自死遺族として生きるということ

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今日のタイトルの内容は、知っている人は知っている話。
僕自身このことを隠しているつもりはないし、これから先も隠し通そうなんて思っていない。ただ、こういうことというのはなかなか口外するのが難しく、そのことがまた変に同情を誘っているのではないか、と思われるのもイヤで、なるべく文字や言葉にするのを避けてきた。また、逆に周囲の人は気遣って、腫れ物に触らないようこの話題から避けていた、ということもあったのかも知れない。
少なくとも、「オレさ、自死遺族なんだよ。へへへ~。」なんて明るく振る舞う人なんてどこにもいないはずだ。

でも、社会問題として「自殺」が取り上げられている中、何年経ったところで自死遺族は密かに苦しんでいるんだ、ということは知っていただきたく、あれから7年という年月が過ぎ、敢えて今日はそのネタを取り上げることにした。

ただ、このネタを取り上げるに当たって、自分自身相当のエネルギーを浪費し、また、推敲を重ねるうちにかなり疲弊していたことだけは申し上げておきたいと思う。

導入部として、父との別れについて触れなければならないだろう。これまでほとんど口外してこなかったこのことを、7年経った今だからこそ、改めて振り返り、そして思い返してみたい。

【前兆・予兆】
父は現職の市議会議員だった。市内をかけずり回り、色んな会合に出席し、開催される議会や委員会では、ほぼ毎回質問をしていた。その過程にあって、質問案を作成するときに、僕に意見を求めてくることも結構あった。父と僕との間には(議員と理事者側という)直接的な利害関係はなかったが、そういう形で少しでも頼られていることに、ちょっとした嬉しさも感じていた。
ところが5月あたりから、「今回は質問しないわ。」と言うようになった。まあ、質問するネタが尽きたのか、あるいは市政が健全に運営されているのか、大して気にはしていなかったのだが、今思えば、あれが予兆の一つだった。
そしてこの頃から、家にいる頻度が徐々に増え始めた。普段は会合などで家を空ける機会が多かった(というかほとんど家にいなかった)のに、土日になると家でゴロゴロする機会が多くなった。そしてそれは、「父がいない」ことに慣れていた我々からすると、ちょっとした「厄介者」「邪魔者」みたいな扱いに変わっていった。結婚式の案内状が届いても、「今日は調子が悪い。」といって出席せず、会費だけを僕に持たせて届けるという有様。そういうことも、徐々に増えていった。
さらに、僕が仕事を終えて帰宅すると、既に真っ赤な顔をして独酌でビールを飲み続けている父の姿をしょっちゅう見かけるようになった。500mlのキリンラガーの空き缶が3本。そんな姿に呆れ、父と交わす会話もほとんどなくなり、お互いテレビを観ながら無言でビールを飲み続ける。そういった機会が増えた。
…やがて、父が自宅にいるということ自体が鬱陶しいとまで思えるようになった。

だが、あとで聞いた話では、これが「鬱」の症状なのだということだった。
日々同じ屋根の下で生活している過程において、この変化が「鬱」の症状だということは、当然我々家族の頭の中にはなかった。

【更なる変化】
その後、父が出歩くのは、せいぜい父が仲良くしていたAさんからお誘いを受ける時ぐらいになってしまった。そして、Aさんからお誘いを受けて出かけた夜は、父は帰宅せずにAさんの家に宿泊する、ということがしばしばあった。もっともそれは、その予兆が始まる前から続いていたことなのでさほど気にしていなかった。

8月の「弘前ねぷたまつり」が開幕すると父は連日、弘前市役所や町内などあちらこちらのねぷた運行に参加していた。
ところがその年に限っては、町内のねぷた運行にすら参加せず、例のごとく自宅でビールを呷り続ける、という日が数日あった。
「一体何本飲めば気が済むんだよ!」と母とともに声を荒げることも多くなったが、父は相変わらず無言のままだった。

お盆明けのある日、町内の納涼会に珍しく出かけた父。が、自転車で出かけたはずの父が、帰ってこなかった。Aさんのところには行っていない。その日はAさんがいないことを聞いていたからだ。
早朝、父がいないことを告げると、「またいつものことなんじゃないの?」と誰も気に留めなかったが、自転車がないことに、イヤな予感が走った。たまたま休みだったこともあり、自転車(というか父)を探しに車で奔走した。結局自転車はあるところに停めてあるのが見つかった。そしてしばらくすると、いつも以上に真っ赤な顔をした父が帰宅。家族と会話をすることもなく、また一人で自室にこもってしまった。
が、この日の出来事で、何か父が良からぬことを考えているのではないか、という不吉な胸騒ぎを覚えることとなった。

【平成20年9月7日・最期の一日】
珍しく父が出かけるという。市内で行われる社会人野球の大会に、大会役員の一人として参加するようお誘いを受けたからだ。父の友人が迎えにやってくることになった。珍しくその日に限って、父のためにおにぎりを握った。それも、母と妻と僕の三人で役割分担を決めて。
そして、我々が握ったおにぎりとペットボトルのお茶を片手に、父は出かけた。

…そしてそれが、僕らが見た父の最期の姿となってしまった。

昼過ぎ、妻と買い物に出かけながら、なぜか平川市尾上にある猿賀神社に立ち寄った。中学校時代以来だったので、四半世紀ぶりぐらいに訪れた。既に蓮の時期は過ぎていたが、一輪だけまるで枯れそびれたような立派な蓮の大輪が、見事に咲いていた。何でこんなところに足が向いたのかはわからなかったが、それも思い返せば「何かの予兆」を察知したからだったのだろうか。

…夕方、父から電話があった。一緒に球場に出かけた方と、飲んでから帰るという。
普段そんな電話なんかしないのに、変なの。…と、誰も気にも留めなかった。

…が、その数時間後、父は自らこの世に別れを告げた。

その頃我々は、特に気に留めることもなく、3人で晩ご飯を食べていた。犬たちも含め、何事もなく静かな夜だった。

【平成20年9月8日・青天の霹靂】
翌朝、またしても父の姿がなかった。またいつものことだろうと気にすることなく出勤。この日は関連団体への定例の検査があったため、職場に到着するやすぐに移動を開始。五所川原市金木へと向かう車に同乗していた。
9時過ぎに、携帯に着信があった。発信者が母であることを知った途端、胸騒ぎというか、僕は何が起きたのかを察知してしまった。
電話に出ると母は、聞いたこともないような嗚咽を漏らしながら、父が亡くなったことを僕に伝えようとしていた。
激しく寄せては返す動揺を必死に隠し、同乗者に「父が亡くなりました。」と伝えた。

「ええっ!?」
僕より動揺する同乗者。しかし、その時点で僕の頭の中は真っ白になっていた。何をどうすればいいのか、完全に動転していた。「どうすればいい?」と聞かれ、「取りあえずタクシーに乗りたい」と告げたが、どこに行けば乗れるのか、全く浮かばない。今思えば最寄り駅に行けばいいだけの話だったが、それすらも思い浮かばなかった。
本来向かうべき方向と異なる方向に進む車。その間僕は、妻や妹、親戚など、思い浮かぶところに片っ端から電話を掛けていた。
結局浪岡駅まで乗せてもらい、そこからタクシーで弘前に急いだ。「とにかく冷静に。オレがしっかりしなければどうする。」そのことばかり考えていた。

父が発見されたところに到着すると、見慣れぬ警察の車両や、なぜか他の方々の車がたくさん停まっていた。既に妻も到着していた。狼狽した母が、警察の事情聴取を受けていた。僕の姿を見るなり、泣き崩れる母。この時ほど母が小さくなったと思ったことはなかった。
母の肩を抱き、悔しさと悲しさとやりきれなさをかみ殺しながらまた思った。
「オレがしっかりしなければどうする。」
動揺を必死で抑え、警察の事情聴取を受けた。
程なく、警察官が「ここじゃあれだから」と、自宅で事情聴取を行いたいという。
そういえば父は、どこに?
間もなく、白いシートを被せられた父が担架に乗せられ、警察の車両に押し込められた。白い靴下の底が、真っ黒に汚れていた。

【なぜ、どうして?】
現職市議の自殺というスキャンダルは、あっという間に弘前市内を駆け巡ったらしい。知り得た情報を口外してはならないはずの立場の人が守秘義務違反を犯し、そしてその情報をあちらこちらに漏洩した関係者がいたことも知っている。更に、その情報を嗅ぎつけたスピーカーが、弘前市内全域に喧伝したような勢いだった。
無言の父と帰宅。そして、ようやくその姿と初めて対面した。まだ赤ら顔をした父は眉間に皺を寄せ、ちょっと難しそうな顔をしていた。

…なぜだ。どうして。悲しみより怒りがこみ上げて仕方がなかった。

義母がやって来た。妻と僕は、義母から「お前たち、何やってるの!何でこうなったの!」と激しく叱責された。
その直後に、情報が錯綜し、こちらが混乱していることなどお構いなしで、マスコミからの取材攻勢が始まった。電話はもちろん、直接訪問してくるマスコミ関係者、更にはどさくさに紛れて家に上がり込もうとするとんでもない輩もいた。
挙げ句の果てに、遠巻きに家の外で待機しながら、話を聞きつけて家にやってきた人の帰りを狙って、何が起きたか話を聞いているマスコミ関係者の姿もあった。
こちらはそれどころではないのに、マスコミってホントにハイエナみたいな連中だな、と思った。
そして、無神経で非常識なマスコミの連中が、心底大嫌いになった。(このことから、未だにマスコミ不信は拭えていない。)

僕の仲間が自宅にやって来た。彼が父の訃報をどこからリークしていたのかは知っていた。がしかし、思わず「どこからこの情報を聞いたんだ?」と詰め寄った。彼は口をつぐみ、お茶を濁した。

多分、この時ほど弘前という街全体を憎み、嫌悪感を抱いたことはなかっただろう。弘前ってこんなにイヤなところだったっけ、と疑心暗鬼を抱かざるを得なかった。
続々と情報を聞きつけてやってくる人々。とうとう玄関から靴が溢れた。中には「なぜ?どうして、どうやって発見されたの?誰が発見したの?遺書は?」と、マスコミばりに詰問してくる人もいた。もはや僕には、誰の言うことも信用ならなくなっていた。

昼頃、妹が東京から帰ってきた。妹の顔を見るなり母は激しく泣き崩れ、僕はこういう事態を招いてしまったことに、ただただ謝るしかなかった。

その後、文字通りあっという間に葬儀の段取りがされたが、何が起こったのか咀嚼できぬまま、僕の心の中にはただただ「怒り」ばかりが渦巻いていた。気がついたら、親戚一同が集まっていた。僕は、弔問客(そしてそれは興味本位でやって来た人達も含む)への対応に追われることとなり、その日は、ほとんど眠ることができなかった…。

【怒りから悲しみへ】
喜怒哀楽。
楽しければ喜ばしいし、喜ばしければ楽しい。
哀しければ怒るし、怒ると哀しい。

当時の僕の心境は、この四字熟語が、全てを物語っている。
怒り心頭だった前日から一転、この日はずっと泣いていた。いくら泣いても父が戻ってこないことは百も承知だった。でも、泣くしかなかった。棺に収められた父の顔は幾分穏やかになっていた。客足が途絶えると、棺に向かって無言の会話をしようと試みたが、当然のことながら父は一言も話してくれなかった。

直後に、妻が倒れた。予期せぬ事態に見舞われた結果、過労によるものだったようだ。僕なんかと結婚していなければ、こんな辛い目に遭うこともなかったのに…と本気で思ったし、こういう事態を招く一端となった自分を責めた。この時ばかりはただただ、妻に申し訳ないことをしたと思った。

総じて見るとこの間、僕はずっと自分自身を責めていたような気がする。もっともその自責の念は、今も完全に払拭されたというわけではない。

【父が遺してくれたもの】
その後、皆さんの力を借りながら、滞りなく全ての物事が執り行われ、弘前はまるで何事もなかったかのように普段の落ち着きを取り戻した。…いや、我々だけが嵐のような日々を過ごしたというだけのことで、弘前は別に何も変わっていなかったのだ。

結局、父からのメッセージ(遺書)は見つからなかった。元々我々に対しては無口な人だったので、何も言わなくても何でこうなったのか、お前らならきっとわかるよな、という謎かけをされたような気分だった。
ただ、こういう時には一人では何もできないということを痛感したし、父が持っていた幅広い人脈が、本当にありがたいと思った。
そしてこの人脈こそが我々家族に対する父からの遺産であり、今でもその遺産を大切にしている。

人の噂も七十五日とはいうが、あっという間に我が家の周囲も静寂を取り戻した。
しかしながら、しばらくは元のペースに戻ることができず、仏壇の前に座っては父に語りかける日が増えた。
ある人によると、僕の様子をちゃんと見た方がいい、と助言をした人がいたらしい。つまり、父の後を追って逝ってしまうのではないか、という懸念があったようだ。残念ながら僕には、そんな決断をする勇気なんてないし、そもそも微塵たりともそんなことを考えたことはなかった。

あれから7年という月日が流れた。
これまで明らかにしていなかったことも含めてあの前後に何が起こったのかを、長々と綴ってみた。もちろんこれで全てではないし、ここには書き切れないこと、書けないこともあるということをご了承いただきたい。

そしてここからが、是非皆さんに知っていただきたいことである。

【自死遺族として、生きるということ】
僕にとって一番辛い質問が、「お父さんの後を継いで選挙に出るんですか?」ということだった。
父がなぜ自ら命を絶つに至ったのかは、7年経った今となっても知る由がない。しかしながら、議員であり続けることへのプレッシャーがあったことは、傍で見ていて何となくわかっていた。
直接的な引き金ではないにせよ、既に7年も経ってしまった中で、今更父の後継として選挙に立つわけもなく、そのつもりもない。大体にしてそういうところに身を置く気になれないのだ。

なので、僕に対してこの質問は「愚問」であり、実は一番聞きたくない質問だったということを今だから明かそう。…ただ、亡くなった直後は出るべきなのだろうか、とマジメに考えたことがあったことは事実だ。

実は、父が亡くなった直後に「父の意志を継いで頑張りたいと思います」…としたり顔で公言した議員が何人かいたことを僕は知っている。他人の不幸でさえも自分の票に変えようというそのイヤらしさに、ほとほと議員という仕事に嫌気が差した、というのが正直なところだ。
その方々とは不幸中の幸いで直接対峙しなかったが、一度お目にかかった暁には、是非とも「あの時貴方が語っていた父の遺志って何ですか?」と詰問したいと本気で考えていた。

意外と何でもないような些細なことで、実は結構傷ついているものなのだ。

【他人事と思うことなかれ】
皆さんの周囲で、塞ぎ込んでいる人、あるいはそういう兆候が見え隠れしている人はいないだろうか。アクティブに活動していた人が徐々に出不精になったり、おしゃべりだった人が、何も話さなくなったり。

ちょっとした変化にいち早く気づいてあげること、そして場合によっては心療内科などでの診察を受けさせること。近くにいる人ほど、些細な変化には気づかないものだ。だから、周囲にいる人達がそういった変化に気づいたときは、言いづらいことでも教えてあげた方がいい。少なくとも僕の周りでは、父の変化に気づいていた人が何人かいたけれど、誰もその変化を教えてはくれなかった。後になってから「実は…」という話で聞いた。「実は…」となっては、遅すぎるのだ。

気づいた時には、もはや手の付け所がなかった、ということにならないように。

若年層の自殺の記事を目にするたびに、なぜ遺族の心情も考えず周囲に対する過剰な取材をするのだろうか、と思う。いじめが原因となれば犯人探し、生活困窮者が自殺をすれば社会が悪いと煽り、叩く。
正直、そっとしておいて欲しいと思っているはずだ。だから僕も、ほとぼりが冷めるまでしばらく家から出なかった。仕事場では平静を装っていたが、内心はずっと後ろ指を指されているのではないかと怯えていた。母は、買い物に行くことすら嫌がった。自死遺族として人目に晒されるということは、本人たちにしてみれば神経をすり減らすということなのだ。裏を返せば、自死遺族であるということを、周囲が思っている以上に当の本人が気にしていることの現れなのだろう。

自殺者の数が昨年と比べて何人減ったとか、そういうのはハッキリ言ってどうでもいい。
かといって、そうならないように対策を講じるって凄く難しい。そもそも、そういうことを考え始めた人を思いとどまらせるのは、実はとても難しいことだと、僕は思っている。例えは悪いが僕は、父が「死に神に取り憑かれた」と思い込んでいた。
いくら思いとどまらせようとしたって、やってしまう人はやってしまうのだ。

これからも一緒に生きていくために、相手の言葉に耳を傾けよう。目を見てあげよう。

【死ぬな。死ぬことを考えるな。】
人それぞれ「死」に対する考え方は異なる。そして「死」と向き合うことって、とても難しいことだと思う。
今年の5月、義父がガンのために約5年半の闘病を経て他界した。晩年というか、「もうダメかも知れない」と聞かされて1か月もしないうちにあっという間に衰弱し、この世を去ってしまったのだけど、死を受け入れる準備はしっかりできていたらしい。だが、これは闘病生活を経てのことであり、自死とは全く異なる。

人間誰しも塞ぎ込んだとき(そしてそれは八方塞がりで逃げ道がないとき)、「死」を意識せざるを得ない状況に陥ることもあるかも知れない。だが、その暗闇の中でピンホールを見つけ、そこから「生きていく術」を見つけることが非常に大事なことだと思う。

死ぬ勇気を振り絞るぐらいなら、生きる勇気を振り絞ろう。
死ぬことを考えるのではなく、生きることを考えよう。

【変わらず普段どおりが一番いい】
僕は別に自死遺族を代表してメッセンジャーになる気はないし、所詮こんな内容は関係ない人にとって何の関係もないことだろう。だから、果たして今日のこの投稿が何の意味があるのかは、正直僕にもよくわからない。

ただ、実は自死遺族はこういう苦しみを抱えていることを知っていただきたいと思っただけのことだ。

何だかんだ言って、自死遺族が一番強く願っていることは、多分こういうことなんじゃないかな。

故人が亡くなる前と同じように、普通に接して欲しい。

7年経った今、改めて父の遺した様々な足跡に触れ、その偉大さを噛みしめている。
そして生前父がお世話になった人達に対して、きちんと御礼をしなければならないところ、それすらもまともにできていなかった無礼を詫びなければならないと思っている。

こうやって当時のことを冷静に振り返ることができるようになっただけでも、僕の心の傷は少し癒えたらしい。
僕の中で父は、今もしっかりと生きている。
自死遺族であることにこれから先も変わりはないが、素晴らしい父親に恵まれたことを愚息として誇りに思いながら、これからも父とともに生き続けて行こうと思う。

北海道の魔物に返り討ちに遭う、の巻 -2015北海道マラソン-

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ジャパンツアー2015夏 ~北の国から
最後の夏の思い出は、北海道で。
人生2度目となった昨年8月の北海道マラソンでは、現時点でのワースト記録を打ち立てました(4時間のペースセッターを務めた弘前・白神アップルマラソンを除く)。

8月下旬とはいえ、北海道は侮れない暑さです。
今年は、昨年のリベンジとばかりに色々対策を講じました。ちなみに昨年のタイムは3時間49分。今年の目標は、(1)最低でもそのタイムを上回ること。(2)更に、3時間30分台でゴールすること。(3)あわよくば、3時間30分を切るタイムでゴールすること。
まあ、言うまでもなく最大の目標は(3)だったワケですが。
暑さ慣れするために、練習を色々アレンジしてみました。27~28度まで気温が上がっている中を敢えて走ってみたり。雨の降る中を走ってみたり。7月の月間走行距離は208キロ、8月は大会前日までで220キロを超えていました。走り込みの足りなかった昨年とは雲泥の差があります。とはいえ、痛めてしまった脚は急に良くなるはずがありませんから、極力疲労を残さないようにしながら、試行錯誤を続けました。

昨年に続いて2度目の北海道マラソン。人生で6度目のフルマラソン。
結論から言うと、「それでもダメなものは、ダメ。」

8月29日から北海道入りし、1年ぶりとなる札幌の街を闊歩。
仲間とともに受付を済ませ、やったるで!と気合いも充分。あとは明日しっかり走りきれば、自ずと結果はついてくるはず。
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(青森空港から一緒だったラン仲間の皆さんと。)

その後ホテルでチェックインを済ませ、明日の準備とばかりにゼッケンナンバーやタグをウェアとシューズに取り付け。なるべく身体を動かさないぞ、とボーッとベッドの上で横になっていました。
夕方からは、今回のもう一つの目的であった中学~高校時代からの畏友の店で、パスタを堪能。

その後ランニング仲間と合流してジンギスカンも堪能し、楽しく前夜を過ごしました。昨年と違って、過度の緊張感はほとんどありませんでした。
ホテルに戻ったのが22時頃で、23時前には就寝、翌朝4時30分まで爆睡。

8月30日。起床してから少し熱めのシャワーを浴び、朝食開始。以下、スタート直前まで口に運んだもの。
おにぎり一つと切り餅7個と納豆2パック、調整豆乳200ml、OS-1のゼリーを1本。

8時15分に昨年と同じ場所に集合、弘前公園ランニングクラブと仲間たちが合同で記念撮影。
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(この後、なぜか海外のオッサンランナーが乱入し、一緒に撮影しました。)

昨年同様今回もCブロックからのスタートとなりましたが、建物と建物の狭間での待機となったため、時折吹く空気が冷たく感じられます。とはいえ、気温はジワリジワリと上昇し、スタート直前の時点では21度を超えていました。まあ、それでも昨年の22度に比べたらまだ若干涼しいかな…。

昨年はスタート直後の渋滞に巻き込まれ、5キロ通過まで28分を要したという苦い経験から、今年は10キロまでの給水をぶっ飛ばすことに。代わりに手には経口補水液のゼリーを握りしめ、ポケットには様々な補給アイテムをぶち込み、ゼッケンの裏にはサプリメントをホチキス留めしてぶら下げていました。

大通公園にあるテレビ塔の電光掲示板がカウントダウンを始め、いよいよ午前9時、スタートの号砲が鳴らされました。同じCブロックだった仲間数名とゆっくりスタート。スタートラインを踏むまでの時間が約1分ということで、昨年ほどストレスを感じることなく、順調に前に進んでいます。程なく仲間もバラバラになり、ひとまず先行する仲間の背中を追いましたが、その背中も間もなく見えなくなりました。

あっという間に3キロを通過、ほぼ順調な脚運び。両足首の痛みもあまり感じません。
昨年1度走ったコースということで、脳が大体の位置関係、コースを覚えていました。これだけでもかなり気分が違うものです。
5キロの通過タイムが25分30秒。まずまずといった感じです。じわりと暑さがあるものの、風が心地よく感じられました。やがて2度の右折を繰り返し、南下したコースから今度は北上を開始、緩い坂道を登り切ると、今度はしばらく緩い下りが始まります。
給水2か所をスルーしながら細かな右折左折を繰り返し、8キロを通過、程なく創成トンネルへ。そうそう、昨日パスタを食べた畏友の店はこの近くだったね…なんてことを思い浮かべながら走っていると、この時点で手持ちのゼリーが空っぽになりました。トンネル内で一旦クールダウンしながら、ペースと歩調を整えます。ほぼキロ4分40秒前後で進みながら、創成トンネルを抜けると、再び暑さが。後で聞いたところでは、僕のすぐ背後を仲間が走っていたらしく、僕の発汗量は相当だったようです。ということで、この日のために用意した秘密兵器、経口補水液粉末カプセルの登場!じゃーん!!

…あれ?ない。ないぞ?走りながらあちこちまさぐりますが、カプセルを入れていた袋がありません。どうやら、塩飴を取るときに落としてしまったらしい。ガーン…

しかしこんなことで気落ちしてはどうしようもない。大体にして、まだ10キロも走っていないのであります。気を取り直し、代用のゼリーを1本投入。前回は32キロを過ぎた辺りから、暑さとハンガーノックにやられました。そうならないように、先手を打ったというわけです。
その後も、周囲の声援にほとんど愛想を振りまくこともなく、淡々と走り続けます。ほぼ4分40秒前後のペースをキープし続けています。何かいい感じです。やがて15キロを過ぎ、「新川」の文字が見え始めました。北海道マラソンの最大の難所といわれる、新川通が近づいているサインです。
なぜ新川通が最大の難所といわれているかというと、片道約6.5キロのほぼ直線のコース、声援もあまりなく、景色もほとんど変わらない中、淡々と走り続けなければならないから。精神力が試される、といわれていますが、昨年は25キロで折り返してからちょっとペースを上げた結果、32キロ以降の大失速に繋がりました。

そしていよいよ新川通にさしかかった時に、背中を後押ししていた追い風が少し強くなっていることに気がつきました。

追い風も 逆を向けば 向かい風

前日、札幌市内で南東の風が少し強く吹いていたことが気にはなっていましたが、どうやらこの日もその状況は変わらないようで。これはちょっとやばいなあ、と思いながら、なおも淡々と歩を進めます。

ちなみに、個人的にはこの新川通、さほど苦しいとは感じません。紅白の鉄塔や白い橋脚など、目印にするものはそれなりにありますし、何よりもランナーが大勢いますから、それを見ているだけでも飽きないのであります。むしろ、この新川通を抜けた32キロ以降が怖いわけでして、ハイ。
20キロ付近で取ったコップの水が、思い切り左脚にかかりました。シューズの中がまたチャポチャポと音を立て始めます。
気にすればキリがないと思い、意識をそこに向けないようにしました。先頭を走るランナーが反対方向から走ってきます。後続のランナーも、続々とやってきます。27キロ付近を駆け抜けているのは、並々ならぬ決意で走る同じクラブのKくん。まっすぐ正面を見据え、こちらにはまるで気づきません。といいつつこの日は、誰をどこで追い抜き、誰にどこで抜かれたのかはほとんどわかりませんでした。強いて挙げるならば、3キロぐらいでYさんと今日のレース展開について話したことと、新川通を走っているときに、先行で折り返し、辛そうに走っているSさんの姿を見かけたのと、同じく反対車線を走るTキャプテンと手を挙げて呼応したこと、37キロぐらいでS先生に追い抜かれ、声を掛けられたこと。これぐらいでした。

25キロを過ぎ、折り返し地点を通過。ふと気がついたら、足のチャポチャポ音は消えていました。走っているうちに乾いたようです。しかし、札幌市内に身体を向けた途端、やはり若干強い向かい風が身体を押し返そうとします。風除けとなるランナーがいないか探しながら走りますが、手頃なランナーを見つけることもできぬまま、淡々と走り続けます。
28キロ付近でしょうか、Sさん母娘が弘前公園ランニングクラブの幟を手に応援していました。不思議なもので、あの応援一つで本当に力が入るんですね。一瞬ではありましたが、落ちかけていたペースが再び回復。しかしそう思ったのも束の間、新川通を走り終え、32キロを過ぎた辺りから、キロ5分台にペースが落ち始めました。33キロ通過。ああ、そういえば前回はこの辺で足裏が痛くなり、完全に気力が萎えて歩き始めたんだな…ふと昨年のイヤな思い出が蘇ります。
…あれ?Sさんだ。僕が折り返す前に先行していたSさん。その走り方を見て、明らかに何か異変があったんだろうな、と思いましたが、34キロ付近でとうとうその背中を捉えました。

「もう少し!頑張って!」「はい、ありがとうございます!」

Sさんの前に出るときに、こちらが応援しなければならないのに、なぜか声援を受ける始末。
しかし、いよいよこの辺りでかなり脚がいうことを聞かなくなってきました。35キロの給水でとうとう歩きながら水を受け取り、何杯も水を飲み干し、脚にも水をかけます。
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(35キロ付近。この後の給水で脚が止まりました。完全に失速です。)

しかし、ここで腐っては昨年と一緒、元も子もないと再び走り始め、何とか37キロ通過。残り5キロということで思わず時計に目をやってしまいました。まだ2時間57分。このままのペースで耐えきれば、3時間30分を切れるかも知れない!ふと、3時間20分台でゴールする姿を思い浮かべます。

…嗚呼、僕はまたしても色気を出してしまったのであります!

やがて38キロ手前で、とうとう脚がいうことを聞かなくなり、歩き始めてしまいました。くそー、ここまで我慢すればもう少しなのに…。脚が動かないのは、脳が楽をしたがっているから。必死に脳のスイッチを切り替えるべく、無心になろうとするのですが、呼吸も荒くなり、頭がボーッとしています。程なく後ろからヒタヒタと迫ってきた(というかスタート時には先行していたはずの)S先生に声を掛けられ先行を許しますが、追随する元気というか脚がありません。走っては歩き、走っては歩きの繰り返し。まあ、ここからの4キロが長いこと長いこと。
北大キャンパスに入ってからも、歩いて走って、また歩いて。「弘前公園、頑張って!」と声援を受けますが、それに応える余力もなし。

そして40キロを通過した時点で3時間20分。この時点で、手中からサブ3.5がスルリと逃げたことを確信しました。
頭がボーッとしています。何だか足許も覚束ない感じ。まあでも、最後まで諦めたらダメだよね、ということで、せめて人生初のフルマラソンのタイム(3時間34分50秒)はクリアしようと、ひたすら歩を進めます。歩いて、走って、また歩いて、走って。
残り約1キロ、北海道庁赤レンガ庁舎前。選手の応援に回っていた川内優輝選手(…だと思っていたら、川内選手はパースマラソンに出場中で、どうやらそっくり芸人だったらしい。爆笑)とハイタッチ。これでまた元気が少しだけ出ましたが、ここからがまだ長いんだわ。

それなりに走り込んで脚を作ったつもりでいましたが、まだまだ中身が備わっていませんでしたね。
道庁を抜けた後は遅いなりにも取りあえず走り続け、最後はペースを上げることなくゆっくりと手を広げてゴール。

記録は、3時間33分29秒。

悔しいんだけど、これが今の実力なんだなあ、と妙に納得してしまう自分がそこにはいました。涙の一つも出てきません。
程なく、後ろから同じクラブの仲間が一人二人とゴール。なんと、虎視眈々と記録を狙っていたみんなが、ほぼ同じぐらいのゴールタイムだったんです。
笑いながら「あれえ?お疲れさま!」と声を掛け合います。
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(笑っていますがサブ3.5を逃した悔しさがじわじわと。)

完走証を受け取ると、先にゴールしていたメンバーも含め、仲間数名が集まっていました。
しかし、その表情に笑顔はありませんでした。その場に居合わせた仲間全員がこう思っていたはず。

「いやあ、やっちまったわ!」
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(ニコニコしている前の二人は結果を出し、あとのメンバーは全員撃沈。)

2015年の道マラ挑戦が終わりました。目標にあと一歩届かず。まあ、終わってしまったものは仕方がありません。
悔しさをかみ殺しつつ、お互いの健闘をたたえ合いながらレースを振り返ります。暑かった?いや、昨年に比べれば全然楽だったんです。でも、このコースを攻めることの難しさに、またしてもやられた!というまさに「撃沈」の心境が、みんなの胸に去来していたはずです。悔しさをひた隠し、安堵の表情を浮かべつつ、「自分だけじゃなくて、みんな辛かったんだよね。今日はみんな撃沈だったんだね。」と、こうなると完全に傷の舐め合いですな。

もっとも、この過酷な状況下にあっても自己ベストを更新するなど、しっかりと結果を出した仲間もいたわけで、たまたま3時間切りを目指して走った数名と3時間30分を切れずにゴールした数名が、「失敗ラン」だったというだけの話。
いや、失敗だったわけじゃないんですよね。それぞれに皆さん練習もしっかりしたし、脚も作った。でも、そうなるべくしてなった、何らかの「理由」や「原因」があるわけですよ。
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僕の場合は走り込み、特に30キロ走をもっと増やしておくべきでした。35キロまで耐えたけど、そこから脚が出なくなったということは、ペース配分もちょっと誤ったのかも知れません。でも恐らく、前半であれぐらい突っ込まなければこの結果には多分繋がらなかったことでしょう。これにスピードの上乗せができるようになれば完璧ですが、そんなに上手くいくはずがなく。

それでも、昨年のタイムより15分縮まったということ、そしてこの時期にこれぐらいのタイムを出すことができたということは、まだ可能性が残っているということなのでしょうか。
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(前半で少し突っ込み過ぎたかな。走る上では苦にならなかったんだけど。)

9月以降も大会は続きますが、次に繋げられるよう、まずはしっかりフォローとケアをしていきたいと思います。
夏の北海道には魔物が棲んでいます。次回は魔除け持参で臨みます。…さて、その魔除けはどこで手に入るかな?

最後に。走りながら口に放り込んだもの一覧
・スタート~8キロ OS-1ゼリー(給水2か所を飛ばすため)
・10キロ メダリスト エナジージェル りんご
・12キロ 塩熱サプリ
・15キロ MUSASHI Ni
・20キロ パワーバー パワージェル梅
・22キロ 塩熱サプリ
・25キロ Super VAAM 顆粒
・30キロ MUSASHI Ni
・35キロ サバス ピットインエナジージェル 栄養ドリンク風味
・37キロ 塩熱サプリ

少し食べ過ぎました。

フルマラソン携行品チェックリスト

最近、宮城スタジアムで観たサザンオールスターズの投稿にアクセスが殺到しているようです。理由は知ってます。嵐のコンサートが近いんですよね。

すいません、本日の投稿には嵐もサザンも宮城スタジアムも一切登場しません。

秋が近づき、いよいよ今年もマラソンシーズン到来となります。ホントは秋というより晩秋からがマラソンの本格的なシーズンなんでしょうけれど、青森県という土地柄、冬になってしまうとなかなか外で練習するのも厳しいのであります。ということもあって、多少時差を抱えてのマラソンシーズン本番。…まあ、雪が解けた春の時点で本番はスタートしているんだけど。

今年は既にハーフマラソンの大会で岩手県そして秋田県への遠征を終えておりますが、これから先の4レースは全てフルマラソン。しかも、青森県内で行われるフルマラソンは「弘前・白神アップルマラソン」のみということで、北海道、秋田県、そして埼玉県への遠征があります。
ハーフマラソンであれば、ええい!やってまれ!と何とかなる場合もあるのですが、フルマラソンとなりますと、事前の心構えはもちろん、気象情報とかコースのこととか、いろいろと気にしなければならないことがたくさんあります。
体調管理は当然のことながら万全を期するとともに、もう一つ気をつけなければならないことが、当日絶対に忘れ物をしないということ。一つ忘れ物をしただけで、心理状態に与える影響って相当大きいと思うんですよね。そして、仮にその日のレースが不本意だった場合、きっとその忘れ物一つが大きな原因だと凹むわけですよ(まあ、それ以外の原因も本当はたくさんあるんでしょうけれど)。

特に、遠征したときの忘れ物は精神的に大ダメージとなる可能性があります。
まあ、あちらこちらの大会に遠征しまくっているようなランナー(川内くんとかね)であれば、恐らく普段からの慣れというもあって、何をどうパッキングするか、概ね決まっていることでしょう。
しかしながら、私みたいに昨年初めて遠征したようなランナーだと、何をどう荷物にまとめればいいのか、正直怖いというか、わからないところがあるんです。というか、そもそもフルマラソンの経験値が圧倒的に少ないわけでして。その中で県外への遠征するなんて、年に数回しかないので、不安ばかりが募る、というのが正直なところ。

ということで、普段使いも兼ねたチェックリストを作成したのが昨年の今頃。フルマラソンを走るために初めての遠征となった「北海道マラソン」に合わせて、「フルマラ携行品チェックリスト」なるものを作ったのであります。

参考にはならないとは思いますが、どんなものかご覧になりますか?
ランナーによってそれぞれ携行品や服装は異なりますので、これが全てではない、ということを承知のうえでご覧ください。

フルマラ携行品チェックリスト(Excel)

フルマラ携行品チェックリスト(PDF)

Excel版とPDF版があります。使いたければ御自由にどうぞ、ということでExcel版は、好き勝手加工してもらっても構いません(ただし販売目的での再頒布はしないように。笑)。普通に印刷すると紙が4枚出てきますが、個人的には2×2のサイズで1枚に収めるように印刷しています。

一応フルマラソン用に、とはしているものの、ウェストポーチの有無(又は内容物の変更)によっては、ハーフマラソンや10キロレースでも使えるのかも知れません。まあ、ウルトラマラソンは無理だと思いますが…。

しかし昨年は、ここまで用意周到だったにもかかわらず、遠征レースはことごとく撃沈した記憶が蘇ってきました…(苦笑)。多分、そんなに石橋を叩かなくてもいいんだよ、ということなのかも知れません。今年はもう少しリラックスしてレースに臨みたいものです。別に五輪を目指しているわけじゃないし、これぐらい気楽に構えてもいいんだよね、ホントは。

集合直前

「We Love Hirosaki 同窓会~弘前に仲間を作ろう~」に参加して

8月14日に、弘前市の「津軽弘前屋台村かだれ横丁」にて、「We Love Hirosaki 同窓会~弘前に仲間を作ろう~」というイベントが行われました。私も参加してきましたので、1週間空きましたが、遅ればせながら簡単にレポートしたいと思います。

まずは地元紙の掲載記事から。

東奥日報

陸奥新報

当初は、高校の同期の連中に「帰省する人がいるなら、ちょっと飲もうかな?」と声かけしたところ、8名の面々(ただし、県外からの帰省者は1名のみ)から賛同の意思がありました。
当初は15日に開催する予定だったのですが、諸般の事情で14日開催としたところ、これまた同期の関係者から連絡が入り、前述の企画に参加してくれないか、と言われたのがきっかけでした。

正直、こういう小さな飲み会を企画すると参加してくれるいつもの同じ顔ぶれが多数を占めていましたので、ちょっと志向や空気を変えるという意味ではいいかも、と思い気軽にOK。ところが、開催主旨などを確認しているうちに、これはちょっと早まったかな…と思ってしまった、というのが実のところでした。

とはいえ「やっぱりやめます」と後に引くわけにも行かず、結局そのまま当日を迎え、午後6時前に会場に足を運んだところ、既に何名かの同期の面々が顔を揃えていました。
この日はこの企画に、県外在住者が3名、弘前市在住者と勤務者(他県から転勤してきた方を含む)が15名の計18名が参加しましたが、このうち我々同期の面々が10名いたことを今だから明かしましょう。

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(一人足りませんが、10人集まったのはホントです。)

ちなみにこの企画は、7月に東京の四谷三丁目にある「りんごの花」というところで、首都圏在住で20代から30代を中心とした弘前市出身者が多数集まり、地元の話や思い出話に花を咲かせ、非常に盛り上がったという伏線があり、今度は弘前で「同窓会」をやろう!というものでした。

今回集まったのは20代から40代と年齢層が若干幅広くなりました。…というか、我々が平均年齢を高くしていたことは否めないわけでして、ハイ…。
確か「ワゲモノ」の集まりだったハズなのに、オッサンオバサンが占拠して申し訳ありません…。
いや、何せ当初は同期の面々で飲む、という話だったのが、趣旨が変わったことを当日になって知った、というメンバーが大半だったため、どこかよそよそしくもあり、ぎこちなくもありました。でも、弘前に対する大なり小なりの思いを抱くメンバーが集まるべくして集まった、といってもよかったのではないでしょうか。

進行を務めるNさんからのご指名で急遽ワタクシが乾杯の音頭を取らなければならなくなりましたが、まあ、これもこの会のためと思い、一応それなりに丁寧な挨拶をした、つもり。

参加者全員の自己紹介の後で、談笑が始まり、たまたま隣の席に居合わせた中学時代の同期生と会話を交わすのですが、どこかぎこちない。そりゃそうだ、約30年ぶりに会ってみると、当時の面影も感じられないし、「知らないヨソの兄ちゃん」ぐらいにしか見えなかったんだから…(今思えばちょっと申し訳ないことをしたな、と)。

宴が進むと、どうしたら弘前の移住定住が進むか、ということで、「弘前の良いところについて語ろう」という座談会がスタート。

僕は挨拶や自己紹介をしましたので何か意見を述べるといったお鉢が回ることもなく、皆さんの意見をジョッキ片手に色々聞いていたのですが、聞いているうちに、何か「違和感」というか「奥歯に物の挟まったような感じ」を覚えてしまいました。

その感覚が何だったのかを、これから明らかにしようと思います。

まず、主催者側が思うところと我々同期生の思うところのミスマッチがあったとともに、我々の開催主旨に対するミスリードがあったかも知れません。主旨を伝えぬまま、同期のみんなに「会場変更」だけを伝えて参加してしまったことについて、関係各位に対し、この場を借りてお詫びします。

そして今回のイベント、初対面の人も多かった一方で、我々同期の面々が半数以上を占めていました。特にそのオッサン連中に「この場で腹を割って本心を語る」という空気が流れていなかったのは事実でしょう。(まあ、いきなりということもあってこれは致し方ないのかも知れませんが。)
他方、他の参加者の方々(特に県外から弘前にやって来た方)も、居合わせた参加者の心証を悪くしたくないという思いがあったのか、当たり障りのないこと、つまり本音とまでは行かない話に終始したように思えました。これが、一番の違和感というか居心地の悪さでした。
県外から仕事でやってきた人が、弘前の良さを聞かれて「ねぷたがあったり、さくらが綺麗だったり…。」
…うん、それって誰でも知ってると思うんだ。でも、それを聞いて弘前に「行ってみようかな」とは思っても、「住んでみようかな」とは多分思いが及ばないワケで。

「じゃあ弘前に来るに当たって逆に不安だったことは?」という問いには「店が夜まで空いているのか、遊ぶところがあるのか…。」
そう、まさにこれですよね。若い人ならなおさら、こういう部分がクリアにならないと、移住定住しようなんて考えないんじゃないでしょうか。

例えば一度も青森にやって来たことがない人が、「青森勤務を命ずる」と辞令が下ったときに、どう感じるか。

…多分「嗚呼、俺って左遷されたのかな。」と思ってしまうのではないでしょうか。

もっともワタクシ、その「左遷の地」で44年間生活していますので、全然そんなことはないと思っているんですけどね。

で、話が進む間に疑問点をポンポンとFacebookにぶつけてみたわけです。

まずは1発目、同期会のFacebookページに投下した疑問。
「一平会(同期会の名称)に顔を出すって、敷居が高いんですかね?地元民だけで楽しんでいるつもりはないんですが…。」
これ、参加者が少なかったことを嘆いているのではなく、半ば自嘲的な投稿。
その中にあった返信のコメントが的を射ていました。

「(敷居は)高くないが、久々に出るのは緊張感あるんでないの?」
なるほど確かに卒業して四半世紀過ぎて、いきなり「やあ久しぶり!」と顔を出すことにはちょっと抵抗があるのかも。もっとも、25歳の頃から始まったこの会、かれこれ20年が経つわけで、卒業してからだと四半世紀以上顔を合わせていない面々も多数いるからなあ…。

そして、この伏線にあるのが何だろうかと飲みながらずっと考えていて、その約1時間30分後に、対象者限定で投下した二つ目の疑問と感想。

「今日飲みながら思ったこと。
地元に帰りたいと思う人も躊躇するぐらい、弘前そのものの敷居が高い。
自尊心、アシフパリ、モツケの精神がその敷居を下げない。
多分、地元愛を強調すればするほど、地元を離れた人たちは近づくのが辛いんじゃないかな。

酔っ払いの戯言でした。」

どうやら相当危うい投稿に見えたようでして、数名の方からコメントではなくメッセージまで頂く始末。
まあ、あのイベントに参加している間は、あくまで「一般ピープル」としてその場にいたつもりなので、本音をぶつけた方がいいかなとか思った次第。何せほら、所詮は酔っ払いの戯言ですから。
そしてこれが多分、僕が感じた居心地の悪さ、違和感だったんだろうと。

この日、主催者の方々は本当に一生懸命でした。Mさん然り、市役所の関係者然り。だからこそ、集客に悩んだりどう盛り上げようかといろいろ苦心されている、その顔には出さない痛みが、何か見ていて辛くなってきまして…。参加者がなかなか集まらなかったのも事実だったようですが、それは「敷居が高い」とかそういうことじゃなくて、「その場に行くことが緊張する。」というか「見ず知らずの人達と飲みながらちょっと真面目な話をする」ことに、少なからぬ抵抗を覚えたからなのではないか、と。

そして、実は地元の方たちが「弘前愛」を強調すればするほど、地元以外の方々、特に弘前を一度離れた人にしてみれば、「自分だってこんなに弘前が好きなのに…。」という自尊心を傷付けられているんじゃないかって、ふと思ったわけです。
地元を盛り上げるために現在も、色んな取組や活動がされています。(まあ、私もその活動に参画している一人なのかも知れません。)
他方、地元の外にいる出身者からすると、そのことが地元に貢献できていないという罪悪感、というかそこに参画できないことへの疎外感、そんなものを生み出している、ということはないでしょうか。そして、そのことが逆に地元への足を遠くさせている、なんてことに…。

同期会の話にちょっと振り子を戻すと、ほとんど地元開催の同期会を、2度ほど東京で開催したことがあるのですが、曜日に関わらず在京のメンバーが時間を割いて集まってくれて、とても盛り上がりました。この時ばかりは皆さん「津軽弁」で会話。3年間一度も同じクラスになったことのない面々ですら、旧知の友のように普通に会話が弾み、まるでそこだけが高校時代に戻ったような不思議な空間でした。
でも恐らく、彼らの中で今後弘前市はもとより青森県にUターン、移住する人は相当少ないんだと思います。(その後、一人だけ青森県内に戻ってきましたが。)
我々の年代になると「年老いた親を地元に残している」という現実問題がのしかかってきます。
もちろんそういったことも一つの契機となるのかも知れませんが、改めて望郷の念を抱き始めている同期の輩が増え始めていることも感じています。

しかし、そのハードルとして重くのしかかるのが、
(1)今の生活水準を落としてまで弘前市や青森県に住むメリットはあるか。
(2)そもそも生活基盤を構築するため、働くところがあるのか。
(3)生活していく上で、「リアルな人との繋がり」はあるか。
という点ではなかろうか、と。

人口減少社会の到来は、少なくとも青森県においては既に始まっているのが現状です。間もなく、青森県の人口が130万人を切る日がやってくることでしょう。
青森県内の人口減少をどのようにして食い止めるかは、切実な問題となりつつあります。県内への移住や定住促進も、その問題を少しでも長引かせる(解決することは、日本全体の人口減少が始まっている中、海外からの移住を推進しない限りは無理でしょう)ためのツールの一つ。青森県での「田舎(地方)暮らし」を推進するためにも、他にはない「優位性」をアピールする必要がありますが、その「優位性」は、「青森県」というだけで抱かれてしまうネガティヴな印象、強いて言うならば「劣位性」を遥かに越えるものでなければなりません。しかしながら、その他にはない「優位性」が何なのかを、まだ見いだせていないのが現状なんだと思います。(実際その「優位性」が何なのかは、ワタクシにもわかりません。)

もっとも、移住定住UターンIターンJターンは、あくまで個人の問題。たまに見かけますが、その場しのぎではないにせよ、一時金やら何やら(例えば移住奨励金とか住居の無償貸与)を誘い水にすることだけは、本気でそういうことを考えている方々の新しい門出に当たり、麻薬をぶち込むようなものなので、これは絶対に止めた方がいいと思った次第です。

話があちこち飛んですいませんが、最後に。
今回の企画では、参加者からアンケートを募っていました。東京でも同じアンケートを募っていたのかな?にしても、そこから何かを分析するには多分母体数が少な過ぎると思います。例えば、各校が地元や県外で開催する同窓会で、全く同じアンケートを集めてみるとか…それだけでも世代別の傾向はある程度得られるわけですし、何か今後のヒントが得られるのではないかと、個人的には思ったところです。

あ、そうそう。久しぶりにこの会で「いもくじ」やりました。出たのは「子」でしたが、メクテアッタヨ!

もはや故障と上手く付き合うしかない。

14日の金曜日、弘前・白神アップルマラソンの試走ということで、フルマラソンの折り返し地点である西目屋村までの往復ランを敢行してきました。クラブの仲間30名以上が集まったこの試走会、自分自身としてはそれほどペースを上げることもなく、途中何度も休憩を挟んだため、35キロ以降は多少苦しさがあったものの、無事に完走(ただし実走距離は41.6キロ)、翌日15日の定例の朝練でも、疲労抜きと言いながら約10キロを結構いいペースで走りきりました。お盆休みの最終日16日は、当初朝のうちに走ろうかと思っていたのですが、思った以上に疲労感が残っていたため、夕方に近い時間帯にゆっくりと弘前市内をジョグ。途中ひまわり畑やりんご公園、禅林街の中を走り、最後は五重塔の横を通って帰宅。

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夕方に近いとはいえかなり暑さが残っていたこともあって、疲労困憊に近い状態でジョグを終了。シャワーで汗を流しながら、右足首辺りに違和感があるのを察知しました。

…ああ、またしてもアキレス腱周囲炎が再発したな、と確信。
患部を冷やしてみたものの、時間の経過とともに、またじんわりとした鈍い痛み。安静にしているときは全く感じませんが、少し足を動かすと、ズンと痛みが走る、そんな感じでした。
先月今月と無理しない程度を若干越えるぐらいの程度で頑張ってきましたが、そういう無理の積み重ねが災いしたようです。大体普段の月間走行距離が110~150キロ程度だったランナーが、いきなり200キロをオーバーするぐらいのペースで走ったところで、怪我のリスクが多くなるだけ。まさにそれを実証してしまったわけです。
取りあえず冷感湿布を足首のサポーターで固定したところ、右脚の痛みはかなり緩和されました。
ただ、右脚だけならともなく左脚にも多少の違和感。実はこちらの方が怖いのであります…。

クラブに参加して走り始めた最初の頃はふくらはぎの軽い肉離れ、脛や膝の痛みを経て、右足裏の種子骨炎、そして追い打ちを掛けるようにやってきた左の四十肩、更に右脚のアキレス腱周囲炎…。これまでの経過をたどるとよくもまあ次から次へと、といった感じです。舞の海が「技のデパート」と呼ばれるならば、私は「怪我のコンビニ」といったところでしょうか。足の指の爪は両足ともほぼ全てが一度剥がれ落ち、爪としての原形をほとんどとどめていないという…。それも、右脚に痛みを発する頻度が高いということは、多分走るときのバランスや姿勢が悪いということなのでしょう。

2015年はこの先、ほぼ毎月1レース、計4レースのフルマラソンを予定しているところです。しかし、この調子で果たして全て無事に走りきることができるのか、ちょっと不安になってきました。振り返ってみると今年はまだハーフマラソンしか走っていませんが、自己ベストを更新したレースと全く歯が立たなかったレースがハッキリしています。でも、これまで怪我が理由で大会に出場できなかったのは一度だけ、あとはリタイアもなく何とか無事に完走しているわけでして、ハイ。
せっかく生涯付き合えるような趣味、愉しみに出会えたのですから、ここは無理せず慎重に行こうと思います。

ちなみに、今年はバランスディスク一つで体幹を鍛えるという無謀な挑戦をしています。職場の椅子の上にバランスディスクを敷き、背もたれに絶対に寄りかからないと決めてデスクワークに取り組んでいます。少なくとも、腰痛はかなり解消されたような感じ。走っているときも、何となく腹部に疲れを感じなくなったような…。まあ、効果があるのかどうかは、間もなくシーズンインすることで明らかになることでしょう。

フルマラソンを走りきるって、一朝一夕でどうにかなるものじゃないし、まして急に付け刃的な練習をしたところで完走できるかどうかも怪しい。そう考えると、これまでの積み重ねが実を結ぶのが、まさにこれからなんだと信じたいところです。
まあでも、これまでで全てやりきった、とは言い切れないし、そう考えると、マラソンって本当に奥が深いスポーツです。