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明けました。

明けまして、といえばおめでたい話ですが、こちらは全くおめでたくない話です。
10月11日(土)、五・七日(三十五日)をもって、父の忌明けを迎えました。

嗚呼。
父を見送る時は万歳三唱と心に決めていたけど、結局叶わなかったなぁ…。
父を見送る時は拍手喝采と心に決めていたけど、結局叶わなかったなぁ…。

長くもあり短かった35日間。仏前に飾られた父の遺影に毎日話しかける僕は、日々の経過とともに現実を受け入れられるようになりましたが、父の兄妹、とりわけ不本意な形で父との最期を迎えることになった実兄は、日を追うことに憎まれ口を叩いていた実弟との別れをひしひしと感じていたらしく、ここに来て憔悴しきった伯父の姿は、本当に痛々しかったです。
忌明けの法要は、お通夜葬儀とはうってかわって、こぢんまりと執り行われれました。

それでも、父に対するディープディーパーディーペストな思いを抱いている方々がそれぞれに父のことを回想して下さったはず。

その席で一つ気になったのは、一部の市議会議員が「故父の遺志を継ぎます」といったことを公言していること。
はて、故父の遺志とは何でしょう?
我々家族も知りませんので、是非直接お話しをお聞かせ頂きたいと思います。イヤ、これに関しては本当に殷勤無礼だと思いますし、実に腹立たしい話です。
我々からすれば、ご自身の政治活動に父の死を利用しているとしか思えませんし、我々の心情にもご配慮いただいた上で、是非慎んで頂きたいと、強く求めます。

忌明けはしましたが、母の哀しみ、我々家族の哀しみはそんな簡単に癒えるはずがありません。法要の際、母は何かを思い出したのか堰を切ったように泣きじゃくっていました。

かく言う僕も、13日に愛犬3匹を連れ立って散歩に出かけたら、何故か父の墓前に立ち尽くしていました。まぁ、亡父は犬達のことをホントに好きでしたから…。

(おとん…。こいつら、連れてきたよ。)

こういった形で父と愛犬が対峙するのは初めて。所詮人間のエゴ全開だと思いながらも、帰路に向かっていたところ、車に乗る畏友Iのお父さんと遭遇。
僕の姿に気づいた途端車を急停車させ、助手席の窓を開けて「どしてら!?頑張ってらガ?元気出さねば、マイネ(ダメだ)よ!」

ハイ。ハイ。ハイ。ありがとうございます。飄々と応えたつもりでしたが、車が立ち去った後、何とも癒えぬ空虚な気持ちといろんな思いが去来し、思わずその場で泣いてしまいました。

というわけで全然復調までほど遠い僕ですけれど、それでも父が残した宿題は少しずつ解決に向かっているような感じです。

あとは、なるようになる。これこそ勝手な解釈ではありますが、適当に頑張ります。

嗚呼、母は強し

言わずもがな、父が亡くなって一番ショックを受け、そして一番憔悴していたのが母だった。

父同様、人前では強がることが多かった母が、僕の前で大粒の涙を流したのが8月のことだった。
そしてその1ヶ月後、父は突如として旅立ってしまった。

この時の母は流石に、家族が端で見ていても心配になるくらい泣き、そして落ち込み、まるで魂を吸い取られたような全く生気のない姿だったのだが、その後は周囲の人の支えもあって、徐々に気力と覇気を取り戻していた。

立つ鳥跡を濁さずというが、父は鳥ではなかった。なので、お茶に濁したままとなってしまった課題を、解決の方向に導くのは我々の役目となった。

人は亡くなった後が大変だということは耳にしていたが、実際現実を目の当たりにして、何からどうやって手を付けていったらいいのか、連日思い悩んでいるというのが実情だ。

遺された家族が手を取り合って前に進むということは、口にするのは容易だが、実際は非常に困難であり、また、母を支えてあげて下さい、という周囲からの励ましも、いざ支えてあげようと思ったところでなかなか出来るものではないことが、ここ数日でわかった。

調子はいかがですか?大分落ち着きましたか?お母さんは大丈夫ですか?お母さんが心配です。

最近お会いした人たちからはよくこういった声を掛けて頂くのだが、皆さん、そして我々の心配は杞憂だった。狼狽する我々をよそ目に、一番冷静でしっかりしていたのが、実は母だったようだ。

嗚呼、母は強し。

そして、やはり親は偉大である。

いくらもがき努力しても、親という存在を超えることは絶対に不可能なのだということを悟ったここ数日の出来事。

下世話な言い方をすれば、父は死んだ。
しかし、敢えて哲学的な言い方をすれば、父の肉体が朽ち滅び、形としての父がなくなっただけであり、その精神はそして魂は、我々家族の中に、今もまだ息づいている。

母そして我々を心配して下さった皆さん、本当にありがとうございます。少しずつではありますが、暗闇から脱しつつあるようです。

1ヶ月経った

早いもので父が他界して1ヶ月が経った。
母から第一報を受けたのが月曜日の朝だったということもあってだろうか、何となく週明けの出勤は気が重いのだが、これもまた時間の経過が徐々に浄化させていくのだろう。
ようやく母も、今もなお時折訪れる弔問客の前で涙を見せなくなったし、少しずつではあるが前を向いて歩き始めている。

そういえば、父が亡くなってからしばらく、僕の手の平の皮膚は異常とも言えるぐらいボロボロに剥けてしまったのだが、ここ最近は大分収まりつつある。僕自身、精神的に少し落ち着いたのかも知れない。

その一方で、父が亡くなってからの酒量はハンパでなく増えており、しかも飲んでも飲んでも酔わない(酔えない)という状態が続いている。

飲まずにはいられないという心境は、生前の父も同じだったのかも知れない。しかしその酒の味は、逝ってしまった父と遺された我々とでは全く違うということを、我々家族が理解しなければならない。

父の時間は9月7日で止まってしまったが、我々の時間は黙っていても刻々と動いている。
この悲しみは、一生消えるものではないと思っている一方で、我々も一緒に時間を止めていてはダメなのだということを、今は言い聞かせている。

父が忽然と姿を消したことで、我々家族はいろんな意味でどん底に突き落とされた。

でも、そのどん底から這い上がる術を我々は身につけなければならないし、父のためにも生きなければならない。

しかしながら、どれからどうやって手を付けたらいいのか、実はまだ整理が全然ついていない状況で、これから相当長い時間を掛けていろんなものを整理して行かなければならないんだと思っている。

その一方で、「ひょっとしたら誰かが何とかしてくれるんじゃないだろうか」なんていう甘い考えを持っているのも事実で、そんな自分自身に対してちょっと不甲斐なさを感じている。

父が遺した「宿題」は、とてつもなく難解である。

肩の荷が下りたこと、一つ

ここ連日、コメントしづらい投稿ばかりで申し訳ないな、と思いつつ、どうしても一つ一つ気持ちの整理をしていかなければならないため、何とかご容赦願いたい。

大学時代からの畏友で、今も同じ職業に就いているH氏(むつ市在住)も、夕方わざわざ僕の所を訪ねてくれたのだが、僕の顔を見るなり「何と声を掛けていいか浮かんでこない」とのこと。いや、あまり気を遣わないで下さい(笑)。

という訳で今夜も引き続き気持ちの整理。
母と思い出話をしていて意見が一致したことが一つあった。
それは、もう選挙のたびにやきもきしなくてもいい、そして今後、政治に一切関わらなくてもいいということだった。

昨日腰掛けてみた議場での父の椅子は、何かむず痒さを覚えるような、実に座り心地の悪いものだった。敢えて言わせて頂くが、今の弘前市議会から市政を巡る建設的な話は一つでも出ているのだろうか?

僕としても立場上、父がローカル議員であること、政治に携わる人間であることを公言することはどうしても憚らざるを得なかった訳だが、父がいなくなった以上、もはやそれを隠し通す必要もなくなった。
僕の職場でも、父が政治に携わる人間であることをを知っていたのはごく一部の人たちだったのだが、あれだけローカル紙で大々的に取り上げられてしまっては、こちらとしても隠し続けることは無理だった。

確か今まで、父が市議会議員を務めていたことをこのブログで話したことは、ほとんどなかったと記憶しているが、それ以外にも、県議選に出馬して落選したことや、実は市議3期のうち任期を全うしたことが一度もないなど、父を巡る選挙や政治にまつわるエピソードは事欠かない。

出る杭は打たれるというが、父は決して出る杭ではなかった、と思う。
しかし、猪突猛進の性格ゆえ、正義漢を振りかざすと悪者扱いされ、泥仕合に巻き込まれ、足を引っ張られ、叩かれ続けた父の議員生活は、端で見ていて正直、うんざりだった。

という訳で、そういったしがらみから解き放たれただけでも、僕たちにとって大きな肩の荷が一つ下りたといってもいいだろう。

ただ、周囲が何だかんだ言っても、父は政治に携わることにこだわり続け、そして命を賭けていたのだと思う。

ろくに任期も全うできなかった父は、議員としては失格だったかも知れないが、少なくとも僕は、父が最後の最後まで「政治屋」ではなく、「政治家」であることを貫き通したと思っている。

藤田隆司議員は昨日の追悼演説で、「議員がそれぞれ市政発展のために尽力することを誓う。」といった類の言葉を口にしていた。その言葉を信じたい反面、今の状況で本当にそれができるのか、今度はこちらが監視する番だと思っている。

追悼演説

弘前市議会から、議会最終日に父に対する追悼演説を行うという申し出があり、母と二人で弘前市役所に出かけた。

思えば、父の在職中も含め、議場(傍聴席)に足を踏み入れた記憶がない。今更だが、父の一般質問を一度でもいいから聞いておけば良かったと思った。

父が座っていた20番の席には、綺麗な花が手向けられていた。そこに父の遺影を飾り、父、母、そして僕の3人でカメラに収まった。
しかし、父は額縁の向こうで微笑んでいるだけだった。
その後、父が腰掛けていた20番の椅子に座らせて貰った。母はやはりまだ父の死を現実として受け入れることができないらしく、椅子に腰掛けたまま泣いていた。

一旦控え室に戻り、事務局の方からいろいろ思い出話を聞かせて貰った。議場では熱く弁をふるっていたこと、真摯に議会の運営に取り組んでいたこと、そして決して信念を曲げなかったこと、その思い出話の一つ一つは、僕の知らない父の姿だった。
その後、議会運営協議会を終えたばかりの議長がわざわざ来て下さった。議長と父とは、古くからの知り合いで、今回の件についても議長は「残念でならないし、未だ信じられない。」とおっしゃっていた。やはり母は涙をこぼしていた。
「頑張って下さい。」とがっちりと握手し、議長が部屋をあとにした。

午前9時50分。議場の傍聴席に向かう。傍聴席には既に10名ほどの人が座っていたが、我々の知る顔は二人だけで、あとは委員会報告を傍聴しにやってきた人たちと見受けられた。理事者(役所の幹部職員)のほとんどは席に着いていた。最前列中央に席を用意して頂き、お礼の意味も込めて深々と頭を下げると、理事者側に座る人たちも全員こちらに向かってお辞儀して下さった。
次々と入ってくる議員の多くも、父の遺影を見て感慨深げな表情を浮かべる。中には、こちらの存在に気づき、お辞儀をしてくる議員もいた。

10時過ぎ。開会の鐘が打ち鳴らされ、議長から「去る9月7日に逝去した蒔苗宏議員に対する追悼の演説の申し出がありましたので、議長からこれを許可します。29番藤田隆司議員。」

藤田議員の登壇とともに、我々二人もその場に起立する。
藤田議員による、これまでの父の功績を称える演説に、母は涙し、僕も涙が溢れそうになった。

僅か5分程の演説ではあったが、実にありがたい言葉だった。

空席となった20番の席については、任期満了に伴う2010年の市長選と同時に市議の補欠選が行われるそうだ。
誰が座っても、市の発展のために尽力して頂きたいという想いと、議員としての父への慰労、そして現職議員の方々の益々の活躍を祈念して、深く一礼し、議場を後にした。