人生の岐路を振り返る(1/2)


青森県の職員になったのが1993年の4月。幾度となく転機は訪れたが、何事もなく今年度を終えると、勤続30年ということになる。
学生時代、自分はどういう人間になりたいのか、そしてどういう職について、どう生きていくべきなのか、全く考えたことがなかった。
学業そっちのけでバイトに明け暮れ、稼いだ金は飲み代かパチンコに化けるという、ダメ人間だった。結局、ギリギリの単位でなんとか卒業に漕ぎ着けたものの、そんな自分でも県職員になったのは、本当に運が良かったのだろう。
考えてみると、僕の人生はいつもギリギリのところで踏み留まる、そんなことの連続だったような気がする。もしかしたら…の岐路はたくさんあった。

(1)「生」「死」の岐路に立つ
小学3年の時、高さ約2.5メートルのアスレチックスの遊具から落下した。地面に背中を強打し、息ができなくなった。一瞬「死んだ」と思った。落ちた場所が平坦な「土」だったことは、不幸中の幸いだった。たまたま近くにいた人に助けられた。旅行先での出来事だったこともあり、病院に足を運んだのは2日後。今思えば、よくそこまで我慢していたものだ。腰椎の圧迫骨折と診断され、そのまま約1ヶ月半にわたり入院した。実は今でもレントゲンを撮ると、脊柱の1つが少しだけ歪んでいるし、冬になると時々その辺りが疼く。打ち所が悪ければ、命を落とすか、下半身不随になっていたことだろう。今、こうやって何の支障もなく生活を送られるのは、運が良かったか、誰かに助けられたとしか言いようがない。

撮影したのは妹だろうか。父母、叔母夫婦、兄弟と間違われる従兄と。

(2)薄氷を踏む思い
高校時代の成績は本当にパッとしなかった。勉強しなかったからに尽きるが、今思い返しても、もう少し真面目に勉強していたら…と思う。でも、高校時代は本当に楽しかった。楽しすぎて、勉強どころではなかったのだ、たぶん。

安比高原への家族旅行。これも多分、妹が撮影したのだろう。

初めて父が同席した三者面談、今の成績では地元大学に入学するのは無理、と暗に言われた。帰宅後、父がとある会社案内のパンフレットを差し出してきた。
「浪人はさせられない。落ちたら、ここに行け。」
本気でマズいと思い、それまでの2年半を取り返すべく必死で勉強した。日々薄氷を踏む思いだった。結果、大逆転で地元の大学に現役合格。
当時同じクラスだった子が、「何であなたが合格して私が落ちるの?」と号泣されたことを思い出した。周囲にしてみれば、それぐらい衝撃的なことだったらしい。

(3)鶴(ッパゲではなかった薄毛天パ)の一声
勝手に内定獲得確実という確信を持って臨んだ元国有企業の最終面接で落とされ、いよいよ何をしたらよいのかわからなくなっていた大学3年の時、どういう経緯だったのかは忘れてしまったが、地元企業の社長さんから気に入られ、卒業後の入社を勧められた。事実上の内定。父の知り合いでもあったその社長さんは、「なんとかうちで預からせて欲しい」と父に懇願してきたらしい。将来の夢も希望も特に持っていなかった自分。ま、それでいいかな、とどこかで妥協していた。

ある日、父が突然、「どうせなら公務員の試験でも受けてみればどうだ」と言ってきたことが気になり、もうすぐ大学4年になる春が近くなってから急に、公務員試験に向けた勉強を始めることにした。

都内で就職活動をしてくるとウソをつき上京、プリンスの東京ドーム公演を観た翌日、僕は新宿高島屋にある紀伊国屋書店にいた。公務員に対する憧れも何もなかったが、ただ漫然と、気になった問題集を2冊ほど購入し、帰宅後、そればかりを眺めていた。どういう出題傾向なのか、何に重きを置けばいいのか、対策も何も練らないまま、一次試験に臨んだ。
ちなみにこの頃は、県の試験と弘前市の試験の日程が1週ずれていたため、両方の一次試験を受験することができた。
もともと合格する気もなく、Tシャツにジーンズというふざけた格好で受験した。問題を読んで、一番常識的だと思った答えの番号をひたすら塗りつぶす、そんな感じだった。
なので、どういう傾向でどのような問題が出たのかなんて、全然覚えていない。
まあいい、どうせダメでも入社できる会社は決まっているんだから。

相変わらず、何を目標にして生きたらいいのか、どこを目指しているのかわからないまま、他人事のような生き方を続けていた。

しかし、突然その日はやってきた。

(つづく…多分)