Monthly Archives: 3月 2012

ガンダム世代ではありますが…。

職場の同僚から飲みに誘われ、一次会を終えてもう一軒、ということになり、連れて行かれたのがこのお店。
はい、ガンダムファン御用達のバー、「G-Dining bar ZEON」(青森市古川1丁目)です。

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僕は41歳なので、いわゆるガンダム世代の中心みたいなものなんですが…。
実は僕、ガンダムってよく知らないんですよね(苦笑)。
店に通じる階段を上ると、カウンター席にはズラリと男子が…。そして、何をしているのかといえば、一同画面に流れるDVDに釘付け。
奥のテーブル席に通され座ると、テーブルの上に置かれていたのは、ん?
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)
呼び出し用のボタンです。ドムでしたっけ?他のキャラクターのものもありました。まぁ、無理矢理感は否めませんが(笑)。
ふと背後を見ると、同じキャラがズラリと…。すいません、マジで名前知らないんです。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)
メニューをちょっとだけ。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)
僕は別種類の黒ビール(アサヒ・ヱビス・ギネス)が3本セットになった何とかいうのを頼んだんですが、もうその頃には結構酔っぱらっていて、ワケわからなくなってました。
「蒔苗さん、なにバシャバシャ写真撮ってるんですか!ブロガーみたいじゃないですか!」
いやだってさ、こういうのって興味あっても何となく入りづらいって思っている人もいるかも知れないじゃない?そういう人たちのために潜入レポですよ。
続けます(笑)。
店内はこんな感じで結構薄暗いです。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)
よく見ると、お面を上手く使っているんですね。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)
ピンボケですいません。
トイレに入ったら、全国各地に同じような店があるらしく、日本地図が貼られていました。凄いですね、各地にあるんですね。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)
食べ物(つまみ)はそれなりに美味しかったです。
前述の通り僕はガンダムってよくわからないしあまり興味もなかったのですが、一緒に行った人たちはそれなりに楽しんでいたようです。
〒030-0862 青森県青森市古川1-18-10
TEL 017-752-1269
FAX 017-752-1269
営業時間
月~木・日・祝 17:00~24:00(L.O.23:15)
金・土 17:00~01:00(L.O.24:15)
定休日 不定休

祖母の命日

3月7日は、父方の祖母の命日である。父がこの世からいなくなるまではあまり意識していなかった3月7日、奇しくも父の命日が9月7日であったことから、ちょうど半年のブランクがあるということで、否が応でも意識をせざるを得なくなった。祖母には申し訳ないが、僕の中では「祖母の命日」というよりも「父の6ヶ月目の月命日」ということで3月7日という日を強く認識するようになった。

祖母が亡くなったのは、僕が中学1年の時だ。祖母は昔から鼻腔のあたりに腫瘍があったらしく、頻繁に大学病院で手術を施した。その回数は一体何度なのかはわからないが、手術後は我が家で1~2日(それ以上の時もあった)静養し、そして自宅のある西目屋村大秋に帰るというのが常だった。

そして、僕が小学生の頃は、手術前あるいは手術後に我が家で静養する祖母と一緒の布団で横になり、祖母から色んな話を聞かせてもらった。それは、祖母が中国に行った時の話であったり、祖父の話であったり、幼い頃の父の話であったり…。とにかく色んな話ではあったのだが、残念ながら今となっては、そのほとんどが僕の記憶の片隅から消え去ろうとしているような状況だ。親戚の皆さんごめんなさい。

幾度となく大学病院への入院も余儀なくされ、また、その間生命の危機に晒されながらも、祖母は生き存えた。

一時祖母の容態が悪化した時、ちょうど仕事の関係で札幌に出張していた父からは、連日のように電話が掛かってきた。今になって思い起こせば、家族(肉親)の身を案じ、連日のように電話をしてきた父というのは、あれが最初で最後だったと思う。

やがて祖母は記憶の欠片を徐々に失い、危篤状態に陥った。祖母危篤の報を受け、我が家からそれほど離れていない大学病院に父と母が向かい、僕と妹は留守を預かっていた。
程なく母から電話があり、祖母が他界したことを伝えられた。
外孫だったこともあってだろうか、「ああ、そうか。」ぐらいにしか思わなかったのだが、仏壇にろうそくと線香を供え、東側にある窓の向こうで明かりを放つ大学病院に向かって、手を合わせたことは今でも記憶として残っている。それが当時の僕がすることのできた、最大の供養だった。

未明に帰宅した父の目が真っ赤に腫れ上がっていた。父が涙に暮れた姿を見たのは、それが初めてだった。父の年齢は当時36歳、だったかな。僕が父と別れた時が37歳。こういう奇遇は全くもって必要ない。

しかし、祖母の訃報に接しても、多分それほど深い悲しみを覚えなかったのは、外孫であることはもとより、父が幼い頃に養子として出され、本来の姓である「三上」を名乗っていなかったことも伏線としてあったのかも知れない。

父が亡くなった時に、親戚から祖母がうちの父を養子に出したことを本当に悔やんでいたということを聞いたのだが、残念ながらそれは一番伝えたかった父の耳には届けることができなかった。しかしその時ふと思ったのだが、僕にとっては父が養子だろうと何だろうと、祖母が「三上家の祖母」であることには何の変わりもなかったのだ、と…。

祖母は、僕たち外孫に対しては厳しい顔をほとんど見せなかったが、内孫をはじめとする同居家族に対しては、相当厳しかったということを、後になって誰からともなく聞いたことを覚えている。

そして、祖母の御通夜は、祖母が嫁いだ(=父が生まれた)西目屋村大秋地区と白沢地区の中間にある公民館で営まれたのだが、この日は大雪と悪天候に見舞われ、車でやってくることができず、村役場に車を置いて何分もかけて山道(くねくねしたカーブが断続的に続くのだ)を登ってきた人が大勢いたことも、後になって聞かされた。

祖母とは、13年間という短い期間しか同じ時間を過ごすことのできなかった。
記憶として残っているのは、弘前市鍛冶町にある「藪そば」が好きだったこと、そして、僕たち子どもがいようといまいと構わず父のことをいつまで経っても「ヒロちゃん」と読んでいたこと(その名残りとして、未だに父方の親戚のことは、伯父叔母問わず「ちゃん」付けで名前を呼ぶ)。

祖母が亡くなって28年、そして父が亡くなって3年半が経つ。
父は、三途の川を渡るのも難儀だっただろうし、無事に仏に仕えることができたかすらも怪しいが、先に行っていた祖父や祖母と再会を無事果たしただろうか。

再会した暁には、父の姿を見つけた祖母ならきっと目くじらを立てて父のことを怒鳴りつけていることだろう。

「ワイワイワイワイ、ヒロちゃん…。アンダマンダ、何やってらのシ!」

合掌

旅立ち、別れ、出会いの春

県内8割の高校で卒業式

 県内の8割の高校で1日、卒業式が行われた。卒業生たちは教職員や保護者、後輩たちに見守られ、思い出が詰まった学びやを巣立った。(平成24年3月1日付けWeb東奥)

卒業を迎えられた高校生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。これからそれぞれの道に進まれることと思いますが、皆様の前途が洋々であることを心から祈念します。

希望を胸に社会に足を踏み出してはみたものの、夢や理想と現実とのギャップに悩むこともあるかも知れません。でも、残念ながら皆さんの描く夢や理想は、一朝一夕で手に入るものではありません。
そのギャップを乗り越えてこそ、初めて夢や理想が近づいてくることを忘れないで下さい。

これから少しずつ、そして確実に、社会の荒波が皆さんの足下に押し寄せてきます。その波は、時に皆さんの足を掬ってしまうぐらい強いことがあるかも知れません。

どうぞ皆さん、これから社会に出ても浮き足立たず、今の立ち位置をしっかりと確認して下さい。足下がおぼつかない時は、一人で踏ん張るのではなく、遠慮なく周囲に助けを求めて下さい。

そして、最後まで確実に皆さんの足下を照らし、皆さんに救いの手をさしのべてくれるのは、皆さんのご家族です。
どうか、お父さんお母さんをはじめとするご家族を大切にして下さい。


僕が高校を卒業したのは平成元年なので、年号の経過がそのまま高校を卒業してから何年経ったかを示す。今年でもう24年も経つわけだ…。ということは、高校を卒業してから来年で四半世紀、ということになる。何か、急に凄く老け込んだ気分(苦笑)。

卒業式が終わり、教室に戻り、担任だったK先生が涙をこらえながら最後の訓示を述べた。聞くと先生にとって、僕らが最初の卒業生だったらしい。
先生の指示で、同級生の一人がアコギを奏で、みんなで唄った長渕剛の「乾杯」。男子も女子も関係なく、唄いながら涙を流していた。突然教室から歌声が聞こえたため、隣のクラスでは何事が起きたと覗き込む人もいた。

その後僕は、同級生のケンちゃん(現在同業者です)と、教室の隅にあったロッカーの脇で、人目も憚らず号泣していた。それだけこのクラスのみんなと離ればなれになることが、本当に寂しかった。

別に誰からボタンをせがまれることもなく、誰から花をもらうこともなく、誰から胴上げされることもなかった卒業式だったけれど(笑)、この学校で3年間過ごせて本当に良かった、そんな充実感に満ちあふれつつ、どこか後ろ髪を引かれる思いで、学校をあとにした。

あれから24年。
考えてみると高校を卒業してから24年間、全然会っていない人もいるし、しょっちゅう顔を合わせる人もいる。
ひょっとしたらお互い風貌が変わりすぎて、再会しても誰だかわからない人だっているかも知れないな、とか思ったり。

それでも不思議なことに、昨年の暮れもそうだったけれど、20年以上経って久し振りに級友と再会しても、全くと言っていいほど違和感がなかった。お互いに年は取ったが、まるでスゥッと、学ランを羽織っていたあの頃にタイムスリップしたような感覚が蘇るというか。

10代20代の頃は、都会(まぁ、青森県外に出ればどこでも都会、みたいな錯覚もあったような気がするけど)で暮らすことのステータスというか、優越感のようなものがあったような気がするし、ずっと青森県内、とりわけ自宅のある弘前市内(しかも僕の場合、自宅の半径1キロ以内に小学校から大学まで全てが存在していた)で全てを完結することのできた僕からしてみれば、新しい土地で新しいスタートを切った同期生に、一種の羨望のようなものもあったのも事実だ。

やがて年を重ねるにつれ、都会への羨望は薄れ、むしろ田舎(地元)で生活していることへの優越感の方が強くなってきた。

30代半ばを過ぎてから、県外に住む同期生たちとも会う機会が増え、「地元に帰りたいよなぁ」なんていう郷愁っぽい話を聞くことが多くなった。
そのたびに、地元にいる人間の一人として、彼らが帰省した時にでも、昔を懐かしむことのできる場所を用意しなければ、という思いに駆られる。

幾度となくこのブログでもお話ししているけど、僕にとっての高校生活は、本当に充実した3年間だった。素晴らしい級友、学友、先輩、後輩、そして教職員に恵まれたと思っているし、あの3年間がなかったら、今の僕はないと断言しても過言じゃないぐらい、それぐらい充実した3年間だった。
高校時代の友人は、僕にとって一生の友であると断言できるぐらい、充実していた。

今でも、あの卒業式の日のことを思い出すと、グッと胸に迫るものがある。
そして今でもあの時の思いは色あせぬまま、僕なりにがんばってます(笑)。

3月って、やっぱり何か切ないね。