公園ランニングクラブ」のFacebookページに、東奥日報のK記者の方からメッセージが届いていることに気づいたことから始まった。

すぐに代表のTさんに、Facebookページにメッセージが届いていることについて、確認依頼のメッセージを送ったところ、この件に関しては僕とOさんで対応して欲しいということになり、ひとまず僕が窓口となってK記者に連絡をすることとなった。

K記者に対し、とりあえずこの件に関する仮の窓口が私になりました、みたいなメッセージを送信すると、程なくK記者から電話で連絡があった。

「日々是好日 津軽富士」という月1回の連載記事を掲載していること、来月は「弘前公園と岩木山」をテーマにすること、記事は5月14日に掲載予定であること、そして、その内容に関して弘前公園ランニングクラブの方からお話しを伺いたい、とのこと。

具体的には、ランニングを始めたきっかけ、走っている時に何を考えているか、走っている時の岩木山はどんな風に見えているか、岩木山とランニングにまつわるエピソードなどを伺い、それを記事としてまとめたい、というものだった。

しかし電話でお話を聞いていくうちに、一つ大きな問題が発生。
取材はクラブの方どなたか1名にお願いしたい、というのだ。

はて、これはちょっと困った。
クラブの宣伝も兼ねて何人かで座談するのかと思ったら、ライフヒストリーにも似たお話を伺いたい、ということなのだ。

再度T代表、Oさん、そしてSさんも含め協議したところ、せっかくだから記者の方に実際の練習風景を見に来てもらった方がいいのではないか、という意見もあったが、結局「じゃあ、後はよろしくね」とあっさり僕が取材を受けることが決まってしまった。

しかしながら、すぐにゴールデンウィーク突入のため、取材日は極めて限られている。

ズルズルと先延ばしするのもどうかと思い、K記者に連絡を取り、30日夕方から取材に応じる約束をしてしまった。

何も準備するものはいらない、エピソードだけ教えて欲しい、その中でまた色々なお話が聞けるかも知れないし、とのこと。
さて、何を話そうか、と思っていたが、話すならば「あの事」しかないな、と腹を括った。

30日夕方、待ち合わせ場所となった職場近くの喫茶店に向かうと、既にK記者が席を暖めていた。

挨拶もそこそこに、ICレコーダーが目の前に置かれ、取材が始まった。
なるべく記事にまとめやすいよう、質問には丁寧に答えたつもりだった。しかし、時が進むにつれ色んなことを話しているうちに、自ら触れてはならないタブーに触れてしまったというか、「パンドラの箱」を開けてしまったような気分に苛まれていた。

…なぜ僕は走り始めるようになったのだろう。
…なぜ岩木山のことをしょっちゅう気にするようになったのだろう。
…なぜ僕は、今も走っているのだろう。

結局のところ僕が今も走り続けているのは、大なり小なり「あの事」、つまり父を失ったことが影響していたということを再認識することとなった。
そう、だからこそアップルマラソンをフルマラソン初挑戦の場にしたのだ。(詳細は過去の記事「42歳の、初経験」を参照頂きたい。)

記者からの質問に、何か自己分析でもしているような気分になりながら、なるべくわかりやすく、記事にまとめやすいようにお話しをさせて頂いた、つもりだ。

取材時間は約1時間30分。幾つかどうしてもお話ししておきたかったことを言い忘れたような気がしたが、とりあえず「弘前公園ランニングクラブ」のことは多少は宣伝できたはずだ。

あ、そうそう。なぜ「弘前公園ランニングクラブ」に声を掛けて頂いたのですか?
逆にK記者に質問してみた。

「実は私、4月26日早朝に弘前公園を訪れて、岩木山の写真を撮影したのですが(その時の写真が記事に使われている)、その際に弘前公園の周りをジョギングされている方をたくさん見かけまして。ピンク色のTシャツを着て走っている方もおられました。調べてみたらそれがどうやら「弘前公園ランニングクラブ」の方だということがわかり、弘前公園の周りを走ることや、走っている時に岩木山がどう見えるかについて聞いてみよう、と思って取材をお願いしたのです。」

そうですか。今日はありがとうございました。

「こちらこそ素敵なお話しを聞かせて頂き、ありがとうございました。あ、そうそう。写真写真…」

その場でバシャバシャと顔写真を撮られる。これも新聞に掲載されるという。最初は構えていたが、徐々に表情が和らいだようで、記者からOKを頂いた。

取材を終えた後の清々しさは、なんだろう。
どうやら僕が触れたのはタブーでもなく、「パンドラの箱」を開けたわけでもなかったようだ。
あまり触れたくない、他人に触れて欲しくない過去から逃げていただけだったらしい。

K記者との別れ際、僕の目はなぜかちょっとだけ潤んでいた。

12日。再びK記者から取材した内容について確認のメッセージが送信されてきた。
幾つか修正をしなければならない箇所があり、それをお伝えすると、程なくゲラ(原稿)が仕上がったとPDFが送信されてきた。

電車の中で、送信されたゲラを読む。
岩木山の写真の横に、「天国の父重ねて走る」という大きな文字が掲載されている。
僕にしては珍しく笑った顔が採用されていた。

内容を一読して驚いた。
僕が伝えたいと思っていた内容が、自分で話した言葉のまま、こちらの思った通りの順番、構成で記事となっていたのだ。
そのゲラを、電車の中で何度も何度も読み返す。
そう、僕は自分の中でこのことを反芻し、そして、誰かにこのことを伝えたかったんだ。
色んな思いが胸に去来し、電車の中なのに落涙しそうになる。

自分のことなのに、とてもいい記事だと思った。

ただし家族には、13日の晩になって「明日の夕刊に名前が載るかも知れない」とだけ伝えた。具体的な内容は伏せたにせよ、父とのことをまたほじくり返したことで、家族の反感を買うのではないかという気持ちがあったからだ。

14日は、朝から上京しなければならない用事があった。
自宅に戻るのは21時過ぎなので、家族は既に夕刊に目を通した後だろうし、きっと誰かが記事に気づいて電話を掛けてくるはずだ。

東京での会議を終えた16時頃、Facebookの僕のタイムライン上に、代表のTさんが夕刊の記事を投稿してくれた。そこから、波を打ったように立て続けに同じ記事の写真が投稿され(結局4人の方がタグ付け、投稿等をして下さいました。ありがとうございました。)、メールやらメッセージやらコメントやらが続々と寄せられた。

帰りの新幹線の中で投稿された記事に目を凝らす。
ゲラの段階から多少手直しが入っていたが、ほぼそのままの内容だった。

21時40分過ぎ、帰宅。
家の人たちの反応をそっと窺うが、何もない。
敢えてこちらからも何も言わなかった。
家族なんだから多分何も言わずともわかりあえることもある。
家族なんだから、これでいいと思った。

しかし、後日妹や母から聞いた話では、やはりそれなりに電話があったらしい。
中には、「お前だから書けた内容だ。」と絶賛する人もいたそうだ。(まあ、僕が書いたわけではないのだけど。)
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(こんなお葉書を下さったのは、某S先生。ありがとうございます。)

今年の9月、父の七回忌を迎える。
まだ4か月も先の話だが、ちょっとだけいい報告ができたかも知れない。

「オトン、これでもいいべ。」

-父の遺影が、ニグラニグラと笑っているように見えた。

20140514

骨組みだけの傘

4月18日。父の67回目の誕生日。
祝うべき主は5年半前、誰にも何も言わず、忽然とこの世に別れを告げた。
父が僕らの眼前から突然いなくなったことは、僕たち家族や周囲の人たちに大きな衝撃を与え、そして僕らを奈落の底へと突き落とした。

もうこれ以上の「底」はないんだよな…。
そう自分に言い聞かせ、ひたすら「上」を見続けながら生きてきた毎日。

気がつくとあれから5年半が経ち、僕も40代半ばに差し掛かっていた。

父亡き後で気づいた、父の遺した財産。
とてつもなく大きな財産。

それは「形あるもの」ではなく、「人と人との繋がり」だった。

父亡きあと、僕は弘前市内外において大勢の方と接するようになった。
まるで何かに取り憑かれたかのように、いや、何かを払拭するために、それまでまるで興味を持たなかったような場にも顔を出すようになった。そこには、みんなに父のことを忘れて欲しくないという思いもあった。
しかしそこで僕は、父が生前築き上げたとてつもない「人脈」と「足跡」を目の当たりにすることとなった。

時にはかなり目上の方々(それは、普段ならば決して接することがないであろう方々も含まれている)とお会いする機会もあったが、僕のことを知らなくても、父の名前を出せば大概の人が「ああ、マガさんの息子か!」と理解してもらえる。いわば父は、僕にとって「名刺」みたいなものだった。

…しかし、そんなことを繰り返すうちに、一つのわだかまりが生じることとなった。
人の噂も七十五日。やがて父のことなんて、皆忘れてしまうのだ。

父は父、僕は僕。
いつまでも父が遺した傘の下で、父の名前に頼っているわけにはいかない。
…しかしその頃から僕は、父が僕に遺したのが傘そのものではなく、傘の骨組みだということに気づき始めた。どうやら父は亡くなる直前、傘の布を全てはぎ取っていたらしい。

手元に残された、布の張られていない骨組みだけの傘。
そこに何色のどんな布を張るのかは、お前次第なんだと。

父が六十数年という期間を経て頑丈にこしらえた骨組みは、多少のことでは壊れることはなかった。

その骨組みを、指で、目で、一つ一つ辿ってみる。
そこには、亡父の思い出がたくさん詰まっている。

「あの時なあ!マガさんさぁ…。」
…そんな些細な思い出話でさえも、僕にとっては興味深い話だ。
さまざまな思い出話を聞かせてくれる、かつて亡父と出会った人たち。
亡父を介して新たに知り合うこととなった人たち。
亡父を介せずとも新たに知り合うこととなった人たち…。

点と点を結び、線にする。
線と線を結び、面にする。
そして、その面に布を張る。
そこで生まれた新たなご縁や繋がり。人と人との繋がりが、やがて大きな輪となっていくのを実感する日々。

絶対に破れない布、今にも破れそうな布、穴の空きそうな布、目の粗い布…。
つぎはぎだらけの傘になるかも知れないが、今は、布一枚一枚を大事に手に取り、父が遺した傘の骨組みに貼り合わせていく。

そして今、傘に張った布一枚一枚が、僕にとってかけがえの財産となっている。

この骨組みだけの傘は、父が教えてくれた、人と人との繋がりの重要性を示している。
傘は、一生かかっても完成できないかも知れないけど、この先もずっと、この傘を大事にしていきたいと思う。

今日は、布張りの作業の手を休めて、久しぶりに父と語り合おうかな。
父が大好きだったキリンラガーで乾杯!

オトン、ありがとな。

んめえな。うん。 October 22, 2013 at 09:19PM