Category Archives: ただの日記

JOY-POPSのこと #thestreetsliders

僕が彼らのことを知ったのは高校2年の時だった。

音楽雑誌の裏表紙、新しく発売される「天使たち」というアルバムの名前とは裏腹に、見るからに強面でひねくれたような、鋭い視線を送る4人の男たち。とても天使とは程遠いとしか思えない彼らは、「THE STREET SLIDERS」という名のバンドだった。

程なく、彼らのアルバム「天使たち」が収録された(正しくは、友達からダビングしてもらった)カセットテープを入手。

重厚な低い音、そして嗄れた声を初めて聴いたとき、これまで触れたことのない、そして、触れてはいけない何かに初めて触れてしまったような、そんなザワザワするような居心地の悪さ。それと同時にポップミュージックを好んで聴いていた僕にとって、何だか新しい扉を開いたような、そんな気分だった。

「天使たち」は彼らにとって5枚目のアルバムだった。どちらかと言えば玄人好みというか、業界人受けするバンドだったらしく、満を持してのブレイク、といっても過言ではないだろう。

そして僕は、その後「Joy-Pops」と店名を変えることとなる弘前市内の某レコード屋に足を運び、初期の頃の楽曲をリミックスして収録した、彼らにとって挨拶代わりとも言えるアルバム「REPLAYS」を購入した。それが、初めて購入した彼らのアルバムだった。

THE STREET SLIDERS。
1980年にバンドを結成、1983年3月にメジャーデビュー。86年11月まで5枚のアルバムを発表しているので、かなりハイペースだったことが窺える。というよりもこの頃は、1年足らずのインターバルで次のアルバムが発売される、ということは日常茶飯事だった。
洋楽が隆盛を極めていた時代でもあり、国内はバンドブーム。新たな音楽が次から次へと溢れ出てくるというよりも、音楽そのものが飽和状態にあって、本当に聴きたいと思った音楽に辿り着くまで色々寄り道してしまう、大袈裟に例えるならばそんな時代だったかも知れない。

彼らの音楽は、ロックとブルースとダンスの融合、時々ポップ。
見た目は完全に武骨なロックンロールバンドなのに、サウンドを聴くと、ゴツゴツした中に繊細さも垣間見えて、実はとてもきめ細やかなバンドなんじゃないかと思うようになった。
そして大学生の時に、初めて彼らのライブに足を運んだ。が、彼ら4人の姿を生で見たのは、その時が最初で最後となった。
さほど広くないホールに集まった、お世辞にも、決して素行がいいとは言えなさそうな雰囲気の観客に圧倒されつつも、友人2人と開演を待つ。

やがて幕が開き、ギターとボーカルを務めるフロントマンのHARRYが声高に「ハロゥ」と叫ぶ。
その一言で始まったライブは、熱狂する観客とは裏腹にMCの一つもなく、4人の男たちが黙々とステージで演奏を繰り広げた。その光景にただ唖然としながら、ひょっとしたら僕みたいなにわかファンのクソ坊主が、コアなファンの集まる場違いな会場に足を踏み入れてしまったのだろうかという後悔の念を抱いているうちに、ライブは終わってしまった。

情けない話だが、結局何の楽曲を演奏したのかも覚えていないぐらい浮つき、焦燥していた。
圧倒的なステージ、それに熱狂する観客。それをまるで第三者のように傍観する、大学2年のクソ坊主。

これが僕にとって人生最初で最後の、THE STREET SLIDERSのライブ体験だった。

しかし、この前後からバンドとして活動休止(不慮の事故によるものもあった)を挟むようになり、ソロ活動も目立つようになった。

もう一人のフロントマンである蘭丸は、RCサクセションの仲井戸麗市とのユニット「麗蘭」を結成し、活動するようになっていった。

そして、いつかこの日が来るんじゃないかと思っていたが、不動のメンバーで20年間を駆け抜けたTHE STREET SLIDERSは、結局2000年に解散してしまった。

2003年に行われた、エピックレコードジャパンの25周年記念イベント「LIVE EPIC 25」。
東京公演のチケットが獲れず、大阪でこのライブを観ることとなった僕は、ステージに現れた男の姿を観て、唖然とした。

HARRYだった。

相変わらず何も言わず、おもむろに、そして黙々とギターを奏でながら、嗄れた声で「風が強い日」を唄い上げた。
あの日に観た、もはや説明のつかないライブとはまた違った身震いが全身を走った。
もう一度、彼らの姿を観てみたい。
そんな思いが燻り始めたが、それは叶わぬ夢だとわかっていた。大体、あの個性の強い4人が一堂に会するなんてあり得ないことだと思っていたからだ。

2008年、久し振りにHARRYの名前を目にした。「GATEWAY」と銘打たれたそのアルバムは、THE STREET SLIDERSのセルフカバーアルバムだった。
奇しくもTHE STREET SLIDERSのデビューから25周年。真意はわからないが、きっと彼なりのけじめの付け方だったのかも知れない。

更にデビューから30周年となる2013年には、蘭丸を除く元メンバーの2人(JAMES、ZUZU)が、HARRYのツアーに帯同したことを知る。この3人が揃ったのは、解散してから初めてのことだったそうだ。
否応なしにも高まる「THE STREET SLIDERS再結成」への期待。

しかし、そんなに簡単に物事は進むはずがなかった。

そして今年、デビューから35周年。5年毎にサプライズを巻き起こすHARRYが打って出た行動に、唖然とした。
蘭丸とかつて組んでいたユニット「JOY-POPS」を再結成、全国ツアーを行うというのだ。
二人が同じステージに立つのは、解散してから初めてで、18年ぶりだそうだ。

発表された全国ツアー最終日、7月8日の公演は、何と青森クォーターでのライブだった。行かない理由はないと、一人分のチケットを購入した。(その後続々と追加公演が発表され、現在9月末のビルボード東京・大阪まで発表されている。)

しかし、他の会場は軒並みソールドアウト(しかも即日完売の会場もあったぐらい)なのに、青森会場はまだチケットが残っているらしい。正直、寿司詰めの酸欠状態になるのも本意ではないので、少しぐらい余裕があってもいいかな、と思う反面、青森県民の「SLIDERS熱」はかつて相当だったと勝手に思っていただけに、意外な感じも受けた。

さて、すっかり浮き足立って内容を覚えていないあのライブから25年以上が経過した今日、果たしてあの時のクソ坊主は、彼らの姿を、彼ら2人の立つステージを、この目でしっかりと凝視することができるだろうか。

最近の動向を見聞きした話では、HARRY自身も色々人生の苦楽を重ねるうちに心境の変化があったようで、僕が知っている寡黙で無口なイメージではなくなっているらしいが、今から7月8日が楽しみで仕方がない。

そしてお楽しみついでにもう一つ。
何と、THE STREET SLIDERSのシングル集「The SingleS」(4枚組CD)が発売。
入手困難となったカップリング曲も含めた全54曲収録という圧巻の内容。リマスタリングが施されていて、音が素晴らしく良くなっております、ハイ。あの頃の時代を一緒に過ごした皆さん、これはマストバイです、ホントに。

もうね、ここまで来たら、次に期待するのはアレしかないでしょう。

「走る」ということと長く付き合うために

2018年も6月に突入した。
季節は移ろい、初夏の気配だというのに、ここに来て風邪である。

実はここ数年、この時期に風邪をひくことが非常に多くなった。しかも、どこからもらった風邪ではなく、風邪をひくそれなりの理由、原因が自分自身にあることを知っている。裏を返せば、風邪をひくかもしれないとわかっていながら、本当に風邪をひいてしまうのだから、学習能力に欠けているというか、バカではなく単なるアホなのだろう。

だって、バカは風邪をひかないって言うじゃないですか。

罹患してすぐに、約21㎞を走ってしまった。先週の走れメロスマラソンだ。初期症状が現れていたのに、それを無視したのだ。
その2日後、大したことはないだろうと油断して12㎞走った。これが悪化の途を招いた。
一瞬の油断が一生の後悔となりかねないことを、改めて肝に銘じようと猛省した。

ようやく喉の腫れは少しだけ引いてきたようだが、今度は咳き込むことが多くなった。すっかり初老の域に達した人のようだ。
夜になると激しく咳き込むこともあるので、自律神経が不安定になっていることも否定しないが、いずれにしてもそういう年頃に差し掛かっているということを自覚しなければならないのだろう。

ちなみにどうでもいいことだが、先月のランニング、総走行距離は約190kmだった。自分としてはもう少し行けるんじゃないかと思っていたけれど、色んな要素が重なってこの結果となった。今の自分には、これぐらいがちょうどいいのかも知れない。とはいえ、常日頃から呪文のように、走った距離より中身、と負け惜しみのように呟いている身としては、先月の中身はかなり充実していたと思っていただけに、下旬の風邪は本当に余計だった。

そんな中にあっても、今朝はブラインドランナーであるAさんの伴走を務めてきた。以前から約束していたことだし、既に半年以上伴走していなかったし、今日を逃すと次回がいつになるか確約できないという状況の中だったので、這ってでも行こうと決めていた。

来年で70歳を迎えるAさん。正直、走るというよりは小走りに近いペースとなる。自宅からAさんを迎えに行き、弘前公園内をくまなく走り、再びAさんを送り届け、自宅に戻る。これで大体21キロちょっと。ほぼハーフマラソンと同じ距離になる。このうちAさんと走るのは10kmちょっとだけだが、トータルで約2時間半掛けてじっくりと走るのだ。

もちろんただ漫然と走るのではなく、右折左折の指示はもちろん、ちょっとした段差があることも伝えなければならないし、足元の状態にも気を遣わなければならない。

ただ、Aさんと走る時は、自分にとって「気づき」が得られることが非常に多い。今日も走りながら会話を繰り広げ、「マカちゃん、悟りを開いた人みたいだな」と笑われた。そんな今朝の会話を少し膨らませて披露しようと思う。

いつものことながら今日も何だか七面倒くさくてクドい話なので、悪しからず。


「趣味は何ですか?」と聞かれ、「走ることです」と胸を張って言えるようになってから数年が経った。「最近、ジョギングを少々」なんて遠慮がちに口にしていた頃が懐かしい。

「走る」ということには、人それぞれ色んな目的があると思う。
ダイエットだったり、健康増進のためだったり、誰かに負けたくないという思いだったり。
そして、遂にその目標が達成された暁には、走るという「苦しみ」から解放される人もいるだろう。

だけど僕の場合、幾つかの目的達成を目指し、そしてそれをクリアしていく中で、走るという「楽しみ」を覚えた、といえるかも知れない。そして、「苦しみ」より「楽しみ」が上回っているうちは、多分「走る」ことをやめることはないと思っている。

ちなみにその「楽しみ」というのは、まだ見たことのない自分に会うことだ。

正直、ここまで「走る」ことが楽しいとは、考えても思ってもいなかったことだった。運動という運動全てを苦手としていた自分(それは今も変わらない)が、この年代となってこんなに「走る」ことに没頭するなんて、25年前の自分には想像もつかないことだった。
でも、何でこんな風になったんだろう、と時々考えることがある。もちろん、偏屈の塊っぽく。

結局のところ僕にとって「走る」ということは、自己顕示をするためのツールであり、自己発見をする方法であり、そして、自己満足を得る手段なのだろう。

以前、走ることの理想形が綺麗な多面体だということを投稿した。その多面体に近づくためには、色んなツール、方法、手段があって当然だと思うし、どうしたら速く走れるか、どうしたら長く走れるか、そしてどうしたら楽しく、いや楽に走れるかを思考する中で、何を極めたいのか、何を追い続けたいのかと考える内容も人それぞれだと思う。

全世界に数百万、数千万といるランナーの中で、自分はほんの小さな存在でしかないということは言うまでもない。でも、小さな存在であるが故に得られるものも計り知れないわけで、そのことが自分の生き方や生活にいい影響を与えるのであれば、それはそれで素晴らしいことなんじゃないか。

端的に言えば、井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る、ということなのですよ。

隣の芝生が青いと嫉妬し、一喜一憂している時間があったら、高い空の向こうにあるものを掴み取りに行きたい。今はそんな気分なのですよ。

だって、主張、顕示、発見、満足。結局のところ、全て帰着するのは自分自身なのだ。

さてこの先、自分はどんな走りを目指そうか。これから先も長く「走る」ことと上手に付き合いながら、まだ見たことのない自分に再び会える日を楽しみにしようと思う。
せいぜい、自己嫌悪に陥らない程度にね。

【お知らせ】弘前・白神アップルマラソンのエントリーが始まりました。7月31日までだそうです。皆さんの快走を祈念しております。

これ以上、何をけずり出せ、と? – #仙台国際ハーフマラソン

【今日はいつになく長文駄文です。】

5月13日(日)、昨年に引き続き仙台国際ハーフマラソンに出場した。

初めて出場した昨年は、グロスで1時間28分02秒(ネットは1時間27分38秒)だった。自己ベストを叩き出したとはいうものの、この結果に満足することはできなかった。でも、当時の自分の力を悟ったつもりだったし、だからこそ来年の大会で「3秒の借り」を返そうという想いも日に日に強くなっていった。

昨年、僅か3秒で逃した1時間27分台。確かにこの壁を叩き壊すべく1年間取り組んで来たのは事実だが、それが最終目標ではない。更にその先を目指して、オッサンはオッサンなりに地道に努力してきた…つもりだった。

備忘録として、ざっとおさらいをしておこうと思う。

今年も陸連登録ランナーとしての出走となり、スタートラインに程近いAブロックからのスタートとなった。
昨年はAブロックの中にBブロックのランナーが紛れ込んでいて憤慨したが、今年は入場口でのチェックがそれなりにされていたようで、少なくとも自分の周囲にそういう不届き者の姿はなかった。

早朝4時に起床して仙台にやってきたが、眠気よりも緊張感に押しつぶされそうになる。…って、何をそんなに緊張しているのだ。平常心、平常心。

10時05分に号砲が鳴らされ、レースがスタート。
昨年は雨模様だったこともあって路面状況がよろしくなく、歩を進めるのにも苦労したが、今年は比較的スムーズな走り出しとなった。

周囲のランナーとの接触に気を配りながら時計に目をやると、4分台前半、それも一桁台のペースを指していたので、うまく流れに乗ることが出来たのだろう。あとは最後まで大崩れすることなく、テンポ良く走って行くことを意識するようにした。そして、なるべく周囲に目を配ることなく、自分の走りに集中することを考えた。いや、考えたというよりは、何も考えず走ろうと決めた。

3キロ過ぎで、既に相当発汗していることに気付く。
給水ポイントは幾つか飛ばすつもりだったが、後で何があっても困るので、ひとまず全てのポイントで何かを口に入れることにした。

「テンポ良く」を意識しているとはいえ、上りもあれば下りもあるコース。多少の乱れは覚悟していたものの、思ったほど乱れてはいなかったらしい。…ただし、終盤に現れる貨物線の跨線橋以外は。

10kmを41分台で通過したのは想定通りだった。しかし、11km手前で高橋尚子さんとハイタッチした後で一瞬ペースが上がったのがまずかった。多少テンポが乱れた後、何も考えていなかったはずの脳に邪念が降臨して囁きを始めたのだ。

「無理しなくても良いんじゃないの?」「少しぐらい力を抜いても、誰も見ていないって。」「やめる、という選択肢もあるんだよ。」「ほら、足裏が痛くなっているんじゃない?」

矢継ぎ早に飛んでくる囁きで、迷いが生じる。

そんな囁きを一刀両断したのも、脳の中に現れた自分自身だった。
「今日ぐらいは自分を信じようよ!」

危ない危ない。脳と身体が完全にバラバラになって、自分の身体を赤の他人にしてしまうところだった。
もう一度気を取り直して、体制を整える。

時折沿道から聞こえて来た「マカナエさん、頑張って!」の声に驚きながら、いよいよ貨物線の跨線橋が近づいて来る。ちなみに声を掛けてくれたのは、AさんとTくんだった。(応援、ありがとうございました。)

15キロ通過が1時間2分ちょっと。何も考えないはずだった脳の中で、つい逆算を始める。
残り6キロを28分で走れば1時間30分か。キロ5分を切るペースを、最後まで維持できるだろうか。

跨線橋を上りきったとき、思わずふと時計に目を配る。ペースは4分20秒に落ちていた。
そして、ここまでの疲労の蓄積から、フォームがかなり崩れ始めていることも悟った。急に足音がうるさくなったのだ。
トップランナーは、静かに、本当にスゥッと駆けていく。まるでハイブリッド車のようだ。それに比べたら今の僕は、さながらマフラーの壊れた軽トラといったところだろうか。

程なく、路側帯を歩き始める人たちがちらほらと現れ、更には、脚の痙攣で倒れ込む人も。
ああ…自分もここで脚が痙攣したら、「今日はダメでした」って言い訳できるのに!

20キロ地点手前で、再びこの跨線橋が立ちはだかる。ここが本当の意味での「難関」となる。無心のまま周囲には一切目も配らず、最後の折り返し地点へと向かう後続の仲間から声を掛けられたりしたようだが、反応する余力がほとんどなかったし、視界に入ってこなかった。それぐらい、イッパイイッパイだった。後で聞いたら、フォームがかなり小さくなっていたらしい。

それでもまっすぐ前だけを見据え、いよいよカウントダウンを始める。

最後の上り。一気にペースが落ちていくのがわかる。もはや時計には全く目をくれなかった。いや、時計を見るのが怖かっただけだ。

当初想定していた、20キロの下りからのラストスパートは、不発に終わった。
上半身を揺らし、ドタバタと足音を立てながら、陸上競技場のトラックへと進む。前を走っていた女性ランナーがよろけて転倒する。「大丈夫ですか!」の声すらも掛けることもできず、最後の直線へ。ようやくゴール横の電光掲示板に視線を送ると、1時間27分20秒を過ぎたところだった。どうやら、目標としていた昨年の「3秒の借り」を返すことができるらしい。
両手で小さく拳を握りしめながら、ゴール。
時計を止めると、1時間27分43秒を指していた。
振り返って深々と頭を下げる。90分近くにわたる自分との戦いが、ようやく終わった。
脚が痙攣する気配も、張っている感覚もなかったが、いつになく荒くなった呼吸を整えようとその場に立ち尽くした。

タオルを手に、完走証を受け取る。速報値で、1時間27分40秒(ネットは1時間27分22秒)だった。
結果的にはこのコースで、2年続けての自己ベスト更新となった。

コースとの相性なのかも知れないが、若干湿度が高めだという以外は、曇り空にさほど上がらなかった気温、風もそんなに強くないという、天候を言い訳にできない、走るには絶好のコンディションだったと言えよう。
昨年の「借り」を返し、やっと27分台に到達できたという安堵感がある一方で、この1年間で、たった22秒しか縮めることができなかったという複雑な心境が渦巻いていた。正直、ハーフマラソンを走るのがこんなにキツいと思ったのも久し振りだった。

たかが22秒、されど22秒。

元々余力を残してゴールするつもりはなかったし、この大会に関しては、今年出場するハーフマラソンの中でも最も力を発揮したい大会と位置づけていた。しかし実際のところ、持てる力の何割を発揮できたのだろう。

練習不足を補うべく、それなりに追い込んだつもりだ。マラソンは一夜漬けでどうにもなるものではないことは重々承知している。
「その1秒をけずり出せ」とは、東洋大の陸上競技部が掲げるスローガン。
1年間で22秒短縮という結果に、僕はこれ以上何を削り出せばいいのだろうか、と思案した。

コンマ何秒で世界が変わるトップレベルの短距離と違って、マラソンは分単位で記録が変わることもざらにある。
特に市民ランナーだと、マラソンを走り始めた翌年に1時間も記録が縮んだ、ということは耳にする話だ。

自分の持ちタイムが縮んだからといって何か賞品を頂けるワケでもないし、元々タイムを意識するつもりはなかった。だからこそ、この手の話は完全に自惚れの領域だということはわかっている。事実、別に僕のタイムがどうだろうと、皆さんには何の関係もないんだから。

…嗚呼ごめんなさい。何だかまた面倒くさい話で終わりそうな気配。

その中の一つだけ光明を見いだすならば、思ったほど後半のペースは落ち込んでいなかったということ。いや、ネガティヴスプリット(後半ペースを上げる走り方)を理想している僕としてはダメダメな走り方だけれど、この程度で収まったのはせめてもの救いだった。(…まあ、15キロ~20キロだと10~15キロと比較して30秒も落ち込んでいるので褒められたものじゃないけど。)

(赤色の点がピッチ、青色の連続線はペース)

帰りの新幹線の出発時刻まで、ラン仲間3人とともに仙台駅でお疲れさまの乾杯。
ジョッキを掲げながら、ふと思い出した。

そういえば、体重2キロ増のまま大会に臨んでしまった。
そうか…削りだすべきは、この腹回りに程よくついてしまった、ぷよぷよだったのか。

今回のこの結果を見ると、いよいよ天井が見えてきた感も否めない。しかし、色々あった中でここまで結果に繋げられたのであればいいじゃないですか。ということで若い皆さんには申し訳ないけれど、もう少しだけ悪あがきしてみようと思う。

理想の形は綺麗な多面体 #ランニング

昨年に引き続き、GW期間は「集中講義」と称し、とある練習に出向いていた。
足りないものを探りに行くというか、補いに行くというか、確認しに行くというか、打ちのめされに行くというか、何というか。

連休最終日の日曜日、練習を終えて帰宅すると母が半ば呆れたような口調で呟いた。
「毎日朝からご苦労さん。よく続いてるねぇ…」

熱しやすく醒めやすい、そんな僕の性格を見越してのことだったのだろうか。
「まあな…確かに。うん…。」と思わず語尾を濁していた。

早いもので、ジョギングからランニング、そしていつしか一端(いっぱし)のマラソンランナーとなってから6年目のシーズンに突入した。既に今季最初のレースを終え、今週末の仙台国際ハーフマラソンに照準を合わせている他、その後も既にほぼ毎月のように10km~ハーフの大会にエントリーしている。

母が呟いたように、確かに醒めやすい僕の性格を持ってすれば、既にランニングの世界から「足を洗っていても」おかしくないのだが、珍しく長続きしているという状況にある。

親戚一同が無言になるぐらいの圧倒的な運動音痴で鳴らした自分としては、それを見返したいという気持ちが47歳の中年になった今も、心の中に燻っているということもある。

多分、親戚が住んでいる地域の大会にばかり出場するのは、双方の「生存確認」はもちろん、自分だってそれなりに運動することができるんだということを認めて欲しい、という欲というか願望がどこかにあるからだと思っている。

そして何よりも、これが健康を維持していると思えば、なかなか止めるワケにはいかない。止めた途端に、ほら見たことか。と言われるのもイヤだし。

「50歳までにはフルマラソンで3時間切り」という目標を掲げている以上、最低あと3年は続けなければならないな、と考える一方で、願わくば一刻も早くその目標に近づきたい、と思うこともある。かといって仕事や家のことを疎かにしちゃならない(もう充分疎かにしているのかも知れないけれど)。

なかなか走る時間が割けずにイライラしてくることもあれば、時間があるのに何だか走ることが面倒だな、と気乗りしない時もある。まあ、所詮は素人ランナーだし、そういう日があって当たり前なのだが。

「心技体のバランスが取れている。」

最近、よく耳にする言葉だと思う。特にスポーツの分野では使われがちな言葉だと感じるのは、多分海を渡った二刀流の選手の活躍があるからだろう。

ランニングにおいて、(いや、ひょっとしたらランニングのみならず仕事や家のことも含めて)僕が思い描いていた理想型は、かつては正三角形のようにバランスの取れた「心技体」だった。例えばどこかが極端に突出したり、逆にどこかがベッコリと潰れることで、歪(いびつ)な三角形にならないように、それなりに注意を払ってきたつもりだった。
しかし、今まで綺麗な正三角形の状態で走ることができたのは、一度もなかったし、生活面においてもそれは同じことだ。正三角形どころか、二等辺三角形すらも形づくられていなかったんじゃないだろうか。。

というか、多分そんな正三角形の状態で走っていたら、とっくにフルマラソンで3時間を切るようなエリートランナーになっていたことだろう。大体にして、そもそも箸にも棒にもかからないような運動音痴の中年が、エリートランナーになりたい、なんて放言するんだから大したモノだと思いませんか。…思わないですよね、ハイ。

どこかに故障を抱えていたり、気乗りしなかったり、そもそも体調が万全ではなかったり、なかなかうまくいかないところがマラソンの難しいところであり、面白いところでもある妙味。人生をマラソンになぞらえる人もいるけれど、所詮人生もマラソンもそんなもんですよ。どうですか、皆さん。

さてこの心技体、正三角形が理想型ではないということをふと考え始めている。なぜなら、心・技・体それぞれが異なる多面体を持っていると思うから。


(そうそう、今年のハートは形が悪かった)

つまり、こういうことだ。

心の面でいえば、端的に表すならば喜・怒・哀・楽。これだけで既に4面あることになる。
技の面だって、短距離走がやたらと速い人が長距離も得意だとは言い切れず、腕の振り方だったり着地だったり脚の運び方だったり、色んな技術を総じて鍛えなければならない。
更に体の面となれば、体幹や筋肉、骨格、更には内臓にまで気を配らなければならないことは、言うまでもなく。

そう考えると、一言で心技体といっても、実は色んな点が結び合って線となり、それが面を形成して複雑な多面体になって初めて、心技体のバランスを保つ、とは考えられないだろうか。


(さくら以外の枝でハートが作られている感じ。これって…)

ちなみに、点と線、線と面の関係は、これまでも何度か持ち出してきた話。

…何かまた七面倒くさそうな語駄句が始まったぞ。と思った方もいることだろう。

いいんです。

47歳の運動音痴は、日々こんなことを考えながら、この先の戦況を踏まえ、どういう言い訳に結びつけようか思案しているのだから。

ここ数年恒例となっていた弘前城リレーマラソンへの不参加が決まり、10月に開催される弘前・白神アップルマラソンへの出場も微妙な状況となりつつある昨今。

限られた時間と機会の中でいかに効率良く、かつより効果的なパフォーマンスを発揮するか、今はそちらの方に意識がかなり向き始めている。

どうやら今シーズンも、メンタルを鍛える機会が増えそうだ。理想とするような多面体を作り上げるまで、わずか3年という時間では到底足りなさそうな気がしてきた。


(独りとはいえ桜吹雪の舞う中を走るのは、何だか感動的だった。)

約35年ぶりの「山登り」

小学校4年の時に、僕はボーイスカウトに入隊した。
先に従兄が入隊していて、心身ともに軟弱な僕を見かねた伯父から「お前はもっと強くならなきゃならん」と強い勧めがあってのことだった。

それから約6年間にわたり、週末はボーイスカウトの活動に従事することが多かった。

二度と思い出したくない、苦々しい思い出が多々ある一方で、印象に残っているイベントも幾つかあって、その中でも、母の生まれ故郷でもある合川町(現:北秋田市)大野台への自転車でのキャンプ遠征と、目屋ダムへの夜間歩行訓練、そして高校1年の時に宮城県白石市(通称「裏蔵王」)で行われた「日本ジャンボリー」は、忘れることのできない思い出となっている。
忘れられない思い出については、機会があれば今後明らかにすることにしたいと思う。

ボーイスカウトのキャンプは弘前市郊外で行われることがほとんどで、自転車を使って移動することが多かった。ただし、参加人数が多くなった時の大きな荷物、例えばテントとか調理器具などは、リーダーや隊長の車に積んで運んでもらうこともあった。
場所は大体決まっていて、弘前市南西に位置する久渡寺山か、岩木山麓にある高長根山、この2か所だった。

久渡寺山に関しては僕の中学校の学区内にあり、自宅からは約6.5キロのところにある。
行きつく先が久渡寺の駐車場という一本道の県道は、延々かつダラダラと上り坂が続く。あの頃はまだ川沿いの自転車道も歩道も整備されていなかったので、時々車にクラクションを鳴らされながら、まさに隊列を組んで怖々自転車を漕ぎ続けたものだった。それが駐車場まで残り2.5キロほどになると完全に農家集落となり、車の数もまばらとなる一方で、上り坂も徐々に勾配を増すようになる。

やがて残り1キロとなると、更に勾配は増し、自転車を漕ぐのもやっととなり、自転車から降りて手押しで坂を上ることもしばしばあった。

しかし、ようやく終点の駐車場に到着しても、ここから更に山の中腹にあるキャンプ場までは、自らの足で登る必要がある。ハイキングといえばそれまでだが、キャンプ用の道具や寝袋の入ったリュックサックを背負って登るのは、ひ弱な少年にとってはなかなか至難の業だった。

「こどもの森」を標榜する久渡寺山のキャンプ場は比較的整備されている方で、飲料水(だったのかどうかは今となっては謎)の蛇口や炊事用の竈などがあったし、平場だったのでテントを張るのも難儀はしなかった。
ただし、夜になると完全に明かりがなくなるため、早い段階で夕食の準備をすることは必須だった。

夕食のメニューはカレーか豚汁と決まっている。理由は簡単。材料がほとんど同じだから。
味噌を入れるかカレーのルーを入れるかで、味が変わるというだけの話。
ただ不思議なのだが、翌朝に何を口にしていたかについては、記憶が全くない。

それはともかく土曜日の午後、キャンプ場に到着すると、テントを設営する係と薪を集めて火を熾す係に分かれ、早々に寝食の準備をする。ロープの結び方や手旗の振り方を年長者から年少者に伝授するという訓練を間に挟み、飯盒で米を炊き、極端に薄いカレーを口にしながら、晩ご飯をみんなで食べる。こういったことが、中学3年になる頃まで続いた。
今みたいにケータイもスマートフォンもなかった時代。単3電池一本で動くトランジスタラジオが、宵闇の静寂をかき消す唯一のアイテムだった。

翌日は、天気が良ければ山に登ることもあるし、悪ければ早々に下山する。
前述のとおり久渡寺までの行きは延々上りが続いてキツいが、帰りは下りなので、楽々スイスイと自転車を転がし、午前中のうちに弘前市内へ戻って来る。
1泊2日の野営は、大体こんな感じで行われていた。
今思えば、サバイバル感覚は確かに養われた…ような気がするし、ひ弱も多少は改善されたのかも知れない。

ただ、奉仕といえばいいのか、困った人を助けたいという精神が養われたこと、そして、料理の腕が上がったことだけは紛れもない事実だ。

あの時以来、久渡寺山を訪れる機会なんてほとんどなかったのに、つい先日、35年ぶりに久渡寺山頂を目指してみようという気になった。

約6.5キロの道路、自転車ではなく自分の脚で何度も休憩を挟みながら久渡寺の駐車場を目指す。
実はこの日、駐車場で折り返すつもりだったのが、あまりに不甲斐ない自分の走りっぷりに立腹していた。
そして、その立腹をどう収めればいいのかわからぬまま、久渡寺山へと足を踏み入れていた。
これが事の発端だった。

…いや、正直言うともう一度久渡寺の山に登ってみたいという思いはどこかで燻っていたのだ。実は昨年も一度登ってみようとアタックしたのだが、登山道が全く思い出せぬまま、すぐに引き返してきた。

取りあえず目指すところは、約35年ぶりのキャンプ場。
道の記憶は相変わらず全く思い出せないのだが、ひとまず登れば何とかなるだろうというノープラン。ある意味、非常に危険な発想だけで山を駆け上がり始めた。

しかも、長袖のランシャツにショートパンツ、ふくらはぎを覆うコンプレッションサポーターといういで立ち。実は、水も持ち合わせていなかった。山を舐めてかかって遭難する軽装者よりも酷い格好だった。本当にごめんなさい。

上り始めて程なく現れた急勾配で、息は完全に上がることに。「久渡寺山頂」と書かれた方向案内板だけが頼りだった。息も絶え絶えで太腿をさすりながら、文字通り歩を進める。縦走というには程遠く、縦歩といった感じ。

馬鹿と煙は高いところへ上る

というが、ジョンがって狼煙を上げた馬鹿が、今まさに久渡寺山を黙々と上っているわけで…嗚呼!そうか、この気持ちは2日前の飲み会「ジョンガルナイト」で焚きつけられたんだな、と思い始めた。

ちなみに「ジョンガルナイト」の模様はFerokieさんが投稿してくださったので、そちらをご覧ください。

話を戻して。
程なく、縦走にピッタリの道と合流。さて、野営の設営に当たり、僕はどっちの道を上ってきたんだろう。視界の開けた中腹にある合流地点に辿り着いたとき、キャンプ場の場所の記憶が蘇った。嬉しくなって駆け上がる。雪に隠れていたフカフカの落葉と枯れ枝がクッションの役割を果たす。5分も上らないうちに、かつてキャンプを行ったそこが現れた。

な、懐かしい…!

今は「お弁当広場」という名前がついているらしい。昔はなかった木製のテーブルと椅子が備え付けられている。
キャンプファイヤーも行えそうなスペースもあるし、更には仮設トイレまで置かれている。昔と全然違うわ…。

妙に感慨深い気分を味わいながら、馬鹿は更に高いところへ上りたくなった。
ハイキングにやってきたと思しき人たちが時々姿を見せる。徐々に道が険しくなり、幅が狭くなる。斜面に辛うじて残ったような道もあり、ちょっと身の危険を感じるな、といったところも。そういえば高いところが苦手なのに。急にそのことが頭をよぎり、途端に足がすくみ、ジョンがっていたものがキュッとなる感覚。

更に山道を上ると、残雪が現れる。やがて残雪の量は、行く手を阻むぐらいの量になっていた。「山頂まであと1キロ」という看板を見てから、どれだけ進んだんだろう。しかし、山頂は未だに見えない。

久渡寺山って、こんなに高い山だったっけ?

35年前の記憶なんて全く当てにならない。
やがて斜面と登山道の残雪で完全に行く手を阻まれ、進むべき道がなくなった。静寂に包まれた森の中で身の危険すら感じたため、「登頂」を断念。急に寒さを感じたのは、残雪のせいだろうか。それとも…。

上って来た道を引き返す。景色に目をくれる余裕もなく、腰の引けた格好で恐る恐る下りながら、これまでの道中をほとんど画像に収めていないことに気がつく。残雪の量も、どれぐらい道が険しいのかも、僕の頭の中にインプットされたのみだ。

結局、中2の気分で山登りを始めたはいいが、47歳という運動音痴の中年にとっては、過酷以外の何物でもなかった。アホだ…アホ過ぎる。

そして、今回記録として残したもう一枚の画像が、これ。下山後、息も絶え絶えの姿。

ちなみに久渡寺山の標高は662.9mだそうな。…色んな意味で山を舐めてはいけません、いやホントに。
いつかまた山頂を目指す…気持ちになるまで考えます。