父のこと」カテゴリーアーカイブ

誕生日おめでとう。

今日は貴方の62歳の誕生日ですね。
思えば、還暦のお祝いもしたわけでもなく、大体子供の年齢、誕生日ですらあやふやだった貴方にとって、誕生日というのは単なる通過点でしかなく、取り立てて騒ぐことではないのかも知れません。
思えばここ数年は、誕生日も父の日もこれといったお祝いをすることもありませんでしたが、ただ一度だけ、安売りしていた5足組の靴下を誕生日にあげたときには、ニヤニヤしながら受け取ってくれましたね。

去年の今頃、ちょうど貴方の誕生日の頃には、弘前のさくらが開花し、そして一気に満開になりました。
今年もまた、去年と同様弘前公園のさくらの花が咲きほころび始めました。きっとまた、一気に満開になり、今年のGWはまたしても葉桜ということになるのでしょう。

去年と同様、といいましたが、去年と一つ大きく異なることがあります。
そう。それは、貴方がここにいないことです。

でも、僕たち家族は、貴方がここにいなくても、貴方の誕生日を祝い、そしていつまでも貴方のことを思い続けています。

父さん、誕生日おめでとう。
どうかいつまでも、僕たちの中で生き続けていてください。

早いもので半年

昨年9月に父が急逝してから、早いもので明日で半年を迎えます。

今でも「あの日」のことや、それ以降のいろんな場面がフラッシュバックのように蘇ってきたり、突如言いようのない哀しみに打ちひしがれたり…。

我が家では、一家の大黒柱を現実に失ってしまった今、残された細い木が身を寄せ合ってその代わりを務めるしかない、というのが現状です。母も妻もそして妹も、気丈に振る舞ってはいますが、私同様に深い悲しみの中にいることに変わりはありません。誰も口にはしませんが、それぞれが未だに心に負った傷を隠しながら、日々を過ごしているというのが正直なところでしょう。

仕事を終えて帰宅後、父の遺影の前にビールを供え、無言の語らいをすることが日課となりました。
生前、お互い積極的に話をすることはありませんでしたが、私が公僕の端くれとなり、父が市議を務めるようになってからは、情報提供やお互いの意見をぶつけ合うということもよくありました。

父の居なくなった今は、こちらが一方的にその日の報告をし、困った時には父にアドバイスを求めます。しかし、当然父からは何の言葉も返ってはきません。ただ、同じ写真なのに日々表情を変えているように見える父の遺影そのものが、僕に何かを伝えているのだと勝手に思いこんでいます。

悲しみは決して癒えませんが、一つ言えることは、父が居なくなってからちょっとだけ忍耐強くなったような気がします。

他人からすれば決して褒められるものではないかも知れません。しかし、父の生き様は、本当に素晴らしかった。父の生前は決して口にすることはありませんでしたが、父は私にとって本当に誇りでした。今でもこのことだけは、胸を張って言うことができます。父よ、本当にありがとう。

父に伝えたいことは山ほどあります。
その中でも特に伝えたかったことが一つ。

願わくは、父が最期に振り絞ったその力を、生きる力に変えてほしかった。

父の筆跡

今朝は20センチ近く雪が積もった。朝5時過ぎに起床し、せっせと雪かき。去年の今頃であれば、薄いジャンパーを羽織り、メッシュの野球帽を被り、黒いゴム付きの軍手をつけた父が、こっちの雪かきがようやく終わる頃になって、青い雪かきを手に、通路の幅を広げるだけのために、申し訳ない程度の雪かきをする光景を目にしていたが、当然のことながら今年はその姿が見えない。雪かきの間、そのことが頭をよぎると同時に無性に悲しさがこみ上げ、寒さのせいなのか悲しさからなのかよくわからないまま、僕はポロポロと涙を流していた。

さて、今日もまた父の話だ。他のネタを楽しみにしている方には申し訳ないと思いつつ、しばらくは父の回想録にお付き合い願いたい。

父は、実に特徴のある字を書いていた。まるで女性が書いたような丸みを帯びた字体でありながら、時としてそれは何を書いているのかわからず、苦労したことが何度もあった。だから、見ようによってはただの乱雑な字。でも、他の見方をすればそれは、暖かみのある優しい字だった。

市議を務めた父には、名目上の後援会があった。しかし後援会といっても名ばかり、実態は選挙が始まる頃だけ集まる程度で、例えば市民向けの定例の報告会を行うとか、あるいは何らかの形で活動状況を発信するとか、そういったことも一切行っていなかった。
有名無実の後援会とはいえ、政治資金規正法の絡みもあり、県選挙管理委員会に毎年収支報告を行わなければならない。県選管のある場所に極めて近いところで働く僕としては、毎年その収支報告を父に頼まれて持参することが、ちょっとした苦痛となっていた。たぶんそれは、まがりなりにも公僕である身分にありながら、いくら父のこととはいえ議員という立場にある者の書類を、まるで小間使いのように持参することに、少なからず抵抗を感じていたからなのだと思う。
だからここ最近は、父から頼まれても「悪いけど直接送ってくれないかな」とやんわりと断りを入れるようになっていた。今となっては、なぜそんなことをしたのか、僕にもわからない。

父が亡くなってからも、父の後援会は存在し続けた。有名無実であろうとも、解散の届け出をしない限りは、後援会としての名前が残ってしまうのである。

昨年暮れ、会計責任者の元に収支報告を求める書類が送られてきたそうだ。主亡き後援会の会計担当者は、どうすればよいのか判断に悩み、年始に我が家に相談にやってきた。
そして僕は、後援会の解散をその場で決めた。後援会関係者の意向はお構いなしだ。
というか、主亡き後援会が存在すること自体が不自然なことであり、解散は当然至極のことではあるが、誰もそのことを口に出さなかったのである。なので、解散したところで文句を言われる筋合いもないし、文句を言ってくる人もいないだろう。
多分これは、議員としての父からの、最後のお願いなのだろうと腹を括った。
「オニチャン、メヤグでもこれ頼むじゃ。」

結局、主亡き後の後援会の、最後となる収支報告書そして後援会の解散届は、すべて僕が調製した。あとは、後援会長と会計責任者が自筆押印さえすれば書類が整うように。

県選管に直接出向き、事情を説明。幸いにして、以前一度別なお仕事でご一緒したことのある人だったので、話はスムーズに進んだ。昨年の内容を確認させてもらおうと書類を見せてもらったら、そこには明らかに父の筆跡で書き記された書類が出てきた。
丸みを帯びた、太くて大きな字で、会計担当者ではなく、父自らが収支報告書を作成していたのだった。

まさかそんなところで父の筆跡にお目にかかるとは思っていなかった。
父が生きていた証であり、父が市議を務めていた証。暖かみのある、優しい字。

父の懐かしい筆跡を見ていたら、空しさと切なさがとめどなくこみ上げてきた。

百箇日

今日12月15日は、父が亡くなってちょうど百箇日となる。
「早いもので…」ということになるのだろうが、父が亡くなったのがつい先日のことのように思えて、実感があまり沸いていない、というのが正直なところである。
一昨日、百箇日法要を執り行い、父の兄妹夫婦が勢揃いした(母方の親戚は諸般の事情により全員欠席)。
弘前に来るのはお葬式以来となる遠方の兄妹もいて、改めて悲しみを感じていたようだ。
うちの妹もお葬式以来こちらになかなか来ることができなかったので、あと2週間もすれば年末年始の休暇に突入し、帰省するにもかかわらず、「父の法事だから」と都合をつけて来てくれた。

何故か一昨日は、読経の間中、父との思い出がいろいろ去来し、涙をこらえていた。忌明けや四十九日の時は寂しさばかりが頭をよぎりながらも、特にこみ上げるものがなかったのに、父の兄妹夫婦が揃った姿を見た途端、本来10人いなければならないはずの兄妹夫婦が、9人しかいないことを改めて見て、何か胸にポッカリと穴が開いたような、そんな感覚に突如襲われたのだ。

読経が響く間ずっと思い出していたのは、何度か父と二人で行った釣りのことだった。釣りは、父と僕を繋ぐ唯一の道楽だったような気がする。
恐らく10年近く前のことだっただろうか。父の実家のある村の山奥へ行き、30センチ以上の真鯉を何匹も釣り上げたこと。竿を置いたまま二人で小便をして戻ってきたら、竿の上を蛇が這っていたこと。それを見て二人で腰を抜かしそうになったこと。釣れた鯉を、よせばいいのに家まで持ってきて、家族みんなから怒られたこと…。鰺ヶ沢町にいる父の友人に誘われ、父にとって初体験となった鯛釣りで爆釣、二人だけでも合計20匹の鯛を釣り上げたこと。友人や父の兄にそれを振る舞い、驚かれたこと…。今年の7月、同じ友人に誘われ、ヒラメ釣りに行くも見事に空かされたこと。そして、今思えば、あの時も父の元気がなかったこと…。船主から「9月末にもう一度!」と誘われ、父は「うん、うん」と片言で返事をしていたのに、その約束も果たせなくなってしまったこと等々…。楽しかったこと、楽しくなかったこと、いろんな思い出が蘇ってきた。
その時その時の、父の一挙手一投足が頭をよぎり、涙をこらえるのに本当に必死だった。

お寺での法要を終え、みんなが家にやってきた。
父は普段から家を空けることが多い人だったので、親戚は父を目当てにやってくる、というよりは、家を目当てにやってくる感じだった。しかし、父という「蝶番」が居なくなった今、恐らく父方の兄妹とは付き合い方が若干変わりそうな気がしたし、これからは何となく、少しだけ距離の離れた関係になるような気がした。そして勝手な解釈ではあるが、兄妹間の関係も、父の存在がなくなったことにより、少しずつ変わるような気がする(それはいい意味でも悪い意味でも)。

思えば、兄妹夫婦が揃うことなど滅多にあることではなく、兄妹が一堂に揃うことは、幼い頃に養子に貰われた父が一番望んでいたことだろうし、今後も節目節目で父が「蝶番」の役割を果たしてくれることだろう。

百箇日を迎えたとはいえ、根強く残る父への想いがそんなに簡単に払拭されるはずはない。
正直、百箇日ともなると、所詮家族だけの区切りになるのだろう、と思っていた。
しかし、昨日になって仏前に手を合わせるだけのためにやってきた2名のお客さんをはじめ、この日に合わせて供花や供物をわざわざ送ってきて下さった方がいることを考えると、父の存在は、僕たち家族が思っていた以上に大きなものであったのだと、確信している。

葬式や節目節目の法要の時は、いつも晴れていたのに、この日は大粒の雪が降っていた。
父の大粒の涙が、雪に変わったのだろうか。
ようやく父も、旅立つことができたのかも知れない。

四十九日が終わりました


気がついたらもうすぐ10月も終わり。何をしていたのかも思い出せないぐらい忘却の彼方へと過ぎた1ヶ月。と同時に、あっという間だった1ヶ月。紅葉の見頃も終盤を迎え、いよいよ冬の便りも聞こえそうな時期にさしかかってきていることを、札幌・藻岩山で雪が降ったニュースを見て実感した。今年の冬は雪が多いのだろうか…。

先週25日(土)に、父の四十九日法要を執り行った。といってもお寺に向かったのは母と妻と僕の3名のみ。二週間前の忌明けの時と比べると、非常にこぢんまりとしたものだった。
ただしその分、間近で住職の読経を聞くことができた。

僕は父の位牌をまだ作っていないことに焦りを感じ、前日に母を通じて確認をお願いしたのだが、どうやら母は住職にも電話をしていたらしく、結局僕だけ一人が焦っていたらしい。住職からは、的確なアドバイスがあったようだ。

オカルトっぽく捉えて頂きたくはないのだが、読経が響く間、我が家の位牌堂の左側の明かりがついたり消えたり、位牌堂の左側に供えていた霞草だけが、何やら不思議な動きを繰り返したり(笑)。
それをボンヤリと見ながら、「ああ、父がその辺に来てるな…。」と直感で思ったり。

読経が終わると、結局左側の明かりは消えたままになってしまったのだけれど、母がちょこんと触れたら、再び点灯した。単に接触が悪かっただけなのだろう(苦笑)。

まあそれはともかく無事にお勤めを終え、墓前に手を合わせ、とりあえず何度目か忘れてしまった「区切り」を迎えた。

四十九日ということで、その日を挟んで来客も数名あったのだが、どうも父は亡くなった直後に何人かの所を訪ね歩いたらしく、興味深いお話しを聞かせて頂いた。

高校時代の同級生からもメールを頂いた。
津軽地方にある寺院に嫁いだ彼女からのメールは、実に的を射た、かつ包容力のある内容だった。
本当にありがとう。

母は例のごとく読経が響く間ずっと涙していたが、何か吹っ切れるものがあったのだろうか、その後母の実家へと出かけていった(僕の祖母、つまり母の実母にも、父が亡くなったことをようやく伝えたそうだ)。

僕も、自分の中で相変わらず引きずっている「不幸のどん底」というか「悲劇のヒーロー」みたいな意識を早く払拭しなければ。

一区切りとは言っても、これでいいんだ、という整理は一生つかない。悲しみだって一生和らぐことはないだろう。でも、時間が一つ一つ解決してくれるという言葉は、まんざらウソではないようだ。