役人生活31年目に向けて。

役人生活も早いもので31年目に突入した。

30年目の節目となった令和4年度を振り返ると、4月の鳥インフルエンザ発生に始まり、5月に相次いだ林野火災は、過去最大級。8月には青森県内で初の線状降水帯が発生し、津軽地方を中心に大きな被害が発生。JR五能線、そして津軽線が寸断される事態に。10月にはJアラートが発動、更に11月には鳥インフルエンザが再び発生、国内最大級の規模となった。雪の降り方も顕著となり、特に2月、弘前市にかかり続けた雲は線状降水帯そのもの。勝手に「線状降雪帯」「集中豪雪」と名付けた。しかしこれにとどまらず、3月には3度目となる鳥インフルエンザ発生。
この他、米軍三沢基地のトラブルがあったり、震度4の地震が発生したりと、緊張感の強いられる場面が多々あった。(ここでは書けないが、この他にも色々…)
3月後半は、我ながらよく頭が回っていたな、と思うぐらいの状況に追い込まれ、結構ヤバい状態だったような気がする。
僅か数週間でその状況から完全に脱却することはできなくとも、何とかこの状況を切り抜けるため、…いや、その状況から逃げ出すように「いろんな人たちと会い、いろんな人たちと話す」という選択をした。
初めて会う人たちもいる中、色々話し、酒を酌み交わし、笑い合って…。

 

その中には、3月で早期退職を決めたお二方も含まれていた。
一人は、秋田県M町のO氏。もう一人は、新採用研修でも一緒だった某市職員のS氏。S氏とは、新採用研修の後しばらく疎遠だったが、30代後半になり再会、まるで旧知の仲であったかのごとく、あっという間に疎遠となった時間を取り戻した。
彼から受けた刺激、恩恵は数知れず。公務員をやっていると、県職員だというだけで市町村職員から身構えられることもあったが、彼は全く意に介することもなく、フランクに接してくれた。(…いや、同期の仲間はみんなそんな感じだったか。)

実は今年、本県の人事異動内示が発表された時、その内容をちゃんと見ていなかった。後日知ったことは、僕が採用6年目にお世話になった先輩、そして、新採用で職場が一緒となった同期職員が、早期退職することだった。

自分の知っている片手ほどの人数の方々が、早期退職するという事実を知り、実はかなり動揺していた。動揺したまま、「いろんな人たちと会い…」という企画に足を踏み入れたため、一部の人から早速見透かされた。

「何だかやめたそうな顔してますね。(笑)」

辞めようと考えたことは、実はこれまでも幾度かあった。が、そんなに事は簡単に進むはずがない。結局僕は公務員を辞めるという決断をすることなく、30年間という月日を過ごし続けてきた。少なくともこの期に及んで退職という選択は、あり得ないし、それは、先の先までの展望が朧気ながら見えるのであれば、考えてもいいことかな、とは思っているけど。

振り返ると30年間という役人生活、順風満帆には程遠い状況ではあったが、土木、農林、商工、総務…自分なりに置かれた場でそれなりに対応してきたつもり、ではある。

とりわけ若い役人というのは、異動のたびに全く異なる分野の業務を担当することから、中で転職するようなものだし、行く先々で苦労するのは仕方がないこと。そういう苦労に耐えられないのか、はたまた「自分のやりたいことではないから」といって早期退職する若手職員が増えているのも事実。でも、公務員というのは「全体の奉仕者」たる以上、むしろ相応の範囲で「自己犠牲」を伴うものなんじゃないかな。その中で「自分のやりたいこと」に結び付けていくことが必要なんじゃないかと思うわけで。

ただ、僕自身も防災分野は、絶対にやりたくなかった業務の一つ。
そんな中で発生した東日本大震災は、僕の公務員人生を変える一つの契機となった。3.11の直後に発表された定例人事異動の内容に、愕然とした。マネージャーと自分以外が全員異動となったのだ。その直後、宮古市への支援活動に人員を出して欲しいとの要請があった。自分が率先して行くことに、一寸の迷いもなかった。
それが引き金となったのか、翌年度、東日本大震災からの生活再建や産業復興を支援する部署に配属となった。
青森県も東日本大震災の被災県。亡くなった人、行方不明になった人、自宅や車などを流された人たちがいる。
僕が配属された時点では、既にフェーズが変わっていたが、さまざまな側面そして後方から、支援等を行った。

平成28年、危機管理局が新設されることとなり、それまで総務部に置かれていた所属が危機管理局へと配置転換された。その直後に発生した熊本地震でも、6月末から7月にかけて避難所運営の支援を行ったが、この時の経験もまた、今の礎となったことは間違いないし、そんな中にあって、前述のS氏を通じて、東北各地そして全国各地のさまざまな公務員と知り合うことができたのは、自分自身の大きな財産となった。

気がついたら、あれほど嫌だと思っていた防災分野の仕事にどっぷりとのめりこんだまま、7年の月日が流れた。そしてこの4月からも、危機管理局に残留することが決まり、8年目に突入する。
これほど緊張感を強いられる辛い仕事もないとは思うが、これほどやりがいがある仕事もないと思う。

批判と感謝は表裏一体。聞くに堪えられないような批判もたくさん浴びたけれど、感謝の言葉もたくさん受け取った。もちろんその一つ一つに一喜一憂し、浸っている暇はないが、それらが公務員たる自分の血となり肉となっているのもまた、紛れもない事実だ。

我々が60歳を迎えるころには、定年も65歳になっているようだ。果たしてそれまで自分のモチベーションが保てるかどうかはともかく、県民のため、そして後進のためにも、もう少し頑張ってみようと思う。

さて、今年度も残り365日となりました。皆さん、令和5年度もよろしくお願いします。

4月1日、弘前市土手町のさくらは既に開花。