母の決断、息子の優柔不断

既に取引先の方々にはお知らせしているのだが、父と母が立ち上げ、母が代表を務めてきた小さな会社を、年内いっぱいで閉めることにした。

父と母が会社を立ち上げたのは僕が小学校1年の時。以来、父と母とが40年以上に渡って細々と営んできた。

小さいときは朧気ながら「僕はこの会社の社長になるんだろうか」なんてことを思っていたが、年を重ねる毎にそれが決して楽なことではないことを悟るようになり、大学生になった頃には、僕の人生設計からその選択肢は完全に除外されていた。

もっとも、高校時代の成績不振を見かねた父は、高校での三者面談を終えた後、「お前を浪人させる余裕はない。大学落ちたら、行くところはここ。」と静岡県にある会社、それも、一番の取引先である会社案内を提示してきた。
いわば人質のごとくその会社に差し出されることを察知した僕は、その日以来死に物狂いで勉強して、何とか地元の大学に滑り込んだ、という笑えない話がある。

会社(というほどの規模でもなかったが)は自宅の前に事務所を構えていたので、小学校の時は、帰宅すれば専従者だった母、時には父もそこにいるという安心感があったが、事業を始めてから10年ほど経った頃に弘前駅からほど近いところへ事務所が移転、逆にそれまであったものが無くなったことへの一抹の寂しさを覚えたのも事実だった。

自分自身がその仕事とは全く関係のない今の職種に就いてからもなお、直接何かに関わるということはなかったが、やはりそこは僕にとっての生活の一部であったし、今もそうであることには変わりはない。

しかし、事業を立ち上げた張本人であった父が、端くれの一市議として活動を始めるようになってからは、代表としての重責を母が一手に担うこととなった。
もっとも、父に経営能力が備わっていたとも思えず、薄利多売がやがて薄利少売となっていることも感じていたが、結局誰も引導を渡すこともなく、惰性でズルズルと会社を営んでいた、といった感じだった。

社員の相次ぐ退職や取引先の倒産など、語り尽くすには余りあるほどいろんなことがあった。そんな様々な紆余曲折を経ながらも、細々と経営を続けていた中、何と言っても一番の大きな転機は、11年前の父の急逝だった。

この時母は60歳。ここで廃業、という選択肢もあったが、母にとってそれがどういうことを意味するのかは、愚息として強く感じていたところでもあった。

結局この時、事業を続けるか辞めるかは、母に任せることにした。僕自身が仕事を辞めて後を継ぐ、という選択もあり得たのかも知れないが、僕にはそこまで踏ん切りをつける自信、勇気がなかった。

結局、母は「やれるところまでやってみる。」という選択をした。
恐らくあの時、母に廃業を勧めていたら、きっと母は生き甲斐もやり甲斐も失くし、今頃完全に塞ぎ込んだことだろう。失意のどん底に突き落とされた母(そして我々)を救ってくれたのは、「どしてら?」と時々事務所に顔を出してくれた周囲の方々であったことは、紛れもない事実なのだから。

そういう意味では、いつかはやって来るであろう「店をたたむ」というタイミングに猶予を与えたことが、これまでで僕ができた唯一のことだった、と言ってもいいかも知れない。

もっとも、自分自身が間もなく50代を迎える中、退職後の第二の人生を送る場として適切ではないかと助言をくださったJさんをはじめ、色々な方々からご心配やアドバイスを頂いたことに心から感謝しなければならないし、その助言や期待に応えることができなかったことに、この場を借りてお詫びを申し上げたい。

でも、これだけはわかってください。

仮に僕が定年退職後の第二の人生の場として事業継承するとなると、母には80歳を過ぎるまで頑張ってもらわなければならないのです。僕には母の老体に鞭打ってまで頑張ってもらう、という選択はできなかった。そして、早期退職してまでこの事業を継承しようという気にも、なれなかったのです。

2年ほど前から、「あと1年」を口走るようになった母。70歳を越え、肉体的な衰えも幾分感じられるようになったのは事実だし、僕らも平等に齢を重ねて行く中で、次の一手を切り出せなくなっていた。

いよいよ僕が母に引導を渡さなければならないのだろうか。しかし、母の性格からして、その引導を絶対に受け取ろうとしないことは明白だったし、逆に僕が引導を渡すことによって、親子の関係が一気にギクシャクすることも十分に予見できた。
葛藤に苦しみ、悶々とする日々が続いた。

母から打診があったのは、夏が終わりを迎える頃だった。

「もう、限界かな。会社、年内でやめようと思う。」

いつもとは違うトーンで口火を切った母。相談というよりは、決断をした、といった感じだった。聞くと、税理士にも既に意向を伝えているという。既に決意は硬いということを悟った。
(実に情けないことだが)母の決断を聞いて、正直ホッとした。

しかし、店をたたんだからといってそれで終わりではない。事業は始める時よりも終える時の方が大変だということは、いろんな事例を見て知っているつもり。これから先、取引先との関係整理はもちろん、2020年以降も、資産や在庫の処分、清算など、色々な手続きが待ち構えていることだろう。僕に何ができるというわけではないが、母の下支えをすることが僕ら家族にとっての役割だと思うし、亡父も絶対にそれを望んでいるはずだ。

毎朝日課にしている、仏壇への朝の挨拶。
数日前から、父の遺影の下に何かが置かれていた。
こっそり手に取ってみるとそれは、母から父に宛てられた「閉店のお知らせ」だった。

父と母が築き上げた40年以上の重み。そして、亡父に対する母の思い。

母よ、肝心な時に優柔不断なダメ息子で、本当に申し訳ない。
決断を下すまで、母がどれだけ苦悩したことか…。

それを思うと、自然と涙がこぼれた。