人生の岐路を振り返る(2/2)

前半のお話はこちら

生まれてから大学卒業するまで地元の弘前市、しかも小中高大が自宅から半径2キロ内にあったという地の利。でもそれは、僕自身が「井の中の蛙大海を知らず」のまま大学卒業までを過ごしていたという裏返し。結局、「我が家」が好きだった、ということかな。今もなお、いつ壊れてもおかしくない、築100年近いであろうあばら家で生活しているのが、その証左だ。

さて、前回の投稿では思わせぶりな「つづく」としてしまったので、赤裸々な「つづき」を。まあ、興味のある方がどの程度いるのかはともかくとして。

(4)運命の日は突然に
試験から約1ヶ月半が経ったある日のこと、家の電話が鳴った。当時付き合っていた彼女からだった。

「おばあちゃんが…おばあちゃんが死んじゃった…」

嗚咽を漏らしながら必死に伝えてくる電話の声に、返す言葉を失った。つい先日会ったばかりの彼女のおばあちゃんが、急逝したという。まさに、青天の霹靂とはこのことだった。

突然の知らせにどうしたらよいのかわからず、動揺を隠すことのできない僕のところに、書留の郵便物が届いた。
見覚えのある字。僕が書いた宛名だ。
…えっ?

慌てて封を切ると、県職員採用試験の一次試験に合格したとの通知が入っていた。再び届いた突然の知らせに、またしても言葉を失った。
…と同時に突然外が暗くなり、激しい雨が叩きつけ、そして雷が鳴り始めた。
文字通り、青天の霹靂。ウソみたいな話だが、全て実話だ。
僕は、あまりの驚きに声を上げて泣いたが、その声は、雨と雷の音でかき消されていた。
嬉しいのか悲しいのか、自分でもよくわからなかった。

懇意にしていた彼女のおばあちゃんが、最後にくれた僕への、最高のプレゼントだったのかも知れない。ちなみにその彼女が、今の妻(隊長)だということを、ここに明記しておこう。

(5)二者択一・その1
どういうことなのかはわからないが、弘前市の一次試験も合格通知を受けた。
たまたま運が良かった。そうとしか思えない。運も実力のうちだと言うならば、僕は運だけでここまでやってこれたようなものだ。県か市か、二者択一を迫られる中、僕は県職員へ挑戦することを決めた。

(6)二者択一?その2
二次試験の面談は3人一組と聞いていたのに、なぜか自分の時は2人一組だった。朧気ながら記憶しているのは、面接官が3人いたこと、そして、最近読んだ本のことを聞かれたことぐらい。
面接後のエレベーターで、一緒に面接を受けたもう一人はうなだれていた。二人が合格すればよいが、もしかしたら二人とも蹴落とされるかも知れない。しかしその後、僕には二次試験合格の内定通知が届いた。もう一人はわからない。…それよりも、大学で取りこぼしたままの単位を取得しなければ…。

(7)非情
実はこの時、高校時代に同じクラスだった二人が二次試験に臨んでいることを知った。(でも、高校同期は20人前後が入庁していたことをのちに知る。)
一人は、現在新潟県にある某大学で教鞭を執るI教授。もう一人は、大学の時も同じゼミだったY君。Iさんとは二次試験の会場でばったり出くわしたのだが、結局入庁式には姿がなかった。違う道を選んだ、ということを後で知った。もう一人のY君は、「一次試験に合格した」という連絡をもらったが、二次試験では姿を見かけなかった。その後音信不通となり、どうしているのだろうと思ったら、「入院しているらしい」という話を聞いたのが、大学の卒業式だった。

(8)社交辞令
既に内定を受けていた例の会社へは、スーツとネクタイを締めて内定辞退の挨拶に出向いた。
「今まで電話で辞退を伝えてきた人はいたけれど、わざわざここまでしにきた人はいない。本当に惜しい。」
面接の時に仏頂面だった部長は、辞退の挨拶にも相変わらずそっぽを向いていたが、社長から直接言葉をかけてもらい、ちょっと嬉しかった。
しかしその数年後、その会社は事業清算、そして廃業に追い込まれた。

またしても運だけである意味正しい選択をしたことに。ギリギリのところで踏みとどまった。ここまでくると本当に、誰かに護られているとしか思えない。

(9)その後の彼ら
異なる道を進んだI教授とは、今も時々Facebookを通じてお互いの所在確認をする関係だ。
もう一人のY君は、僕が入庁して4年目の夏、八戸市へ単身赴任している時に、黄泉の国へと旅立った。

友人Y君のこと

(10)…そして今
今思うと、父が僕に公務員を勧めたのには、違う理由があったのだろうと思う。
父が立ち上げた会社を継がせるつもりはない、と言われた。母も同じ思いたったようだ。結果的に僕は役人の道に進んで良かったのだ。あの頃に迫られた様々な選択は結果的にどれも間違いではなかったと思うし、どこか一つ選択が異なっていたら、今の自分がどうなっていたか、想像もつかない。その後、短い期間ではあったが、父が市議を務めたことを考えると、地元の市ではなく県職員の道を選択したことも、間違いではなかったと思っている。

(11)さらにこの先は
地方で生活していると、銀行員、公務員、教員は、「いい仕事に就いた」と言われる業種だと思う。しかし、「いい仕事に就いた」と言われても「いい生き方をする」かどうかは話が別。

大学の卒業式にて。銀行員か役人になったのがほとんど。

いざ勤めてみると役所の仕事なんていうのは本当に様々で、異動のたびに職場内で転職させられているようなものだ。これまで約30年にわたりあちこちの部署を転々としてきたが、転々とした先で同じ業務を再び行うということは、ほとんどなかった。
業務の内容には自分の向き不向きはあったのかも知れないが、今考えても、いろんな偶然と導きがあって、こうやって役人として勤続30年目を迎えているわけで。

そう考えると、何気ない一言でこの道に誘導してくれた父、そして、いつでも見守ってくれているはずのジイちゃんに、心の底から感謝なのだ。

これまでの岐路は本当に運だけで乗り越えて来たような気がするが、この先に待ち受けていると思われる岐路に差し掛かった時、どう立ち振る舞うか。そして、これまでの自分の経験を部下へどうやって伝えるか。自分の真価を発揮するのはその時だろうか。

(おわり)