Category Archives: 地元の話

「We Love Hirosaki 同窓会~弘前に仲間を作ろう~」に参加して

8月14日に、弘前市の「津軽弘前屋台村かだれ横丁」にて、「We Love Hirosaki 同窓会~弘前に仲間を作ろう~」というイベントが行われました。私も参加してきましたので、1週間空きましたが、遅ればせながら簡単にレポートしたいと思います。

まずは地元紙の掲載記事から。

東奥日報

陸奥新報

当初は、高校の同期の連中に「帰省する人がいるなら、ちょっと飲もうかな?」と声かけしたところ、8名の面々(ただし、県外からの帰省者は1名のみ)から賛同の意思がありました。
当初は15日に開催する予定だったのですが、諸般の事情で14日開催としたところ、これまた同期の関係者から連絡が入り、前述の企画に参加してくれないか、と言われたのがきっかけでした。

正直、こういう小さな飲み会を企画すると参加してくれるいつもの同じ顔ぶれが多数を占めていましたので、ちょっと志向や空気を変えるという意味ではいいかも、と思い気軽にOK。ところが、開催主旨などを確認しているうちに、これはちょっと早まったかな…と思ってしまった、というのが実のところでした。

とはいえ「やっぱりやめます」と後に引くわけにも行かず、結局そのまま当日を迎え、午後6時前に会場に足を運んだところ、既に何名かの同期の面々が顔を揃えていました。
この日はこの企画に、県外在住者が3名、弘前市在住者と勤務者(他県から転勤してきた方を含む)が15名の計18名が参加しましたが、このうち我々同期の面々が10名いたことを今だから明かしましょう。

DSC_2239
(一人足りませんが、10人集まったのはホントです。)

ちなみにこの企画は、7月に東京の四谷三丁目にある「りんごの花」というところで、首都圏在住で20代から30代を中心とした弘前市出身者が多数集まり、地元の話や思い出話に花を咲かせ、非常に盛り上がったという伏線があり、今度は弘前で「同窓会」をやろう!というものでした。

今回集まったのは20代から40代と年齢層が若干幅広くなりました。…というか、我々が平均年齢を高くしていたことは否めないわけでして、ハイ…。
確か「ワゲモノ」の集まりだったハズなのに、オッサンオバサンが占拠して申し訳ありません…。
いや、何せ当初は同期の面々で飲む、という話だったのが、趣旨が変わったことを当日になって知った、というメンバーが大半だったため、どこかよそよそしくもあり、ぎこちなくもありました。でも、弘前に対する大なり小なりの思いを抱くメンバーが集まるべくして集まった、といってもよかったのではないでしょうか。

進行を務めるNさんからのご指名で急遽ワタクシが乾杯の音頭を取らなければならなくなりましたが、まあ、これもこの会のためと思い、一応それなりに丁寧な挨拶をした、つもり。

参加者全員の自己紹介の後で、談笑が始まり、たまたま隣の席に居合わせた中学時代の同期生と会話を交わすのですが、どこかぎこちない。そりゃそうだ、約30年ぶりに会ってみると、当時の面影も感じられないし、「知らないヨソの兄ちゃん」ぐらいにしか見えなかったんだから…(今思えばちょっと申し訳ないことをしたな、と)。

宴が進むと、どうしたら弘前の移住定住が進むか、ということで、「弘前の良いところについて語ろう」という座談会がスタート。

僕は挨拶や自己紹介をしましたので何か意見を述べるといったお鉢が回ることもなく、皆さんの意見をジョッキ片手に色々聞いていたのですが、聞いているうちに、何か「違和感」というか「奥歯に物の挟まったような感じ」を覚えてしまいました。

その感覚が何だったのかを、これから明らかにしようと思います。

まず、主催者側が思うところと我々同期生の思うところのミスマッチがあったとともに、我々の開催主旨に対するミスリードがあったかも知れません。主旨を伝えぬまま、同期のみんなに「会場変更」だけを伝えて参加してしまったことについて、関係各位に対し、この場を借りてお詫びします。

そして今回のイベント、初対面の人も多かった一方で、我々同期の面々が半数以上を占めていました。特にそのオッサン連中に「この場で腹を割って本心を語る」という空気が流れていなかったのは事実でしょう。(まあ、いきなりということもあってこれは致し方ないのかも知れませんが。)
他方、他の参加者の方々(特に県外から弘前にやって来た方)も、居合わせた参加者の心証を悪くしたくないという思いがあったのか、当たり障りのないこと、つまり本音とまでは行かない話に終始したように思えました。これが、一番の違和感というか居心地の悪さでした。
県外から仕事でやってきた人が、弘前の良さを聞かれて「ねぷたがあったり、さくらが綺麗だったり…。」
…うん、それって誰でも知ってると思うんだ。でも、それを聞いて弘前に「行ってみようかな」とは思っても、「住んでみようかな」とは多分思いが及ばないワケで。

「じゃあ弘前に来るに当たって逆に不安だったことは?」という問いには「店が夜まで空いているのか、遊ぶところがあるのか…。」
そう、まさにこれですよね。若い人ならなおさら、こういう部分がクリアにならないと、移住定住しようなんて考えないんじゃないでしょうか。

例えば一度も青森にやって来たことがない人が、「青森勤務を命ずる」と辞令が下ったときに、どう感じるか。

…多分「嗚呼、俺って左遷されたのかな。」と思ってしまうのではないでしょうか。

もっともワタクシ、その「左遷の地」で44年間生活していますので、全然そんなことはないと思っているんですけどね。

で、話が進む間に疑問点をポンポンとFacebookにぶつけてみたわけです。

まずは1発目、同期会のFacebookページに投下した疑問。
「一平会(同期会の名称)に顔を出すって、敷居が高いんですかね?地元民だけで楽しんでいるつもりはないんですが…。」
これ、参加者が少なかったことを嘆いているのではなく、半ば自嘲的な投稿。
その中にあった返信のコメントが的を射ていました。

「(敷居は)高くないが、久々に出るのは緊張感あるんでないの?」
なるほど確かに卒業して四半世紀過ぎて、いきなり「やあ久しぶり!」と顔を出すことにはちょっと抵抗があるのかも。もっとも、25歳の頃から始まったこの会、かれこれ20年が経つわけで、卒業してからだと四半世紀以上顔を合わせていない面々も多数いるからなあ…。

そして、この伏線にあるのが何だろうかと飲みながらずっと考えていて、その約1時間30分後に、対象者限定で投下した二つ目の疑問と感想。

「今日飲みながら思ったこと。
地元に帰りたいと思う人も躊躇するぐらい、弘前そのものの敷居が高い。
自尊心、アシフパリ、モツケの精神がその敷居を下げない。
多分、地元愛を強調すればするほど、地元を離れた人たちは近づくのが辛いんじゃないかな。

酔っ払いの戯言でした。」

どうやら相当危うい投稿に見えたようでして、数名の方からコメントではなくメッセージまで頂く始末。
まあ、あのイベントに参加している間は、あくまで「一般ピープル」としてその場にいたつもりなので、本音をぶつけた方がいいかなとか思った次第。何せほら、所詮は酔っ払いの戯言ですから。
そしてこれが多分、僕が感じた居心地の悪さ、違和感だったんだろうと。

この日、主催者の方々は本当に一生懸命でした。Mさん然り、市役所の関係者然り。だからこそ、集客に悩んだりどう盛り上げようかといろいろ苦心されている、その顔には出さない痛みが、何か見ていて辛くなってきまして…。参加者がなかなか集まらなかったのも事実だったようですが、それは「敷居が高い」とかそういうことじゃなくて、「その場に行くことが緊張する。」というか「見ず知らずの人達と飲みながらちょっと真面目な話をする」ことに、少なからぬ抵抗を覚えたからなのではないか、と。

そして、実は地元の方たちが「弘前愛」を強調すればするほど、地元以外の方々、特に弘前を一度離れた人にしてみれば、「自分だってこんなに弘前が好きなのに…。」という自尊心を傷付けられているんじゃないかって、ふと思ったわけです。
地元を盛り上げるために現在も、色んな取組や活動がされています。(まあ、私もその活動に参画している一人なのかも知れません。)
他方、地元の外にいる出身者からすると、そのことが地元に貢献できていないという罪悪感、というかそこに参画できないことへの疎外感、そんなものを生み出している、ということはないでしょうか。そして、そのことが逆に地元への足を遠くさせている、なんてことに…。

同期会の話にちょっと振り子を戻すと、ほとんど地元開催の同期会を、2度ほど東京で開催したことがあるのですが、曜日に関わらず在京のメンバーが時間を割いて集まってくれて、とても盛り上がりました。この時ばかりは皆さん「津軽弁」で会話。3年間一度も同じクラスになったことのない面々ですら、旧知の友のように普通に会話が弾み、まるでそこだけが高校時代に戻ったような不思議な空間でした。
でも恐らく、彼らの中で今後弘前市はもとより青森県にUターン、移住する人は相当少ないんだと思います。(その後、一人だけ青森県内に戻ってきましたが。)
我々の年代になると「年老いた親を地元に残している」という現実問題がのしかかってきます。
もちろんそういったことも一つの契機となるのかも知れませんが、改めて望郷の念を抱き始めている同期の輩が増え始めていることも感じています。

しかし、そのハードルとして重くのしかかるのが、
(1)今の生活水準を落としてまで弘前市や青森県に住むメリットはあるか。
(2)そもそも生活基盤を構築するため、働くところがあるのか。
(3)生活していく上で、「リアルな人との繋がり」はあるか。
という点ではなかろうか、と。

人口減少社会の到来は、少なくとも青森県においては既に始まっているのが現状です。間もなく、青森県の人口が130万人を切る日がやってくることでしょう。
青森県内の人口減少をどのようにして食い止めるかは、切実な問題となりつつあります。県内への移住や定住促進も、その問題を少しでも長引かせる(解決することは、日本全体の人口減少が始まっている中、海外からの移住を推進しない限りは無理でしょう)ためのツールの一つ。青森県での「田舎(地方)暮らし」を推進するためにも、他にはない「優位性」をアピールする必要がありますが、その「優位性」は、「青森県」というだけで抱かれてしまうネガティヴな印象、強いて言うならば「劣位性」を遥かに越えるものでなければなりません。しかしながら、その他にはない「優位性」が何なのかを、まだ見いだせていないのが現状なんだと思います。(実際その「優位性」が何なのかは、ワタクシにもわかりません。)

もっとも、移住定住UターンIターンJターンは、あくまで個人の問題。たまに見かけますが、その場しのぎではないにせよ、一時金やら何やら(例えば移住奨励金とか住居の無償貸与)を誘い水にすることだけは、本気でそういうことを考えている方々の新しい門出に当たり、麻薬をぶち込むようなものなので、これは絶対に止めた方がいいと思った次第です。

話があちこち飛んですいませんが、最後に。
今回の企画では、参加者からアンケートを募っていました。東京でも同じアンケートを募っていたのかな?にしても、そこから何かを分析するには多分母体数が少な過ぎると思います。例えば、各校が地元や県外で開催する同窓会で、全く同じアンケートを集めてみるとか…それだけでも世代別の傾向はある程度得られるわけですし、何か今後のヒントが得られるのではないかと、個人的には思ったところです。

あ、そうそう。久しぶりにこの会で「いもくじ」やりました。出たのは「子」でしたが、メクテアッタヨ!

「法界折」のこと

DSC_2214

日本全国いろんな世俗風習がありますが、「法界折」って青森県の津軽地方だけの風習なんだそうでして、この間もFacebookで紹介したところ結構反応があったため、改めてご紹介したいと思います。
私は弘前市に生まれ育った人間で、亡父は弘前市の隣にある中津軽郡西目屋村の出身。
幼い頃から、お盆の時に墓参りに向かうときには、この「法界折」を持参するのが当たり前のことで、それは全国どこでも同じことをしているのだろうと、大人になるまで信じて疑いませんでした。
母親の実家(北秋田市)に行く時もこちらから持参していましたが、確かにあちらの墓でこの折を見た記憶がなく、やがてこれが津軽地方でしか行われていないということを知ることとなりました。

そして今から5~6年前でしょうか、各都道府県での独特な食や世俗風習文化を誇張的に紹介する某テレビ番組でこの「法界折」が紹介され、改めて青森県、それも津軽地方独特の風習なんだな、ということを思い知った次第です。

最近はちょこちょこいろんなところで紹介されていて、そこではこの「法界折」をお墓参りの時に供える「お弁当」という言い回しをよく目にするのですが、「お弁当」というよりはズバリ、一人分の「折詰」といったほうがしっくりきます。

正月やクリスマスなど、もともと皿盛料理の登場する頻度が多いこの地方、その流れかどうか知りませんが、この「法界折」についても当たり前にお盆の時期になると登場する代物です。
実際、お盆の時期になると、スーパーの広告にも普通に登場します。

DSC_2245 DSC_2246

自宅で作る場合も多く、折詰の内容物は、煮しめ、果物、赤飯(これもこちら独特の甘い赤飯が入っていることが圧倒的に多い)、煮豆やお菓子など、その家庭によって異なります。

で、お墓や自宅の仏前にこれを供え、その後にパクパク…ということもあります(私はあまり口にしませんが。)

ちなみに今年の法界折は、ニンジン、糸こんにゃく、シメジや麩などの煮しめ、カボチャの煮物、キュウリの酢の物、岩木山で収穫された茹できみ(「嶽きみ」と呼ばれるとうもろこし)、そうめん、果物、ゼリーにお菓子。

DSC_2216 DSC_2211 DSC_2212 DSC_2213

肉や魚類は一切入っていません。いわば精進料理みたいな感じです。これを5個作りました。

まあでも、故人が好きだったものなら何が入ってもいいんじゃないかな、とか思ったり。

しかしながら最近は、これをお墓に置いたままにするとすぐにカラスに荒らされてしまうため、お参りが終わると持ち帰らなければならないということで、ご先祖様がゆっくり食事する暇がなくなってしまいました。

「第10回 古都ひろさき花火の集い」で、初めての花火撮影

妹が結婚することになったのを機に、少しでも結婚式でいい写真を撮ってやろうじゃないかという兄としての配慮から(ホントかよ)、初めて一眼レフカメラを購入したのが3年前。

カメラに関する知識は何もなく、絞りとかシャッター速度とか聞いたことはあるけれど興味なし。要するに写真なんて自分の感性とタイミングで映し出されるものなのだ、と割り切っていたし、使いこなせるかどうかもわからないのに、高いカメラを購入してもね…という考えもあって、初心者は初心者らしくハイスペックなものは求めず、とにかく安価なカメラを探した。

結果として手中に収めることとなったのは、キヤノンのeos Kiss X50という廉価版のモデルで、しかもアウトレット品を購入したこともあって、実はレンズ込みの本体価格で3万円ぐらいしかしないカメラだったということを、今だから明かそう。

ただ、全自動で撮影するのも芸がないということで、フラッシュの自動発光をさせないように設定してみたり、「クリエイティブ全自動」という機能を駆使してみたり、人物や風景をたくさん撮影してきた。
とりわけ、僕が所属する「弘前公園ランニングクラブ」の場で活躍することとなり、いろんな大会はもちろん、宴席でも相当シャッターを切った。
結果、ランニングクラブの中にはカメラ好きが集まってカメラ部が密かに結成された。しかし、僕は初心者に縮れ毛が1本生えた程度のレベルなので、もうちょっといろんなものを撮影する機会を得なければならないかも知れない。
実は未だに不得手にしているのが、仲間達が走る姿を撮影することなのだけど、これも経験を積んで慣れていくことに尽きるのだろう。

さて、そんな初心者に縮れ毛が1本生えた程度のレベルなのに、揃える機器だけはイッチョ前。
三脚はもちろんのこと、同梱されていたレンズを下取りに出して単焦点レンズを購入してみたり、Amazonで見つけたタムロンの18-200ミリレンズを購入してみたり(だって、安かったんだもん)、挙げ句の果てにはリモートスイッチを購入してみたり。

さて、ここまで揃えても撮影するのはうちの愛犬か愛すべき酔っぱらいどもといった感じだったのだけれど、リモートスイッチを購入したのにはワケがあった。
沖縄の星空を撮影してみたいと思ったからだ。
しかしながら、その後2度訪れた沖縄では曇天(台風接近のときもあった)だったり、強風だったり、逆に月明かりが強すぎて星が全く見えなかったりと、結果的に星空撮影に至ったことは現時点で一度もなし。裏を返せば、リモートスイッチの出番は一度もなかったというわけだ。

ところが、ひょんなことからその機会は突然訪れた。

弘前市で行われる「第10回 古都ひろさき花火の集い」の桟敷席の券を頂いたのだ。実はこれまでの9回、この花火大会には一度も足を運んだことがなく、家の向こうに広がる雑木林の奥から聞こえる打ち上げの音と、時々辛うじて見える花火の形を見た程度だった。ちなみにこの花火大会、東北の夏の先陣を切って行われる大会なのだとか。

せっかく券を頂いた以上は、行くしかないでしょう!ということで、妹家族と母とともに、初めて花火の打上げ会場を訪れた。

低めに三脚を設置し、カメラをセット。シャッターを切るリモートスイッチをセットし、シャッタースピードは当然BULBに設定。これでスイッチを押し続けている間、シャッターは開放される。
レンズのフォーカスモードをAFからMFに切り替え、無限大(∞)に上げた。カメラ側の設定としては、ISOを100、絞り値をF10、ホワイトバランスは白熱電球に設定。
そして、レンズを覗き込みながらではなく、画面を見ながら撮影に臨むということで、ライブビュー表示に切り替え。ちなみにここまでは、完全にインターネットで得た情報の受け売り。
あとは、実際に上がる花火を見ながら微調整していけばいいだろう。

そして、まだ明るい中で小さな花火の打ち上げがスタート。
打ち上げのタイミングや、花火の位置を目視しながら、シャッターの開放時間やレンズの方向を色々試してみる。
まあ、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるということで、手当たり次第に撮影してみるか…。
片手にビール、片手にリモートスイッチを握りながら、次から次へと打ち上げられる花火に感嘆の声を上げる。どれぐらいの高さなのか、どういった拡がりを見せるのかわからないまま(この時点で、というかプログラムは最初に目を通した程度で、あとは全然見ていませんでした)、ひたすら勘に頼ってリモートスイッチを押し続ける。最初の頃は露出しすぎて白くならないかとシャッターの開放時間を短めにしていたけど、だんだん慣れてくると、長めに開放できるようになったし、三脚の微調整をする余裕すら生まれてきた。
いやあ、これ面白いわ~!
ということで、この日撮影した80枚以上の画像から、比較的良く写っていると思われる5枚だけをチョイス。

花火2 花火1 花火3 花嵐桜組 タヒチアンダンス
で、こうやって見ると真っ暗になる前に撮影した花火の方が、個人的にはいい感じかな、と。暗くなってからは、絞り値をもう少し上げるか、露出を調整すればよかったかな。

しかし、最初は「寒くなったら途中で帰る。」とか言っていたのに、結局最後の演目が終わるまでいましたよ、ええ。
初めて花火を撮影してみましたが、どうでしょう?
ということで来年は是非、ランニングクラブの写真部で撮影に行きましょう!もちろんビール持参でね。

世の中には、繰り返さなくてもよい歴史がたくさんある。

僕の中では今年一番の衝撃だった、平川市の選挙違反事件。この事件は青森県に暗い影を落とすこととなったし、「津軽選挙」という悪しき風土が未だに根強く残っていたことを裏付けるとともに、平川市はもちろんその周辺地域に対する心証を地の底まで叩き落とすこととなった。

<平川市長選違反>倫理観欠如に裁判官あきれ(河北新報 12月26日(金))

芋づる式に次々と議員が逮捕されていく様を見て呆れ、未だにこういう人たちがいたということにも呆れ…。対岸の火事と思って見てはいたものの、正直ここまで来ると被告たちに対して、怒りを通り越した情けなさや憐れみを覚えるようになった。恥の上塗り、とはこの人たちのことを言うのだろう。


今から十数年前、社会人の身分ながら、僕が弘前大学大学院に籍を置いていた頃の話。

主に行政法の教授の下でいろいろ学びながら、一方で、社会学のフィードワークの一環として某自治体に聞き取り調査に入ったことがあった。その内容はのちに、「リーダー生成過程としての選挙と地域づくりの展開」というタイトルで弘前大学の人文社会論叢(社会科学篇)に掲載され、更に再構成されたものが「津軽、近代化のダイナミズム―社会学・社会心理学・人類学からの接近」という書籍に掲載された。

この時実は、「津軽選挙」の風土がとことん根付いていた(と考えられていた)N村への潜入調査を試みようとしたのだが、共同作業を行った准教授が既にこの地で先行調査を行っており、村内ではちょっと知られた存在であること、そして何よりも僕の父の出身地ということで僕や父の身に危険が生じても困るということから、この村への潜入調査を諦めた、という経緯がある。

この村では、選挙(特に村長選挙)が始まると、村を二分するような騒ぎとなり、お互い違う候補を応援しなければならないという事情から、家の中ですら険悪な空気に包まれることや、ウソかホントか知らないが、飲ませる食わせるはもちろん、お帰りの際の「お土産」は当たり前、選挙直前になると、双方の陣営がスパイのように暗躍するといった話を聞いたことがある。特に、津軽の水瓶とも言われる大規模な工事を抱え、それもこれも全てはその工事を巡る利権争い、勝てば官軍負ければ賊軍といった有様で、負けた候補者を応援した者には、次の選挙までの4年間、村からの仕事が一切来なくなるといったこともあったようだ。そんな村役場の職員だった伯父も、その渦中で振り回され続けたということを、今だから明かそう。

結局、やむなく他の自治体での潜入調査を行い、その過程において、行政のトップがどういった経緯で選出されていったかを探っていったのだが、これがまた「津軽選挙」の片鱗に触れる実に興味深い内容だった。
例えば、「ちくわやおにぎりの中にお札が入っていた」ことや、「A陣営が5,000円を配ると、直後にB陣営は10,000円を配り、その際、A陣営の5,000円と交換する(つまりA陣営の賄賂を同額でB陣営にすり替える)」ことなどが頻繁にあったらしい。

一番興味深かったのは、高い投票率だった。選挙ともなると、「出稼ぎのため県外にいた連中がみんな戻ってくる」ぐらいの騒ぎ。いわば一種の「お祭り」か「娯楽」の一つと捉えられていたのだろうか。小さな自治体とはいえ毎回95%を超える高い投票率は、「普通ではない何か」がそこで起こっていたことを感ぜずにはいられなかった。


あの調査から十数年が経った。僕が調査した自治体は、市町村合併によってなくなった。
一方、選挙にエネルギーを注いでいた人たち(つまり、何らかの利権を求めていた人たち)の高齢化が進んだこともあってだろうか、N村では無風選挙が続くようになった。
そしてこの間に、市議を務めていた父が亡くなり、共同執筆した教官の方々も青森県を離れた。

この状況を見て、父は一体どんな思いを馳せていることだろう。一緒に研究に携わった院生の皆さん、そして教官の方々は、この状況をどんな目で見つめていたことだろう。

来年4月には統一地方選挙が待ち構える。
僕は今のところ選挙に出馬する予定はないが、将来のためにも、今回のことを他山の石と捉えたいと思う(爆)。

投票箱

最後に、よほど神奈川県というところが都会過ぎるのか、青森県をとことんコケにしたブログ記事を紹介。
ま、僕みたいに青森県以外のところで生活したことのない人には、何を言っているのかよくわかりませんが。
もっとも、批判するのは勝手だけど、卑下する相手マヂガッチュンデネガ。

http://gudachan.hatenablog.com/entry/2014/07/21/114806

弘前のことを、ねぷたのことを嫌いにならないで。

8月5日。青森駅を出発し、弘前駅に19時10分過ぎに到着した電車から降りると、ちょうど駅前での弘前ねぷたの運行が始まっていた。小雨が混じる中、観客の数は思ったほどではなく、これは6日に観客が殺到するな…と思いながら、ねぷたを横目に家路を急いだ。

この日のねぷたの運行台数は60台を超えていたという。恐らく最後のねぷたが出発するのは、21時を軽く過ぎてしまうのではないだろうか。

ところが家に戻った直後の20時過ぎから、雨脚が強くなってきた。
いやいや、これは運行するのが大変だな、と。

そんな中、20時30分頃、透明シートを被せた近隣町内会の運行と思しきねぷたが、戻りの囃子を奏でながらゆっくりと家の前を通り過ぎた。

その後、いつもあちらこちらから聞こえて来るはずのねぷたの囃子の音が全く聞こえていないことに気づくまで、それほど時間はかからなかった。
雨のせいで中断したのだろうか。それとも、また何かトラブルでも発生したのだろうか…あるいは、途中で中止?まさかな…。

ところがその「まさか」が起きていたとは。
「何か」のトラブルが、まつりの根幹を揺るがすぐらい大変な事態だということを知ったのは、0時近くになってからだった。誰かがFacebookに投稿していたニュースソースを目の当たりにして、僕は独りで動揺を隠すことができなかった。
…ねぷたが倒れた?ねぷたの下敷きになって、人が亡くなった?

弘前市民のひとりとして、かなり動揺していることが自分でもわかった。結局僕はその後、眠りにつくことができなくなった。
(以下の記事は第二報)

ねぷた内で頭挟まれ男性死亡

弘前署や弘前消防本部などによると、5日午後8時半ごろ、弘前ねぷたまつりの出発地点の手前にあたる、弘前市北瓦ケ町付近の弘前郵便局前交差点で、運行準備中のねぷた本体の内部で、40代男性がねぷたの昇降装置に挟まれ、頭部外傷で死亡しているのが見つかった。大型扇ねぷたの昇降時に頭部を挟まれたとみられる。同署は男性の身元を確認するとともに、昇降中の事故とみられることから、業務上過失致死の疑いでも捜査を進める。まつり本部は午後9時1分、同日のまつりを打ち切った。(2014年08月06日01時04分 Web東奥)

僕が記憶している限りでは、弘前ねぷたまつりの運行中に亡くなる人が出たというのは聞いたことがない。どちらかといえば、弘前ねぷたは「静」のイメージがあり、むしろ事故など起こるはずがない、という印象を持っていたのだが…。
一方、この事故を踏まえ、残り2日間のまつりを中止することが決まった。もちろんこれも、雨天中止以外を除いては、今まで記憶がなく、実際初めてのことだそうだ。

関係者にしてみれば、苦渋の決断なのだろうが、致し方ないことと思う。まずは責任を押しつけ合うことなく、今後の安全確保に向けてしっかりと対策を検討する必要があるだろう。

弘前ねぷた6、7日中止

弘前ねぷたまつりで5日夜に死亡事故が起きたことを受け、弘前市など主催4団体は6日午前、同日と7日(最終日)のまつりを中止することを決めた。(2014年08月06日09時33分 Web東奥)

僕が最後にねぷたに参加したのは高校3年の時。つまり、相当期間ねぷたまつりに参加していないが、今回の事故は、これまで何となく避けてきた弘前ねぷたそのものに対する喫緊の課題を突きつけられたような気がしてならない。

もはやこれは、他人事ではないと思った。
観る側も運行する側も運営する側も、弘前市が全国に誇るまつり全体の問題として捉えなければならない。
今年の弘前ねぷたまつりは、初日から運行中のトラブルがちょこちょこと発生しており、中には、今回の事故が起こってしまった団体同様、油圧系統のトラブルを起こした団体もあったようだ。


亡父は自称「ねぷたバカ」だった。8月1日から7日まで、毎日毎日どこかの団体に顔を出し、ねぷたの運行に参加していた(正しくは、ただ酒を煽っていただけだったのかも知れないが)。

「青森のねぶたは、のたばったガニ。弘前のねぷたは、金太郎飴。」

そう言って笑っていた父。僕にとって「弘前ねぷたまつり」は、父のことを強烈に思い出す時期でもある。

やがて金太郎飴は多種多様化し、運行団体もどんどん増えていった。
気がつくと、運行規模に合わないぐらい大型化されたねぷたや運行団体の多種多様化が進むとともに、駅前に集中する運行台数、年を追う毎に無法地帯と化した場所取り、運行前の過度な飲酒、目に余るぐらいの衣装、そして、団体間での小競り合い…。

きっと亡父も、今回のこの事故に心を痛めていたことだろう。

もちろん今回の事故を予見できた人などいるはずがない。
しかし、いつか起こりうる事故が今回、とうとう起こるべくして起こったのかも知れない。
これを機に、ねぷた運行のあり方が問われることになるだろうし、ここぞとばかりの批判合戦も繰り広げられることも考えられる。

正直、ねぷたの運行やまつりの運営などに携わる方々、そして、今回事故を起こした団体や亡くなられた方のご家族の心中を察すると、胸が張り裂けそうなぐらい苦しくなる。

だが、来年以降の安全な運行に向けて、今こそ関係者が一丸となって、なぜこのようなことが起きてしまったか、しっかりと検証と分析を行い、祭り全体のルールを明確化しなければならない。
「教訓」の一言で済ませるには、あまりに事態が重すぎるのだ。

今朝の弘前市は、激しい雨が降り続いていた。弘前市全体が、号泣しているようだった。
まつりの後の静寂ほど侘びしさを感じるものはない。

その静寂が、いつもより2日も早くやってくるなんて、誰も想像していなかったことだ。

僕はねぷたに関しては前述のとおり既に20年以上も参加していないし、弘前ねぷたの運行こそ、「餅は餅屋」の世界だと考えている。大体にして、今のねぷた運行に係る内情は全くといっていいほどわからないので、ああだこうだと口を挟む立場にはない。

でも…弘前市民の誰もが、ねぷたまつりをやめて欲しいなんて思っていないはずなんです。津軽の、弘前の短い夏の夜空を焦がす風物詩なんだって、みんなわかっているんです。でも、やるからには何らかのルールを決めなければ、今後もこういったことが起こりうるんです。

喜怒哀楽。
人間の持つ4つの感情。楽しい時には喜びが伴い、喜びは楽しみをもたらす。
一方で、哀しい時には怒りが伴い、怒りは哀しみをもたらす。

だからこそ関係者の皆さまにおかれましては、どうか感情的にならず、責任を押しつけ合うことなく、努めて冷静に今後の方針についてご検討くださるよう、一市民として心からお願い申し上げます。

亡くなられた方のご冥福を心からお祈り申し上げます。