Category Archives: 父のこと

オトンへのバースデーメッセージ

オトン、66歳の誕生日おめでとう。
…なんて、あんまりメグセクテ、面と向かってコッタゴト喋ったの、結局一度もネガッタな(苦笑)。

早いもので、オトンが61年の生涯サ幕を引いてから、5年の月日が流れでマッタ。

実はオラ、毎年オトンの誕生日が来るたびに思い起こすことあるんだジャ。
オトンが今のオラの年齢の時って、何してらンだっけ?ってね。

オラ、今年42歳サなったんだ。オベデラ?
オトンが42歳サなった頃ってオラ、18歳だった。ちょうど大学サ進学した頃だったな。

そういや高校の三者面談の後、オトン「浪人は絶対させられネ。浪人するんダバ、ここサ行け。」って、四国とか静岡とかの会社のパンフレット、ボンッとテーブルの上サ置いダよな。

あれで尻サ火が付いたオラは、焦って猛勉強して、結局弘前大学サ入学決まったんだよ。

合格発表の日、掲示板サ自分の番号見つけて、高校サ寄った後に、オトンとオカンのいる会社サ、羽根でも付いたように小躍りしながら向かったんだよな。

会社の窓の向こうサ、オトンとオカンの顔見えて、小さくガッツポーズしたッキャ、オカンは堰を切ったように歓喜の涙流して、オトンも赤ら顔でニヤニヤしながら、うんうん、って頷いてあった。

普段、家族サ対してあまり口を開ガネ人だったけど、あの時はホントに嬉しかったな。

…でさ、オトン。

あの時一言こう呟いたんだよ。
「よし、これでオラごと、越えダな。」

オラ、あの一言ダバ一生忘れられネ。

あのさ…オトン。

今、自分でこの年齢サなってみて、今の今までオトンのこと越えられたなんて思ったこと、一回もネよ。

オトンいなくなる前も「凄エ人だな」って思ってダバッテ、いなくなってガラ、ますますその思い強くなったジャ。

越えたいと思っても絶対に越えられない人。

理想サはしたくネけど、イヅまでも背中ゴト追ッカゲデいたい人。

上手く喋レねけど、ソッタ感じだ。

今頃生きデれば、まだきっと、毒吐イデ悪態ツイデ、みんなガラ顰蹙買ってランダベナ。

たまにフッとオトンのゴト思い出してはニヤニヤしてみたり。

そういえば、大分そっちサ行った人も増えてきたハンデ、まだ楽しグやってランダベナ…。

オトン。
もう少しで弘前の桜ッコ、咲くってよ。
まだビール、ハガイグノ。

こっちもそれなりに頑張ってみるハンデ、オトンもあんまり飲み過ぎダリ、これ以上周りサ迷惑かけたりしねえようにノ。

ヘバ、マダノ。

「日展」のこと

青森県内で発行されている東奥日報の創刊125周年を記念して、第44回日展青森展が今年の6月15日から7月7日まで弘前市の青森県武道館で開催されることを今日の朝刊で知った。

青森県ではこれまでも日展の巡回展が何度か開催されているが、初めて県内で日展が開催されたのは今からちょうど10年前、平成15年に開催された「第34回日展弘前展」だった。
この日展の巡回展を初めて本県で開催するに当たり尽力したのは、亡父だった。
そして、この日展を無事に終えることができたのは、紛れもなく亡父の功績によるものだと、僕は今でも確信している。

折しも父の母校であり、僕の母校でもある弘前高等学校の創立120周年記念事業として、父は同窓会が主体となってこの日展を開催したい、とぶちまけたという。それまで日展といえば、今回のように新聞社が主催するか、あるいは日展自らが主催するかが主流であり、同窓会単位で開催したことなどなかったそうだ。

青森県での初開催、しかも会場は美術館や文化施設ではなく武道館、更に主催者が一高校の同窓会という初物づくし、日展サイドでも同窓会サイドでも、少なからぬ異論や反対の声があったらしい。

ところが、そんな不安の声をかき消すかのように、いざ始まってみると平日休日問わず県内各地から大勢の方が訪れ、中には秋田県からわざわざ足を運んで下さった方がいたことを覚えている。

父の片棒を担いだわけではないが、僕もボランティアの一人として会場内の巡回をお手伝いさせて頂きつつ、会場内に並べられたたくさんの作品を何度も何度も堪能させてもらった。
34nitten.jpgのサムネイル画像

その成功を足がかりとして、日展巡回展は、その後も幾度となく青森県武道館を会場として開催されている。平成18年開催の際も、日展サイドから父に打診があり、この時も父は家業を顧みることなく日展の開催に心血を注いだ。それぐらい父の日展開催に懸けた思いは、半端ではなかった。

だから、今もこうやって青森県で日展巡回展が開催されるたびに、僕は父のことを思い出す。

もちろん今回の巡回展についても、開催された暁には、亡父の思いと一緒に県武道館に足を運ぶつもりだ。

4年目の9月7日

4年前の9月7日。父はこの世に突然自ら別れを告げ、黄泉の国へと旅立った。

父にとって、こうなることは本意ではなかったのかも知れないが、これも父が選んだ道なのだ。僕はそう言い聞かせながら、ただその現実に直面するしかなかった。一方で、自分の父親に起きたことではなかったかのように。

僕が父と対面したのは翌日、つまり4年前の今日、9月8日だ。突然の父の死に直面して慟哭する母に、僕はそっと手を添えてあげることしかできなかった。

現職市議のセンセーショナルな死というニュースはあっという間にこの弘前市内を駆け巡り、無言の父が帰宅した直後から、報道記者と思しき人たちが家の周りを行ったり来たりするのが見えた。事情を聞かせて欲しいという電話もひっきりなしに鳴り響いた。もっとも、数の中にはこちらの悲痛とはお構いなしにずけずけと家にやってきて「事情をお聞かせ願えませんでしょうか。」なんていう「強者」もいたが。まぁ、どこの記者かはハッキリと覚えているが、あの日以来僕は、無神経なマスコミという存在が心底大嫌いになった。

しかし、あの日も暑かった。9月とは思えぬ暑さだった。いや、思えば今日も続くこの暑さは、あの頃から既に始まっていたような気がする。
あまりにあっという間のことで、あの時何が起きて、そして自分が何をしたのかは、あまり記憶にない。いや、むしろその方がいいのかも知れないが、いずれにせよ、失意と怒りと深い悲しみに暮れながら、何とか父を見送ることはできた、はずだ。

父の命日を迎えるたびに「ああ、今年もこの日が来たか…。」と思うが、もう何年経った、という感覚は微塵もない。むしろ、あの日の鮮烈な記憶が蘇ってくる。父に対して何もしてあげられなかった僕が、そうやって父のことをまた思い出す、9月7日はそんな特別な日だ。

気がつくと厄年を迎え、今年は既にいろんなことがあった。大好きだった祖母や恩師との別れ、妹の結婚…喜怒哀楽色々続いているが、今は、残り4ヶ月弱を無事に過ごすことができればそれでいいと思っている。
国地方問わず昨今の政治のドタバタ劇を傍目で観ながら、「父が今居なくて良かったな…」なんて不謹慎なことを思うこともしばしば。
父はあまりにも人が良すぎた。口や態度は悪かったが、本当に純粋な人間だった。そんな父は、僕にとって今でも誇りだ。

今日9月8日が過ぎると、また気分的に一つ区切りがつくことになるのだろうか。
いや、父が生き抜いた61年という年月に一歩一歩近づくにつれて、むしろ父への思いがますます強くなっていくのだろうか。

亡父の誕生日

今日4月18日は、4年前に亡くなった父の誕生日である。
生きていれば今年65歳になった父。
65歳になった父というのを見てみたかった、というのが今の率直な気持ちだ。

思えば父が誕生日を迎えようとも、家族が取り立てて何かお祝いをしたという記憶がまるでなく、せいぜい大好きだったキリンラガービールを多めに冷蔵庫に冷やしてみるとか、その程度のお祝いしかしなかったように思う。

しかし父亡き今、喪失してみて初めて気づくことがあったり、二度と戻らないものを執拗に求めてみたり、過去をずっと振り返ってみたり、そんなことを延々と繰り返しているような気がする。

事実、生前の頃の父と、遺影となった父を比較してみると、圧倒的に後者の方が尊重されている。

実は父が亡くなる直前、僕は父のことを相当蔑ろにしたような気がして、そのことは未だに僕の中で懺悔として残っている(そして多分僕は、一生そのことを後悔し、懺悔し続けるであろう)。

父に対する懺悔として今できることといえば、残された家族で支え合いながら、この世知辛い世の中を、何とか生きている姿を示すことぐらいだろうか。

ふと、昨年の今頃のことを思い出した。
昨年は、「今僕ができる精一杯の」こととして岩手県宮古市へ災害応援に向かい、その途中で父の誕生日を迎え、そして、改めて家族の絆というか、命の重みというか、そういったことをひしひしと感じていたんだった…。

僕と震災の被害に遭われた方々では、置かれていた環境がまるっきり異なる。
そして、震災で突然家や家族を失った方々の喪失感というのは計り知れないと思う。
でも、突然父を失った、という点においては、何となく家族を突然失ったという喪失感を共有することができるのではないか、なんてことをふと思ってみたり…。

父の仏前に、大好きだったキリンラガービールを供える。
ささやかながら乾杯。いや、献杯。

貴方の遺志は、僕の中で、静かに脈々と滾らせていきます。これも、僕が今できることの一つです。

父さん、誕生日おめでとう。

父よ!

帰りの電車で、以前見かけたことのある、父にそっくりな男性が僕の真向かいに座った。まるで何かに引き寄せられるかのように、僕の真向かいに座った。年の具合、髪の毛の色、そのボリューム、皮膚の色、質感、眼鏡のフレームまで、まるで父がこの世にまた現れたような錯覚に捕らわれる。
父と異なる点を幾つか見いだすとすれば、父ほど髪の毛が縮れていないこと、父より幾分背が低く、そして痩身だという点だ。
そして、僕を虚ろな夢から目覚めさせる決定的な相違点。それは、父は決して赤い色のジャンパーには身を包まないということだ。
そんな父にそっくりな男性と対峙した僕は、まるでその男性の背後にある何かに興味があるかのように視線を送る。決して怪しまれぬよう、決してその男性と目が合わぬよう、男性の向こうにある窓の外の景色に向けるふりをして、父に似たその男性のディテール一つ一つを確認するように、遠巻きな視線をチラリと送る。
混雑する電車内、僕とその男性を遮るものはない。しかし、2メートルにも満たないその距離は、僕と父ではない赤の他人のその男性との間に、深く決して越えることのできない大きな溝を築く。
そう、これでいいのだ。父はもうこの世にはいないのだから。
しかしその男性は、一体どこからやってきてどこに帰るのだろう。そんな下世話なことを考えながら、そっと目を伏せる。
とめどなく溢れる父への思い。決して僕の中から消えることのない、父の残像…。
父よ!僕たちは慎ましやかに、そして健気に生きています。願わくば、父よ!一度でいいから!もう一度あなたに会いたい。そして父よ!もう一度あなたとじっくり膝を交えて話がしたい。
二度と叶う事のないそんな儚い夢を抱きながら、父への思いをそっと心に秘めながら、僕たち家族は父の分まで生きている。
いや、見えない父の後押しを受けながら、僕たちはこの世で生かされているのかもしれない。