苦手意識

20150830(画像は今回の記事と全く関係ありません。昨年すすきのの打ち上げ会場近くで撮影した1枚、建物に施されたURL、そしてその下の看板に描かれた店の名前と数々のフレーズに衝撃を受け、ただ何となくアップしたかっただけです。)

8月28日の北海道マラソンまで20日を切りました。今季初フルマラソンは、前走のさいたま国際マラソンから10か月近くも間を空けての出走(といっても毎年のことですが)。この間、脚を痛めたり、足を傷めたり…。もはや傷みがすっかり慢性化してしまっている感じもあり、この痛みと上手く付き合いながら走るか、いっそ走ることから一切手を引くぐらいの腹を括ってもいいのかな、ぐらいの消極的な思いに駆られることもあります。

北海道マラソンは今年で3度目のエントリー、そして僕にとって通算10回目のフルマラソン出場となります。まずは今年のフルマラソンの初戦ということで、いきなりタイムを狙う必要はないレースだという認識を持ちつつも、やはり出場する以上はそれ相応の結果を出したいという気持ちが勝ってしまい、一昨年、そして昨年と、見事なまでに同じ場所で撃沈しました。実際過去2度の大会結果をトレースしてみると、本当に笑っちゃうぐらいに同じ地点でペースダウンしているのがわかるんですね。

北海道マラソンを語る時に欠かせないのが、18キロ以降に現れる「新川通」という折り返しを含む片道6.5キロの直線コース。ここを制するものが北海道マラソンを制する、みたいな記事もよく目にしますが、個人的には新川通りに対する苦手意識はそんなにありません。むしろ問題は新川通を過ぎた後、32キロ過ぎからの残り10キロをどう持ち堪えるかで、道マラを制したかどうかという気分になるんじゃないかと思っています。僕にとっては遥か遠くの視界に飛び込んでくる札幌駅のJRタワー、あれが目に入った時に一気にペースが落ちるということを二度繰り返しています。なので、あれが僕にとっての鬼門といっても過言ではありません。
正直言って、あのタワーが目に飛び込んでくるのが、怖い…って、またこんなこと書いちゃうと意識してしまうではないか。あー、バカバカ。

ただ、この辺りまで来ると一緒に走っている周囲の人も苦しいんですね。そりゃそうですよ、ここまで35キロ走ってきているんだから。
37キロまで来ると、いよいよ北大のキャンパスへと歩を進めていきますが、ここからゴールまでの5キロがまた長いんだわ。

…と、ここまでの投稿内容を読み返してみるとやっぱり私、何となく北海道マラソンそのものへの「苦手意識」が払拭されていないような感じですね。
初めて出場した2年前の時は暑くてきつかったし、前回は暑いのに加えて向かい風が強くてきつかったし、起伏がそんなにあるワケじゃないのに、どうも「きつい」「辛い」という印象を拭えないという。2度のレースともに決して喜べるような結果じゃないので、いい印象を抱くことができないというのも正直なところです。
ただ、ゴールした後にボランティアの学生さんからメダルを掛けてもらったあと、何ともいえぬ感情が胸に去来して、涙がホロッと出ちゃうんですよね。ああ、今年もまたフルマラソンを走ったな…ああ、でも何か悔しいな、また来てやる、って。

でも、本当に苦手なのかどうかは実際わからないというか、これも脳が勝手に作り出している「壁、言い訳、自己保身」なんじゃないか、と。というか、本気でイヤだ、苦手だと思うなら、多分最初からエントリーしないような気がするんです。

こうなると「苦手意識」みたいなものがかなり根強く残っているのかなあ、と思いつつ、今年は何とかその苦手意識を払拭しつつ、平常心で臨んでみたいと思っています。そのためには、まず脳をエゾバフンウニのように軟らかくしないと。
だから、今回はあまり過剰に意識することなく、周囲を眺めながらフンフン鼻歌鳴らして走るぐらい余裕を持って臨みたいところ。理想は、さいたま国際マラソンの時のような、心身ともに全くブレのない走りではありますが、さて、どうなるんでしょうね。
いずれにせよ今回は、タイムとかを意識せずに、まずはしっかり走りきる(理想は最後まで歩かず完走する)ことを目標にしたいと思います。(実は北海道は過去2度とも歩きまくっているという…。)

ここまで整理して一つ、作戦は決まりました。今回、敢えて目標タイムは設けないことにします。決めてしまうと、そのことばかりにとらわれてしまって、頭も身体も心もバラバラになってしまうから…。
そして今年は30回の記念大会、メダルのデザインも一新されることですし、最後はジョグペースでもいいから楽しんで走りきりましょうかね!昨年のさいたま国際と、今年4月のイーハトーブ花巻、いいイメージをなるべく思い浮かべながら。

さて、明朝は32キロのLSD、大会2週間前となる14日は毎年恒例となった西目屋村往復42キロ(ジョグ+ペース走)を入れる予定です。そして、もう一つあることを考えているのですが、それは何なのかは、今は秘密にしておきますね。

道マラは 走った後の 打ち上げが 先着狙いの 本番レース

昭和初期の地形図

小学校高学年の頃の私、時刻表と地図帳が大好きでして、マンガ本より時刻表や地図帳を眺めている時間が長かったような気がします。

時刻表については、当時はまだ長距離普通列車や寝台列車がたくさん走っていた時代、行けるはずがないとわかりつつも、思いを馳せながら鈍行列車だけで北海道一周を巡る旅行のスケジュールを組んでみたり、いかに効率良く鈍行列車だけで東日本を回ることができるか、なんてことを、夜な夜な考えていたのでした。そう、ちょうど青春18きっぷの発売が始まった頃でしたね、確か。

地図帳に関しては、小学校の地図帳だと縮尺が小さすぎてあまり面白みがなかったのですが、中学校の頃になると試験などで登場する地形図、特に50,000分の1や25,000分の1縮尺の地形図に興味を持つようになりました。山から流れてくる河川によって創り出された扇状地や平野、三日月湖と呼ばれる河川の名残によって出来上がった湖沼、田んぼや果樹園の中に点々と現れる集落、その集落を結ぶ道路や鉄路、更には今ではほとんど見ることのない森林軌道など、地形図に広がった地図記号や等高線を見ながら、色んな妄想をするという…。挙げ句の果ては、弘前市内にある大型書店、ここで地形図が販売されているのですが、さすがに立ち読みまでは行かないものの、書籍を買いがてら、何枚か地形図をチラ見してから帰るという、今思えば何だか妙な少年時代を過ごしていました。

やがて年齢を重ねる毎にそういった興味も薄れていったわけですが、妄想に火を付けるようなネタがあることをつい先日、40代半ばになって知ることとなりました。

スタンフォード大学が公開している日本国内の「50,000分の1」の地形図

日本国内全ての地域が網羅されているというわけではなく、例えば北海道の道南地域や青森県内でも下北半島、津軽半島の一部、その他近畿地方などで抜けている地域があります。なぜ抜けているのかは謎ですが、かなり広範囲にわたって網羅されています。(文献として見つけられなかったのかな?)
何が凄いってこの地形図、現在のものではなくて、80年以上前の昭和初期を中心とした地形図なんですね。手書きのメモが残っているものもあり、実際にどなたかが使われたものを電子アーカイブしたのでしょう。(八甲田山周辺の地形図には、雲谷から八甲田を経由して田代平に抜けるというルートが青書きされています。もしかしたら、自衛隊の訓練などで使ったものなのでしょうかね?一枚毎のページには「COLLECTION Japanese Military Maps」と書いてあります。)
ということで、当然自分の住んでいる町がどんな感じだったのか見たくなるというのが、人間の心情じゃないですか。早速見てみました、弘前の地形図。

弘前

弘前の地形図は昭和14年に修正されたもののようですが、それでもまだ戦前のものですので、市役所や弘前公園を中心とする辺りは地形が大きく変わっていることはないにせよ、建物の位置が微妙に違っていたり(時敏小学校が今の弘前市文化センターの場所にあった時代です)、今はすっかり住宅地として拓けた城西団地や弘前大学医学部そして附属病院の辺りがまだ田んぼだったり(そういえば城西団地になった界隈の田んぼで蛍を見た記憶があります)、周辺に村がたくさん点在していたり、その村役場(確か旧清水村役場)がなぜかうちの町内にあったり、更にはまだ弘南鉄道大鰐線が開通していなかったりと、見ているだけでちょっとワクワクします。…というかこれだけ挙げただけでも、今とはかなり違いますね。
私の興味はこれ一枚でとどまるはずがなく、弘前の隣には黒石とか碇ヶ関とか五所川原とか青森西部の地形図もあるので、そちらも見たくなりますよね。見てみました、ええ。

ちなみに五所川原の地形図を見ると、今の五所川原市が「五所川原町」になっているほか、五能線沿線には廃止になった駅の名前が幾つか出てきます。もちろん国道339号バイパスはまだありません。

五所川原

ダウンロード可能な画像のサイズがバラバラではありますが、私は7MB前後のサイズの画像をスマートフォンのSDカードに保存、すっかり読書気分で閲覧しています。何か地味だけど、昔を紐解いているような気分になれて楽しいのであります!

でもね…実は一番目を見張ったのが、沖縄本島の地形図でした。何かちょっと、複雑な気分になりました。
もうすぐ終戦記念日ですね。

初めての生前葬 ~葬儀委員長としての備忘録~

「オラ、3月で退職することにしたハンデ。それで、生前葬やりたいんだよ。オメ、葬儀委員長頼むな。」

冬も近くなった昨年の秋のことだっただろうか、飲んでいる席でのJさんからの突然の発表に耳を疑い、言葉を失った。Jさんは御年58歳。定年まで2年を残しての早期退職。以前から早期退職を希望しているお話は聞いていたので、ああ、とうとう決意されたのだな、とさほど意に介さなかったのだが、さすがに「生前葬」の開催と「葬儀委員長」の指名には面を食らった。

きっとJさんなりの冗談なのだろうと思っていたのだが、次から次へと溢れ出る「生前葬」のプランに閉口し、そして、これは本気で「葬儀委員長」を務め上げる腹を括らなければならないと覚悟を決めた。

学生の頃は宴会場でアルバイトをしていたので、冠婚葬祭のしきたりはそれなりに身についているつもりだったし、葬祭にはこれまで何度も参列したことがある(仏事も神事もキリスト教も)。ついでに言えば、親父の時は喪主も務め、義父を送ってまだ1年も経っていなかったから、葬祭の一連の流れは頭に入っている。

が、しかし。さすがに生前葬には参列したことがないし、周囲でも執り行ったという話を聞いたことがない。「わかりました。」とその重責を引き受けたまではいいが、果たして何をしていいのやら、ちんぷんかんぷんだった。これは、えらいことになったかも知れない。

Jさんと僕との付き合いはかれこれ20年以上となる。平成5年4月に僕が社会人デビューを果たした際に、社会人としての「いろは」、公僕としての「にほへと」を叩き込んでくれたのが、僕の隣に座っていたJさんだった。つまり、今でいうところの新人トレーナーのような役割を担っていたのがJさんだったのだ。そのJさんが退職するということは、僕にとっては恩師が退職するようなもので、意に介さないとは言いながらも本当に大きな出来事だった。だから、Jさんから生前葬をやりたい、お前に葬儀委員長を頼む、といわれた時は、正直言ってこんなオレでもちょっと頼りにされているのだと思い、とても嬉しかった。

時は流れ、 3月いっぱいで予定通りJさんは退職、第二の人生のスタートを切った。その後も幾度となく「生前葬」に向けた打ち合わせを兼ねた飲み会が催されたが、相変わらずJさんからは「頼むじゃ、葬儀委員長」と言われるだけで、何をどうしたらいいのかわからないままだった。

しかしこの間Jさんは、来るべきその日に向けて、知らぬ間に着々と準備を進めていた。そして、7月30日(土)にホテル青森でJさんの「生前葬」を行うことが正式に決まった。

最後の打ち合わせは、7月半ばになって行われた。僕がJさんから依頼されたのは2つ。

まず、フェイスブックにイベントページを立ち上げ、参加者を募ること、そして、会場のスクリーンに投影する「祭壇」の画像もしくは動画を作成すること。この時点でJさんは、座席表やチラシなどを作成し終えていた。一方、僕がやっていたことといえば、当日のシナリオの素案作成ぐらいだった。

でも、結果としてこのシナリオの素案があったからこそ、その後の準備に戸惑うことがなかったというのも事実。曹洞宗のお寺から本物の僧侶を導師として招いて読経してもらうので、この間の粗相さえなければ、あとは何とかなるはずだという、根拠のない確信を抱いていた。

あっという間に時間は流れ、この間もJさんから追加提案される「お願い」に応えるべく、週末の時間を準備に割くようになった。そして、イベントページには続々と参加申込がされ、1週間前には参加者募集を締め切る事態となった。恐るべし、Jさんのお人柄。

そして本番前日となった29日、この時点ではシナリオはほぼ完成していたのだが、帰宅したあとにふと思いついたことがあり、その翌日、つまり本番当日になっておもむろに作業を開始。

簡単に言うと、フェイスブックのJさんの個人ページからネタとなる画像を集め、それを繋ぎ合わせ、音楽に乗せて流すというもの。つまり、Jさんのちょっとした回顧録みたいなものを作ってみようと考えたのだ。ベースは、ここ数年にわたり毎年作成している弘前公園RCの新年会で披露する動画。このベースをうまく使いながら、それほど労せずして約3時間で動画の完成まで漕ぎ着けた。会場でのウケはともかく、やるじゃんオレ。

ただ、この動画についてはそもそもシナリオに書いていないので、どのタイミングで流すかを考えなければならない。

Jさん一人に観てもらえばそれでいいや、というものでもないし、せっかくならば是非皆さんにも観て頂きたい。ここだけは葬儀委員長の特権というか我が儘ということで、乾杯直後に流すことにした。

会場のホテル青森に着いたのは、15時20分。まずは15時30分から先行して行われるイベントに参加し、そのあと同じ会場で19時から生前葬が行われる、という流れだった。

イベントは17時30分過ぎに無事に終了、いよいよ生前葬の準備が始まった。

葬儀委員長といっても司会進行役がメインなので、まずは導師を務めるNさん(本物の曹洞宗の僧侶です)と打ち合わせ、読経から説教までの流れ、「弔辞、弔電披露」のタイミングを確認。「祭壇」が投影されるスクリーンの前には戒名(といっても菩提寺ではないので、あくまでも「仮」のもの)や木魚などが用意され、その前には「遺影」や供物が並ぶ。中には、Jさん大好物の「卵焼き」まで…。ここにないのはロウソクと線香ぐらいだろうか。

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あとは、青森ヒバで製作された、一見すると本棚のようなんだけど実は棺桶という代物を設置する位置を決め、PCには開式前のスクリーン(画像)と、祭壇の動画、そして秘密裏に製作した動画の動作確認を行った。Jさんは興味津々で動画を観たがったが、開式後のお楽しみということで我慢してもらった。

18時30分頃から参列者が続々と一輪の花を持って入場。献花台に花を供え、その横に立つJさんに挨拶。「いやあ、何て言えばいいの?御愁傷様でもないし、何だろうね?」とJさんに笑いながら話しかけるも、明らかに戸惑いを隠せない参列者。当のJさんもどう対応していいのか、ちょっと困っている感じ。

わがります!たげわがるんだって皆さんのその気持ち!

僕だってどうやって進行すればいいのか、開式20分前だけど未だに悩んでいるんだから。

参列者は15時30分からのイベントに参加していた人が半数以上だったため、18時50分頃にはほぼ座席が埋まっていた。参加募集を打ち切ったにもかかわらず、飛び込みでの参加もあり慌てたが、欠席者も出たため、結果としては帳尻が合う格好に。

18時55分、いよいよ葬儀委員長、というか司会である僕の出番。まずはお約束とばかりに携帯電話やスマートフォンの電源についての注意喚起をアナウンス。そして、Jさんの略歴を簡単に紹介。やはり慣れない司会のため、少し緊張しているのが自分でもわかる。その緊張の主たる要因は、一体どういうトーンで進めればいいのだろうかという、迷いにあった。

いや、あくまで生前葬は「儀式」なのだから、厳かに行こう。声のトーンを少し低めにし、しかしアドリブで参加者がクスッとするようなエッセンスを加えながら、淡々と進めていこう。これで少し吹っ切れた。

19時、導師であるNさんが入場し、着席。開式のアナウンスを告げたあと、いよいよ読経がはじまった。タイミングはバッチリである。そして、不似合いな場所に響き渡る木魚と鐘の音。僕の隣には、神妙な面持ちをしたJさんがいる。何だかその不思議な光景に、思わずニヤついてしまう。

13886479_1071547392931709_9184782988612761409_n(導師様の奥に直立しているのが、本棚ならぬ棺桶!Jさんご本人の旅立ちの際に、使うつもりなのだとか。)

本日限りの仮戒名が読み上げられると、会場から笑いが起こる。うん、これぐらいの雰囲気がいい。厳かな儀式の中にも笑い。これでいいのだ。そして、お二方から「弔辞」が披露された。弔辞を読み上げる方も、神妙な面持ちながらどうすればいいのだろうかという戸惑いが感じられたが、Jさんへの愛と尊敬の念に溢れた弔辞の内容に、Jさんが思わず落涙するという光景を目の当たりにし、思わずこちらまでもらい泣きしそうになった。

13891994_1071547376265044_7574720114772358831_n(皆さんも神妙な面持ちで読経に耳を傾けています。)

来ないと思っていた「弔電」が一通届いていたのでこれを披露した後も、儀式は粛々淡々かつ滞りなく進められ、説教を終えた導師が退場することとなった。ここでアドリブを利かせ、会場の皆さんの拍手で見送ることとした。導師様、笑いながら退場。普通の葬祭ではありえないでしょう?これ。

そんな感じで、厳かな中にも笑いと涙が入り交じった生前葬が無事に終わり、「お斎」(おとき)の時間がスタート。

本来であれば故人の冥福を祈り、献杯を捧げるところだが、新しい第二の人生の門出を祝う、という意味も込めて、乾杯。

そして、葬儀委員長の特権発動ということで、例の動画を流した。僕は反応が怖くてその場にいるのも耐えられず、思わず後ろの方から様子を眺めていたのだが、早く飲食したいであろう皆さんが手を止めて真剣にスクリーンを見てくださっているのが、ちょっと嬉しかった。約6分間の動画が終わると、自然と拍手。いやあ、受け入れてもらえて本当に良かった。

「祭壇」の前には、棺桶が置かれている。参加して頂いた皆さんにも自由に納棺体験してもらおうという趣旨。こちらも最初は戸惑いが感じられたが、食事とアルコールが回るにつれ、続々と興味を示す人が増え、棺桶の中に横たわる人たちの撮影会が始まっていた。

Jさんは各テーブルを回り、御挨拶を続けていた。周囲を見回しても20代から60代までと参列者の顔ぶれはさまざまで、見ているこちらがワクワクしてしまうぐらい。

僕はひとまず大きな役目が一段落したので、呂律が回らなくなる手前ぐらいまでビールを飲み続けていた。

そして21時25分、主役であるJさんから挨拶。既にこの時点で2割程度の方が帰られていたが、残り8割の方はJさんのお話に真剣に耳を傾けていた。

ふと背後を見ると、お構いなしで納棺体験をしている人達もいたけれど、それもご愛敬ということで。

21時30分過ぎに、無事「おひらき」となり、この日の生前葬は幕を閉じた。何せ誰もやったことがない不慣れな司会ということで粗相もたくさんあったと思うけれど、点数をつけるとするならば、80点ぐらいはあげてもいいんじゃないだろうか。…あ、生前葬の司会、ご用命があれば承りますよ(笑)。

生前葬の内容はこんな感じだった、ということで最後、総括しよう。

葬儀委員長の役目を終え、参列した皆さんと挨拶を交わしながら、僕は生前葬の意義を考えていた。Jさんが仰っていたとおり、亡くなってからだと自分が会いたいと思った人にも会えない。だから生前葬を行って、前もって会いたい人に会って感謝の意を伝える、という考え方、もの凄く共感できる。

僕個人としては、Jさんが退職し、第二のスタートを切るに当たっての節目、言わば「退職祝=生前葬」という位置づけで捉えていたところもあった。だから動画の最後に感謝の意を込めたメッセージを添えたし、それは僕なりのささやかな贐のつもりだった。他意はないのかも知れないけれど、今回「葬儀委員長」の指名を受けたことの意味を噛みしめながら、Jさんの「遺志」を継承していかなければならないな、と、ほんのちょっとだけ考えた。

参列された方からは、「生前葬、私もやってみようかな。」という声が数多く聞かれたのも事実。「葬」という言葉に惑わされてネガティヴに捉えるのではなく、むしろポジティヴに生前葬という形を捉える人がたくさんいたように思える。生前葬には、これだという形式的なカタチはない。裏を返せば、送って頂く方(すなわち主役)が自由に段取りを決めることができるし、いくらでも口を挟むことができる。生きている以上は必ず訪れる「死」。それをどういう形で受け入れるかということにも繋がって行くのかも知れないが、「生前葬」は間もなく人生のゴールを迎えるに当たっての「終活」というよりも、自分自身の「節目」や「ケジメ」というタイミングで、ポジティヴかつ華やかに開催されるべきなのだと思った。

好きな音楽をBGMにしながら、参列して頂いた皆さんと大いに語りあう「生前奏」はどうだろうか、なーんてことをふと思った次第。あ、ちなみに「生前走」は現在進行形ですから!

※皆さんが投稿した画像を勝手に動画で使わせて頂きました。ごめんなさい。そしてSさん、当日の模様を撮影した画像の使用を快く承諾して頂き、本当にありがとうございました!

7月30日、あおつなトークショー in 青森

人口減が続く青森県にあって、県外から青森へのUターン(あるいはJターン、Iターンなど)を考えている人にとって重要となる一つが「仕事」のこと。
7月30日に、これまで東京でイベントを開催してきた「あおつな」による、青森での初イベントが開催されました。その名も、「あおつなトークショーin青森」。
テーマは「青森での仕事、あなたはどんな働き方を選びますか」。

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トークショーの前のイントロダクションでは、青森県内で人口減少が続いていることの他、青森で働くということについて、以下の4つの類型が示されました。
(1)就社(タイミングが合えばというメリット、収入の問題、真にやりたい仕事なのかというデメリット)
(2)家業継承(順応性が高いというメリット、将来への不安や真にやりたい仕事なのかというデメリット)
(3)起業(やりたい仕事、格好良いというメリット、ゼロからのスタートというデメリット)
(4)個人M&A(ベースがあり、自分の成長が企業の成長に繋がるというメリット、マッチングがうまくいくかというデメリット)

そして、これを踏まえて、青森で働くこと、心構えなどについて、4人の「よげしゃべリスト」、いわゆるパネリストの皆さんがそれぞれの持論を披露しました。

「よげしゃべリスト」は、青森市に本社を置く(株)ページワンCEOの木村譲さん、東津軽郡外ヶ浜町にあるホテル竜飛常務取締役の杣谷徹也さん、下北郡風間浦村にある(有)村口産業代表取締役社長の村口要太郎さん、そして東津軽郡今別町にある(有)袰月海宝代表の小倉龍毅さん。
進行は、あおつな実行委員会代表の神直文さん。

話を聞きながらバーッとメモを書いていたのですが、途中から話を聞くことに夢中になってしまい、メモがおざなりになってしまいました。すいません。以下、殴り書きメモ。

・辺境であろうとも魅力があれば、若い人でも住み着く。(うるさい人がいなければ、という条件付きで。)
・神奈川県横須賀市の例。人口減少が激しく、限界集落もできはじめている。(横須賀でも、という驚き。)
・普通にコミュニケーションが取れれば、そんなに失敗はしないはず。失敗するのは目線が下がり、エスケープゾーンを作る時。(自信がないことの現れ?)
・最近は、「知識」が「情報」とすり替わっている。(「知識」は自ら学び得るもの、「情報」は学ばずとも外から得られるものという意。知識を身に付ける意識が低下している?)
・他人から指図を受けて動くのではなく、自ら考え、動くこと。楽しいのは明らかに後者。
・首都圏をはじめとする都市部と青森との決定的な違いは、時間軸、サイクルの違い。(首都圏は早く、青森は遅い。青森の人は最初、サイクルの速さについて行けない。)
・時間の有効活用。(仕事のオン・オフの切り替えで家族も幸せになる。)
・地元に戻った時に何でも相談できる友人、知人が絶対に必要。
・地元に戻って自分がどうしたいのか、何をしたいのか(しなければならないのか)という立ち位置を考える。
・地元を守るという意識を持っているか。(地元というよりも、田舎に行けば行くほど、「墓」に対する意識が強く、「墓を守る」ことが求められる、という意)
・地縁や血縁、知人からの紹介で中途採用する人は、大体結果を残せない。(結局ドロップアウトする人も多いらしい)
・親離れした子どもをなびかせたければ、夫婦仲良くすること。
※この他、ハローワークに求人案内を出すかどうかは意見が割れた。

僕はこれまでの45年間をずーっと青森県内(しかも40年以上を弘前市)で過ごしているので、一度「外」に出てから「地元」に戻るという感覚がわからないのが実情。しかし、そこに居続けたからこそ知っている「地元」で日々刻々と起きていることを、時々帰郷するみんなに教えてあげられればいいのかな、と思っています。

外から見た青森がどんな感じなのかは、正直言って僕には良くわかりません。「井の中の蛙大海を知らず」といいますが、そういう点では僕は「帰る感覚を知らない蛙」です。ただ、例えそれが「井の中」であろうとも、僕にとっては「ホームグラウンド」であり「都」だと思っています。

トークショーの後の質疑応答で「数年前に久しぶりに地元に戻って、こんなにいいところだったんだ、ということを改めて発信したいけど、どうすればいいでしょうか。」みたいなことを話していた人がいたんだけど、ちょっと違和感を覚えたのです。

外から地元に戻ってきた時に、具体的に何がいいと思ったのか、ということを聞きたかったですね。反論するわけではないですが、人によって価値観が違うので、誰かが「いい」と感じたことが我々にとっては「当たり前」のことなのかも知れないし、逆にこちらが「当たり前」と思っていることがむしろ良くない、足かせになるようなことなのであれば、それはそれで正確に発信しないと、これから本気でUターン、Iターンを考えている人達に対して何か「いいところばかり見せようとして、やましいことを隠している」と捉えられる可能性がありますからね。そういう点では、「いい」ということだけを発信するって、凄く難しい。

「じゃあ青森(地元)の何がいいのよ?」といきなり聞かれても、多分僕、答えがパッと出てこないと思うし。

45歳を超えた我々同世代の中でも、帰郷を考え始めている人達がちらほら出ていることを知っています。地元に残した親御さんのことだったり、いわゆる家業後継のことだったり、それこそ「墓」のことだったり。

都会の良さがある一方で、田舎の良さもあるはず。
でも、その中での一番のネックは、まさに冒頭で出ていた青森で「働く」ということだと思うのです。今の立場をキープしたまま地元に戻れるならば本望ですが、実際はそれを捨てて戻ってくるケースの方が多いのかな。

これまで僕の周りでは、実際にUターンして来て、例えば家業を継いだり、自分の力で起業したり、あるいは資格を取って就社した人がいますし、その中で自分のスケールや影響力をどんどん大きくしていっている人もいます。
今でも帰郷を考えている人から「青森で何か仕事ある?」と聞かれることがたまにありますが、有効求人倍率が1倍をずっと超えた状態が続いていますから、仕事はあるのです。むしろ問題は、仕事の有無ではなく、その仕事に対するご自身の適性や、帰郷することによって失うかも知れない、例えば今の生活環境や社会的立場・水準など、そういった色んな犠牲を受け入れる覚悟なのでしょうかねぇ。
だから、よげしゃべリストの皆さんのお話を聞きながら、青森に帰っても仕事がない、ということではなく、どういう仕事をしたいのか、あるいはどういう仕事であれば自分はやれるのか、それは待遇や労働条件もあるでしょうし、最後は自分自身にどういう折り合いをつけて、どこまで腹をくくって(覚悟を決めて)仕事を見つけるのか、ということに尽きるのかなあ、と思いました。きっと僕らが気づいていないだけで、ビジネスチャンスも実はたくさん転がっているんだろうな。

もっとも、当事者にしてみれば口でああだこうだと論ずるほど簡単なものではなく、もっと深い事情があるのでしょうから、小さい井の中でチャポチャポ泳いでいて、帰る感覚を知らない蛙の僕なんかが気安く言えるような立場じゃないんですけどね…。

ねえGarmin、こっち向いて

2011年からかれこれ5年間にわたりお世話になってきた Nike+ SportsWatch GPS。発売当初、そのクールなデザインに一目惚れし、3万円の大金を叩いて購入。このアイテムを身につけて走ることの爽快感というか優越感というか、何ともいえぬ心地よさに心酔しまくっていたのですが、1台目、2台目と相次いで雨にやられ、敢えなく不燃ゴミへと消えました。
中でも一番酷かったのが1台目で、明日大会があるんだよ、という前日に成仏するというとんでもない事態が発生し、翌日の大会を時計なしで走り、結果散々な目に遭った、ということがありました。(ちなみにその時の大会は平川市の「たけのこマラソン(ハーフ)」でした。)
1台目が故障したその日のうちにすぐ2台目を注文(2万5千円を切るところまで値段が下がっていましたが、評価もどんどん下がっていました…)したのですが、その理由は二つ。一つは、使い慣れているから。そしてもう一つは、Nike+でログを取り続けたいから。

しかし、ランニングの女神はまたしても試練を与えます。
懲りずに購入した2台目も、梅雨時期に行った30kmLSDの際に、湿った空気と雨にやられ、あっという間に文字盤の内側が曇りはじめ、ドライヤーで乾かすなどの必死の抵抗をしましたが、程なく成仏。ふざけんじゃねーよ。

こう言えば販売元に怒られるかも知れませんが、時計の裏側を見ると、恐ろしいほど造りが粗雑で、防水機能なんてほとんどなし。レビューにもあるように雨だけじゃなくちょっとの汗であっという間にやられるな、ということを確信したのもこの時でした。

しかし何を思ったのか、よせばいいのにうっかり3台目を購入し、現在に至るわけですが、この3台目については購入から1年以上が経過しても全然大丈夫…。
水や汗に注意しながら、しっかりケアすればいいだけの話なんだよねー…と高笑いしていたのですが、ここ最近、肝心の距離が不正確に計測されるという事態が生じ始めています。
水や汗じゃなくても、冷や汗が出ますって、これ。
距離が不正確なので、1キロ毎のラップも適当。「ええっ!そんなはずないのに!」といった表示をする頻度もどんどん増えてきました。

これまでの間、他社では次から次へと性能の向上したGPS搭載の時計を発表しているのに、Nike+のこの時計だけはまるでモデルチェンジすることもなく、ここ最近では何だか「化石」を身に付けて走っているような気分に苛まれ始めていました。
…嗚呼、初めてこの時計を身に付けた時のあの高揚感は、どこに行ってしまったのでしょう。

大体にして、腕につけると重い、データの取り込みはUSB必須、水に弱い…。よって、2年持った例がない…って、いいところが一つもないみたいじゃないですか!

正直こうなると、何がいいのかよくわからないし、走っていてもテンションが上がらないわけですよ。だって、正しい距離は示されないわラップは適当でウソつくわで、全然練習にならないんですから。

いや、この際だからハッキリ言わせて頂きましょう。
Nike+ SportsWatch GPSは、もはや時代遅れの代物です。…というか、このアイテムにはTomTomが絡んでいるんですが、NikeにはもはやGPS時計に本腰を入れるつもりなんてないんでしょうね、きっと。

それを裏付けるというわけではありませんが、ここ最近は、Nike+Runningじゃなくともランニングのログを記録できる色んなポータルサイトが出現しています。それでもNike+にこだわるとすれば、これまで走り続けた結果、6,126.12キロまで達したブラックレベルの証だけでしょうか…といってもこれ、意図せず反映されなかったデータ、意図して反映させなかったデータがあるため、ホントはもう少し走っているんですけどね。

ただ、このNike+のWebサイトも更新される度に使い勝手がどんどん悪くなっているような気がするのは僕だけでしょうか。というか、スマートフォンのアプリだけ力入れてればいいって感じですかね?その割には、ちゃんと走行データが反映されないしさあ、何なのホントに?

数年前までは何人か見受けられたNike+ SportsWatch GPSユーザーも、僕の周りで所持している方はほとんど見かけなくなり、逆にすこぶる評判の高いGarminユーザーがどんどん増えていきました。まあ、Garminの悪い点を挙げるとするならば、モデルチェンジの頻度が早いことですかねえ。

1年以上前からNike+とGarminとの連携ができるようになり、皆さんそちらからNike+にデータを移行しているのだそうで。いや、それだって僕、知っていたんですよ。
知っていたんですけどね、まだちゃんと動くNike+ SportsWatch GPSがあったから、ほら…。
しかし、さすがにGPSの機能がアホになってしまうと、Nike+ SportsWatch GPSにこだわるのがアホらしくなり、やっと決別する腹を決めました。だって、GPS機能を搭載した時計なのにGPSが機能しないなんて、寿司にシャリがないようなもんじゃないですか。そして。

まかなえ は あたらしいぶきをてにいれた。

昨日やって来た新しい相棒は、「Garmin ForeAthlete 230J」。

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ちょうど1か月後に迫った北海道マラソンを皮切りに、レースでデビューする予定です。あ、その前に練習で使いますけどね。
しかし装着してみると軽いですなあ…。スマートフォンのバッテリーはそれなりに食うことにはなりますが、Bluetoothで連携することができるし、ライフログも取れるし、メールや電話、更にはメッセージの着信まで教えてくれるし、色んな機能があるのですね。

Nike+ SportsWatch GPSも、普段使いできるといえばできますけれど、汎用性の高さではGarminの圧勝ですね。

しかし、Garminの時計の設定の時点で躓いているぐらいなので(夜に外に出て、時計を夜空にかざすとは思わなかったっす)、これから先うまく使いこなすことができるのかが思いやられますが、早く使いこなせるように、使う場面をたくさん作りたいと思いまーす。