Monthly Archives: 5月 2009

今年のベストセラーが早くも決定

村上春樹さん「1Q84」予約1万冊超、アマゾン新記録

ネット書店大手のアマゾン・ジャパンは25日、今月29日発売予定の村上春樹氏(60)の新刊「1Q84」(新潮社)の1、2巻合わせた予約冊数が、20日時点で1万冊を超えたと発表した。
同社書籍ストアの国内長編文芸作品では、過去最多の予約注文数という。
同社によると、これ以前に予約が最も多かったのは、同じく村上氏の「アフターダーク」(講談社)だった。

ノーベル文学賞に最も近いといわれている村上春樹。僕が初めて村上春樹の本を手にしたのは小学校6年の時で、夏休みに婆ちゃんの家に遊びに行った際、近所の本屋で見つけたのが最初だった。たまたま手にしたその本の内容に自然と引き込まれ、「鼠」が登場する初期の3作を一気に読破したのが最初の出会いだった。

それ以後も「ねじまき鳥」三部作や、「海辺のカフカ」など、ちょこちょこ彼の作品を手にとる機会があったのだが、どういうわけか「ノルウェイの森」だけは未だに読んだことがない。

「海辺のカフカ」の次の書き下ろし作として登場した「アフターダーク」は、過度の期待を寄せすぎたがために、「海辺のカフカ」とはあまりにも違うその世界観に正直閉口してしまったのだが、裏を返せばそれは村上春樹の引き出しの多さ、懐の深さを示す作品でもあった、というわけだ。

そんな中、いよいよ7年ぶりとなる長編小説が発売される。僕ももちろん予約した。でも、これだけ爆発的に予約が伸びていることを考えると、発売日に手に入るのかは、正直ちょっと怪しくなってきたかな。というか、このご時世で予約1万冊を超えるって、ちょっと凄くないですか?

今回は、事前告知(すなわちあらすじや登場人物の紹介)が一切されておらず、どういった内容なのかは、文字通り蓋を開けてみないとわからない(内容を予想しているサイトも多数あるようだが)。

タイトルが示すように、「1Q84」ということは、1984年を巡るストーリーなのだろうか。それとも…。

一坪農園

GWにじゃん子が帰省した際、庭の一角に枝豆とオクラの苗を植えていった。その後、母が水やりをしたり防虫剤を撒いたりしていたようなのだが、オクラの苗はみるみるうちに勢いが衰え、葉が全て落ちてしまった。母と生育状況を確認すると、先の方が黄色くなっていて、どうやらほぼ枯死してしまったらしい。
母は「除草剤を撒くタイミングを間違えた」と悔やんでいたが、実際のところはわからない。

そんな中、どういう風の吹き回しなのかわからないが、園芸には全く興味を示したことがない妻が、取引先から枝豆とゴーヤの種を購入してきた(我が家では、どういうわけかゴーヤの消費量がかなり多いのだ)。

妻は「お得意先に行ったら種買わない?って勧められた。」と言っていたが、これは暗に、僕にその種を植えろ、ということなのだろう。

早速土曜日、ホームセンターに行って肥料土を購入、家の庭の一角、だいたい一坪ほどある土を起こして、種を植えてみることにした。せっかくなので、ほぼ駄目になりつつあるオクラ苗の代わりにオクラの種、そして個人的に消費量の高い白ネギ、大葉の種も一緒に購入し、植えてみることにした。
ただ、限られたスペースだったので、白ネギと大葉はプランターに別植えし、とりあえず枝豆(毛豆)、ゴーヤ、オクラの種を植えた。

水はけがいいようなので、乾いた土に水をたくさん与えたあと、鍬で肥料土と混ぜ、若干土に粘りがでたところで、畝のようなものを作り、30~50センチ間隔で種を2~4個ずつ蒔き、軽く土を被せ、再度上から水を軽くかけた。作業時間は30分にも及ばなかった。

数年前にも種を植えて夏から秋にかけて収穫したことがあったが、あの時は確か枝豆とオクラだけだったような記憶がある。あと、ジャガイモも収穫したような…。
少なくともゴーヤ、白ネギ、大葉は今回初めて植える種だ。

約2週間後に発芽するようだが、果たしてうまくいくかどうか。
約一坪のスペースながら、ちょっと窮屈に種を植えてしまったような気も。かなりの間引きが必要になりそうな予感(苦笑)。
経過は後日、またこの場でご報告します。
報告がなかったら、発芽しなかったということで…(笑)。

(追記)
また写真を撮り忘れました。撮影したらアップします。

父を偲ぶ会…第二弾?

16日は18時過ぎから久しぶりに仲間がうちに集まった。大義名分はザワ先生が「のんべのオヤジさんに酒を持っていきたい」ということだったのだが、蓋を開ければいつもの通りの飲み会だった。
まぁ、先週父の仲間に十分偲んでいただいたので、僕としてはしんみりするよりはこれぐらいの方がよかった。もう一つ引っかかっていたのは、うちの父が亡くなって約3週間後に、この日顔を出してくれた畏友カツのお母さんも亡くなっていて、うちの父だけを偲ぶというのもなんだかちょっとカツに対して申し訳ないな、という気持ちもあったわけだ。だからカツにはどういう趣旨でうちに集まることになったのか、ということは伝えずに、予定だけを確認して、うちに来てもらうことにした。

リクエストのあった餃子の種を捏ね、牛スジはこんにゃく、大根と煮た。何となくゴーヤを食べたくて、ゴーヤチャンプルーも作った。ひじきも薄味に炊いてみた。

どうせ食うなら餃子は焼きたての方がいいだろう、ということで、ホットプレートを用意。皮でくるんだ餃子の数は70個以上。餃子屋さんの苦労ぶりを、ちょっぴり感じることができた、かな。

18時過ぎ、ザワ先生、タケちゃんが相次いでやってきた。ところが、タケちゃんが持ってきた手土産に、僕は固まらざるを得なかった。
「いやぁ、これ食べたくてさぁ」と持ってきたのは、なんと大阪王将の餃子(爆)。油の敷かれたホットプレートを前に、一同苦笑するしかなかった。
カツ先生はこの日子供の運動会で、疲れもあったのかついさっきまで寝てたらしく、家に来た後も欠伸を連発していた(笑)。
結局タガシ先生は来ることができず、4名のこぢんまりとした飲み会になったが、調子に乗って焼酎と日本酒を飲み過ぎ、先にTKOされたザワ先生を見送った後、23時頃にはオーナー自らダウン寸前。
「寝る!」と発した一言でおひらきとなったようだ(苦笑)。

その前後からほとんど記憶がないのだが、フラフラになりながら洗い物だけはしたことを覚えている。ちなみに翌日(日曜日)は、廃人のように昼過ぎまで寝ていたことを告白しよう。

この日、久しぶりにやってくる畏友のために、朝から仕込みを開始していたわけだが、実際の作業はこんな感じだ。要するにレシピ。

餃子の種はキャベツ、ニラ、タマネギをみじん切り(フードプロセッサーは使わず、手切り)したものに、ニンニクとショウガのすり下ろしを少々。ラード、砂糖、塩、醤油、味噌、ごま油を少量ずつ加え、後はひたすらこねくり回す。味をなじませるため、いったん冷蔵庫に放置。皮は市販のもので、70個包むのに1時間要した(苦笑)。

ゴーヤチャンプルーは、スパムがなかったのでコンビーフで代用。ゴーヤは中のワタをを丁寧にくりぬいて、砂糖と塩で揉んで少し放置、冷水に晒して水を切る。
ちなみにこのまま軽く茹でると、かなり苦みが取れる。冷水に晒しで水を切ったゴーヤをツナ缶と合えるのがお勧め。

チャンプルーは、フライパンに薄く油を引き、ゴーヤ、水切りした木綿豆腐、コンビーフを順に投入し、めんつゆ少々を加え、最後に生卵を投入してかき混ぜる。このとき、火は早めに止めて余熱で卵を固める。…あ!削り節を入れるの忘れた!

牛スジの煮込みは、アクを抜くために、一度沸騰させたお湯にスジをぶち込んだ後、お湯の色が変わり表面に大量のアクが浮き上がったら火を止め、牛スジを水で洗う。ここで手を抜くと絶対に不味くなるので、手がオイリーになろうともかまわずひたすらアクを洗い流す。たぶんこれだけ丁寧に洗えば、2度目のお湯はだいぶ綺麗になるはず。ブラックペッパーを実のまま一緒に煮込む。こんにゃくは味付けと同時に、大根は別茹でで後から投入。味付けは、鶏ガラスープを入れたこと以外は敢えて企業秘密にしておこう(笑)。
圧力鍋を使えば、味の染みたトロトロの牛すじに仕上がる。

人気ナンバーワンは牛すじだったな。「これ、美味い!」と汁まで飲み干し、おかわりのリクエストもあった。餃子は大阪王将の餃子が少々冷めてしまったということもあり、僕の作った餃子に分があったみたいだ。こちらも追加オーダーあり。ゴーヤは結構人気があったものの、ちょっと冷めてしまっていたこともあり、結局最後残った。

本当は小松菜とちりめんじゃこの和え物も作りたかったが、ひじきがあったのでやめた。

でもって、こんなに一生懸命作ったにもかかわらず、一つも画像がないのは、食うことに一生懸命で、撮影を忘れたから。…というより、撮影よりも食べている人たちの反応が気になって、それどころじゃなかったから、でした。

ETCはCO2削減に有用!?

お盆休みの平日、休日扱いのETC割引検討…国交相(読売新聞)

金子国土交通相は14日、土日・祝日に上限1000円に下げた高速道路の普通車料金について、「お盆休み期間中を休日扱いとすることも考えなければならない」と述べ、お盆休み期間の平日への適用を検討する考えを示した。

適用日を増やすのは、今年は8月15、16日が土日で、この2日間に高速道路の利用が集中すれば、ゴールデンウイーク以上の大渋滞が予想されるからだ。

この取組に向け、今年のGWの状況を分析するそうだが、8月までに間に合うのだろうか。
そもそも高速道の通行料金1000円均一は経済対策をメインとしたもので、ETCの助成制度はETCの普及を目的としたものであり、別物だったはず。ちなみにETCの助成について、財団法人高速道路交流推進財団が発表した大義名分はこうだ。

有識者で構成された「サービスエリア等資産譲渡代金の還元策に関する検討委員会」の報告、及び国土交通省からの「保有資産の還元策」についての要請に基づき、検討した結果、ETCの普及促進は渋滞を解消し、CO2の削減に非常に有効な手段であり、公益的な要素が大きいと判断し、当財団の保有資産を活用して、ETC車載器新規導入助成事業を行うことにしたものです。

しかし結果として、全く有効な手段ではなかった。
とりわけGWの高速道は、10キロ以上の渋滞が昨年比で倍増した他、スムーズに流れるはずのETCの料金所までもが混雑した結果、一般料金所の方がスムーズに流れるという皮肉を招いた。
渋滞を解消するはずのETCが大渋滞を招き、結果CO2の排出量も相当増えているはずだ。

金子国交相は「お盆の時期の混雑を緩和するために」高速料金1000円均一の期間を広げる、ということらしいが、だったらいっそのこと、この間はせめて1000円均一の通行料をとりやめ、電車等の輸送手段を利用するように仕向けることができないのかねぇ?
というか、盆や正月、GWといった時期に、どこの交通手段も一切割引なしの通常料金になるのが当たり前のご時世で、なぜ高速道路だけ1000円乗り放題が可能になるのか。
答えは多分、通常料金との差額は埋蔵金をはじめとする国の財源をぶつけることができるため。JRや航空各社には、こういったことで国の財源を投入することはまず考えられないことだし。

数値に表れていないので何ともいえないのだが、おそらくGW期間中のCO2排出量は、かなり増加したはずだ。
だったら、エコポイントの範囲を拡大して、「高速道の渋滞する時期に鉄道会社を利用して帰省や旅行をされる場合は、特別にエコポイントを付与します。」と銘打った方が、何となく聞こえがいいように思いませんか?

結局、そこまでしてでも高速道路を利用させたいのは、1000円均一の通行料により生じる不足財源を、民営化された道路会社に拠出するための方策なんじゃないのかな?

省エネ家電の購入に際してのエコポイントや、低燃費車などの減税など、一見環境にも配慮しているようだが、おそらく経済対策の各省庁の意思統一はちっとも行われていないはずだ。その中でも、いわゆる縦割り行政の最たるものが、環境にまるで優しくない高速料金1000円均一だろう。

しかもこのETC割引の制度が2年間限定だということは、意外と知られていないような気が…。そう考えると、結局目先のニンジンに踊らされてませんか?

まぁ、かたやエコだ何だと誇っている一方で、CO2の排出を助長するような1000円乗り放題って、やっぱりなんか国の施策が矛盾しているように思えるのは、僕だけだろうか。

父を偲ぶ会

9日夜、弘前市内の野球関係者が集まり、父を偲ぶ会を開催してくれた。
会場の都合もあり、当日集まったのは約50名。錚々たる顔ぶれがずらりと並ぶ中、我々家族は一番高い席へと案内された。その前には、父の遺影がはにかんでいた。

発起人のM先生による挨拶の後、父が一番慕い、そして父を一番慕ったK先生が挨拶と献杯、ではなく乾杯の音頭を取った。K先生が敢えて献杯ではなく乾杯としたのは、「父が死んだとは思っていない」という思いからだという。既に同じテーブルに座る母、妻、そして妹は涙腺スイッチが壊れたようで、ハンカチが手放せない様子だった。僕はといえば、何かこの会場に父の姿がないことへの違和感と、父がいるのではないかという期待感から、終始ボーっとしながら話に耳を傾けていた。
乾杯の後、急遽家族を代表して挨拶することになった。マイクの前に立つと、たくさんの見覚えある顔ぶれがこちらを見ている。でも、父はいない。そのことが何だかとても不思議というか違和感があるというか、この場に父がいないことへの悔しさがこみ上げてきて、思わず言葉にならないほど号泣しそうになった。
ところがどうしたことか、一言挨拶したとたん、何かスゥッと力が抜けたような錯覚に襲われた。あとは勢いのまま、生前父が放った失言の数々を詫び、父がここにいるような気がすること、いや、ここにいるんだということ、父は死んだが、皆さんの心の中で生かして頂きたいということ、母が継続して事業を行うことなどを一通りお話しさせていただいた。
席に戻ると妻が「挨拶考えてたの?」と聞いてきた。こういう場面があることは織り込み済みだったので、多少は考えていたが、ほとんどは思いつきだ。

どうやら僕は、スラスラとまではいかないものの、かなりベラベラ話をしていたらしい。
ただ、社交辞令とは思うが「いい挨拶だった」というお褒めの言葉を何人かから頂いたので、それなりのことは話せたのだろう。実のところ、何を話したのかはあまり覚えていないのだ。

その後も、父と親交の深かった人たちが、父の功績を称えながら思い出話を語ってくれた。
県内で初開催となった日展のこと、高校時代の野球部のこと、選挙のこと、議員になってからの父のこと、…先輩や仲間が語る思い出話には、僕の知らない父がたくさん現れた。
恐らく、いろんな思いを馳せながら、父のことを思い出してくれたことだろう。

僕を除く家族はスピーチが始まるや終始ハンカチを握りしめている状態だったのだが、僕はどういう訳か、涙はほとんど流れなかった。

偲ぶ会が終わった後、父の遺影に近づき語りかける人、「マガ…」と呟いたまま放心状態の人、ひたすら手を合わせる人など、たくさんの人が今となっては無口になってしまった生前の父に哀悼を寄せていた。そしてその後、多くの人から声をかけられ、そのほとんどは、「がんばれ」「お母さんを大事にしろよ」という言葉ばかりだった。気遣って下さる言葉の一つ一つが胸に沁みた。乾杯の音頭を取ったK先生は、僕の手をぎゅっと握りしめ、「まだ、頑張るベシな…。」と言ったまま、目を伏せて黙り込んでしまった。
こんな憔悴したK先生を見たのは、初めてだった。これだけ大勢の方々が父のために集まってくれたこと、そして心の底から父の死を悼んでいることを改めて知り、知られざる父の偉大さ、そして父の背中には、もはやいつまで経っても届くことはできないことを思い知らされた。

気がつくと父が亡くなって8ヶ月が経った。
ようやく僕の中で、父の鎮魂、そして浄化が始まったようだ。