支援活動備忘録(令和6年能登半島地震)

(色々書きたいことがあり過ぎて今回も原稿用紙10枚分の長文となります。スイマセン。)

2024年1月1日16時10分。最も起きて欲しくなかったタイミングで発生した能登半島地震。最大震度7を観測したほか、日本全国で揺れを感じ、津波に関する警報、注意報が発表された。大津波警報は、東日本大震災以来の発表だった。程なく全国各地から被災地への支援が始まり、総務省や全国知事会が調整を行う対口(たいこう)支援もスタート。

※対口支援とは:大規模災害で被災した自治体のパートナーとして特定の自治体を割り当て、被災自治体の復旧・復興の支援をするもの。その内容は、被災自治体の運営マネジメント支援、避難所運営、罹災証明書の発行、災害廃棄物の処理など、多岐にわたる。

役所は年末年始で休み、事業所や店舗も休業で、初動対応が遅れたことは否定できない。
一方で、予期せぬ災害はいつどこで起きてもおかしくないという現実を突き付けられた。

青森県は8道県(北海道、東北6県及び新潟県)で応援協定を締結しており、当初、液状化による被害が大きかった新潟市に対する対口支援団体として充てられる予定であったが、その後の調整が二転三転した結果、富山県射水(いみず)市へ支援に入ることが決定した。

さて、これはなんでしょう。

…射水市?

漢字は見たことがあるが、読み方がわからなかった。更に、富山県のどこにあるのかも知らなかった。大阪府和泉(いずみ)市、同じ富山県の氷見(ひみ)市と混同してしまいそうだ。
まあそれはともかく、派遣職員の調整を行った結果、自分も第2班のリーダーとして射水市に行くことが決定した。ある程度予期していたので特に驚きはなく、むしろ被災地に寄り添った支援をする、それが自分に課されたミッションと自負した。

ただ、富山県との相性の悪さを自負する身としては、一抹の不安もあった。

富山市内を走る路面電車。

【因縁の地・富山県】
(1)初めて富山県を訪れたのは一人で出張した25年以上前。河川敷にある空港への着陸にビビった。バスで移動し、富山駅の近くにある宿に向かうと「予約がありません」と言われる。慌てふためきながら聞くと、系列の「別館」に予約を入れたらしい。まだスマホのない時代。距離感がわからず、渡された地図を頼りに、結局そこから荷物を抱えてとんでもない距離(約2km)を歩く羽目に。
(2)数年前、富山市へ上司と2人で一泊二日の弾丸出張。ホテル近くに美味しい店があると知り入店したところ、隣の店に入ったことにすぐ気付くが、店から出るに出られず、会話も食事も全く弾まなかった。ちなみに店から提供された「富山の珍しい山菜」は青森で言うところのミズ、「イカ」はホタルイカではなく、普通の生干しイカだった…。
(3)3度目の正直は立山町。しかも、念願の黒部ダム視察まで組み込まれている。嬉々として出張の準備を終えた出発前日、各地に大きな被害をもたらした東日本台風が上陸。出張当日にテレビから流れて来たのは、北陸新幹線が水没している様子。当然出張は中止になった。

色々ケチが付く富山県への出張。今回の富山県入りは、3度目の正直のやり直しだった。2度あることは3度ある、にならなければいいのだが。

「令和6年能登半島地震」と命名された今回の地震は、実際に能登半島での被害が甚大であったため、報道では石川県内の被害が大きく取り上げられているが、隣接する富山、新潟の各県でも被害が発生している。実のところ、射水市に足を運ぶまでその被害の程度は全くといっていいほどわからなかったのだが、現地に足を運び、被害の状況を目の当たりにして、言葉を失った。

密集した建物が傾いているのがわかる。ちなみに建物の間に隙間はない。

所有者の了解を得て撮影。束石が傾いている。

とにかく道が狭い。軽自動車一台でこの状況。そして建物が軒並み古い。

新湊地区の内川界隈。こういう風景、大好き。

【射水市の概要】
富山県のほぼ中央に位置しており、県内の2大都市である富山市、高岡市に挟まれた格好で隣接。富山県内では第3の都市に位置づけられる。2005年11月1日に新湊市、射水郡小杉町、大門町、大島町及び下村が合併して発足。人口約9万人。(ちなみにこの規模の自治体は、青森県内には存在しない。)
「日本のベニス」と呼ばれる内川が市北側を流れ、様々な映画のロケ地となっているほか、海王丸パーク周辺を遊覧する観光遊覧船も運航される。

【射水市の被害状況】
最大震度5強。最初の地震発生時は、人口9万人のうち約1万人が避難所に駆けつるなど大混乱。
亡くなった方がいなかったのは不幸中の幸いだが、旧新湊市のあった沿岸部での被害が多いほか、市全域で建物被害が点在。

神社の境内は、灯篭が倒れている。人がいなくてよかった。

顕彰碑も倒壊。ホントに人が巻き込まれなくてよかった。

派遣された我々が取り組むのは、罹災証明書の発行に向けた「被災家屋の二次調査」。
一次調査は終わっているという前提であったが、悉皆調査は行っておらず、自己判定方式による申請が大半だった。

※自己判定方式とは:住家全体の被害の程度が10%未満「準半壊に至らない(一部損壊)」であり、「一部損壊」という判定結果に同意する場合、調査員による現地調査は行わず、被災者の方が撮影した写真により被害認定を行う。この場合、通常の発行よりも早く罹災証明書を発行するというもの。(例)瓦等の一部落下、外壁の一部ひび割れ、雨どいの破損、窓ガラスの破損等

ところが後日、本県調査員が提出された写真を確認したところ、自己判定においても一部損壊以上ではないかと思われる家屋が複数あることがわかり、二次調査の実施を呼びかける方向となった。

射水市役所内。天井まで吹き抜ける新しい建物。先の画像はこの天井を撮影したもの。

さて、実質5日間の調査ではあったが、色々課題も浮き彫りになったので、自分の備忘録として記しておく。

【本県側の課題】
二次調査を行ったことのない調査員がほとんど。調査初日は調査時間(特に調査票取りまとめ)にムラが発生し、いくつかの班は18時に出発する借上バスへの乗車が間に合わなかった。
また、本県にはほとんど見られない長屋のような住宅など、建物の特殊性も相まって、調査に手間取る場面もあったようだ。

家屋が全部くっついている。汚い手書きの絵ですいません。

【市側の課題】
災害に慣れていないという印象があり、何から手を付けたら良いのか、どうしたらよいのかわからない状況が垣間見えた。市役所全体が「災害モード」に切り替わっていない雰囲気。
建物被害の全容が把握し切れていないため、「応急危険度判定」の結果が頼みの綱となっていた。

【調整事項】
第1班から引き継いだローラー作戦(一次調査)を実施する範囲を特定(調査対象の絞り込み)。
トラブルを避けるため、その範囲で調査を実施する旨の住民への周知が必須であることから、自治会長、町内会長などに働きかけを行ったうえで、同意を得る必要があった。
その準備の一環として、
・これまで行った二次調査の結果について、住宅地図に色分けで落とし込む。
・一次調査を行った建物の調査も不要であることから、それが判別できるよう住宅地図にマーキング。
建物調査を行う予定のない小班に対し、こうした作業も罹災証明発行に向けた調査に必要となることを説き、作業に取り組んでもらった。その内容を第三班に引き継ぎ、5日間の調査を終えた。

【因縁は断ち切れたのか】
5日目(作業4日目)のこと。
富山県では今季最強寒波の襲来と日本海寒帯気団収束帯(JPCZ)の発生により、大雪警報の発表可能性が[高]とのこと。更に平地での積雪は多いところで30〜60cmと報じられる。更に追い討ちをかけたのが、上野〜大宮間で発生した架線トラブルによる東北・上越・北陸新幹線の運転見合わせ。6日目に富山入りする次の班に引継ぎを行う予定だった第二班には、「第三班は無事に来るのか?それより、予定通り帰れるのか?」と戦慄が走った。

射水市役所周辺。数時間であっという間に一面雪景色となった。

結果的に大雪は20cmほどの積雪にとどまり、翌日のあいの風とやま鉄道は通常運行。更に、各新幹線も朝から通常運行に戻ることを知り、胸を撫で下ろした。
そんなこともあって、大雪警報の出ていた日の夜は、一気に緊張感が高まり、なかなか眠ることができなかった。
前述のとおり事なきを得たが、徒労感だけが虚しく胸を渦巻いた。終盤に来て気象と交通情報に振り回され、疲労が一気に増幅した感は否めない。
そういう点では、僕自身の因縁を断ち切ることは今回もできなかったようだ。

最後に。わかりきっていることではあるかもしれないけれど…

【被災地にとって必要なもの】
(応急期)
・水や食料などの救援物資
・電気水道など生活インフラの早期復旧
・被災地までの道路復旧

(復旧期)
被災者の話を傾聴すること。そして、誰とでも会話すること。
→被災者は、自分の被害がどれほどかということを知って欲しがっている。誰かに話を聞いて欲しい、誰かと話をしたいと思っている。

(復興期)
・被災者は住民だけではなく、自治体職員も一緒。対応に当たる職員のケアを継続的にお願いします。

しかし、自分たちの住んでいる地域が被災地になった時、果たして僕らは順応できるのだろうか。正直、絶対大丈夫だと言い切れるほどの自信がない。それでも手を携え、協力しながら進むしかないのだ。

発災からあっという間に1か月が経過した。被災地の皆さん、本当に長丁場になると思います。しばらく気の休まらない日々が続くと思いますが、くれぐれも無理せず、我慢せずに。

滞在中に飲み食いしたものの一部。