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「ジョンガルナイト vol.2」の夜

もともとアラフィフの4人が集まって始まった「ジョンガルナイト」。
発端は、僕の誕生日の際に、同い年で来年年男、更に同業でもある平川市の怪童NZM氏が寄せてきたコメントだった。

「近々飲むぞ。」「OK、やろう。」

このやり取りに加わってきたのが、平川市の孤高のグルメこと桃尻男爵NRK氏。
「ワもカデデ(加えて)。」
「もちろん!」
更にもう一人、弘前のファッション界を長年にわたり見守り続けてきたカメラ番長HNM氏からも、「オラも混ぜで!」と。

それぞれ繋がり方に濃淡はあったけれど、職業も趣味も年齢も微妙に異なる4人が一堂に会したら、化学反応的な何か面白いことが起こるんじゃないかな、と朧気ながら思った。単なる異業種交流会では終わらない、何かがあるに違いない、と。
鉄は熱いうちに打て、ということで、2月に入り早速日程調整を開始。ところが、なかなか日程の都合が合わない中、例の小川原湖の事案が発生するなど、更にズルズルと開催は伸びていった。

雪が解け、芽吹き始めた頃にようやく開催が決まったその集まりは、なぜかいつの間にか「ジョンガルナイト」と名付けられていた。
…さて、ひょっとしたらこの投稿をご覧になっている多くの方は、「ジョンガル」が何を意味するのか分からないと思う。広辞苑にも載ってないから。

ジョンガル【じょん・がる】(動ラ変)勃起すること。津軽の一部の地方のみで使われるスラング。転じて、いきり立つこと。奮い立つこと。

今の世代の子たちは、この言葉を使うのだろうか。僕らの世代でも、せいぜい中学生ぐらいまでしか使わなかったし、いい年を扱いた大人がこの言葉を使っている光景に出会ったことはなかった。

しかし、四十路を過ぎたあたりから、僕らの周りでこの言葉を再び耳にする機会が増えた。いや、自ら発し始めたのかも知れない。
一つのきっかけは、NZM氏の地元でもある平川市碇ヶ関地区で開催される「たけのこマラソン」に挑むことを、「ジョンガル」というようになったことからだった。その前後から、僕とNZM氏の間では普通に「ジョンガル」という言葉を使っていたし、それは決してスラングのような使い方ではなく、あくまでも「頑張る、奮い立つ」という本来からはかけ離れた意味で使うようになっていた。

ということで、4月27日、ついにこの4人が揃い、第1回の「ジョンガルナイト」が開催された。
詳細は、カメラ番長HNM氏の投稿をご覧いただこう。
FEROKIE BLOG【ジョンガルナイト】

第1回ということで、あまり深いところまでの話には及ばなかったと記憶しているが、心も体もおなか一杯にして帰ったことを覚えている。

それから半年以上が経ち、そろそろ第2回目を開催してみようかと思い立ち、声を掛けてみた。
自分で言うのもおかしな話だけれど、役人二人が結構疲弊しているな、と思ったのも一つの要因だった。カンフル剤を注入しなければ。

日程調整は、今回はすんなりと決まった。
場所も、弘前駅前にあるお店で開催することに。ただ一つ違ったのは、アラフォーの1人が加わったことだった。
餌食となったのは、僕の義妹の旦那であり、弘前市や青森市に農産物や総菜を中心とした店舗を構える「アナール」…いや、ボヌールTKHSくん。
親戚関係にあるTKHSくんを、さも怪しげかついかがわしい香り漂う「ジョンガルナイト」に誘うことはちょっと抵抗があったが、誘ってみたら誰よりも気持ちをジョンガラせて参戦してきた。

ちなみに。「津軽じょんがら節」という民謡があるが、「じょんがら節」と「ジョンガル」は全く別物であり、「ジョンガル節」もこの世には存在しないのでご留意願いたい。…いや、「ジョンガル、節」は存在するのかも知れないが。

話を元に戻そう。
というより、この日の模様もカメラ番長HNM氏が非常にわかりやすくまとめて下さっているので、そちらをご覧いただきたい。
FEROKIE BLOG【ジョンガルナイト Vol.2】
…となると、僕が大変手抜きをしているように見られてしまうので、記事で触れられていない内容を補完したい。


(この日食べたあん肝)

(県産魚のお造りは津軽塗に載せられ。)

(オッサンも撮影に萌えるのである。)

(NRK男爵はカメラから違う。)

1.シケベな話は酒が進んでから。

(ジョンがったキュウリ。)

2.話の範囲は多岐にわたる。でも、仕事の話はあまりしない。

(HNM番長に睨まれる。ボヌールTKHSくんと怪童NZM氏は、NRK男爵に叱られているわけではありません。)

3.みんなが考えていることは結構似て非なる。でも、思いは近い。
4.結局のところ、地元を少しでも良くしたい、という思いは一緒。
(「まちづくり」もあれだけど、「まちそだて」も大事だよね。)

(エロ話そっちのけで、真剣に議論しています。)

…って、十分手抜きですね。すいません。
さて、次回以降の展開が楽しみになってきた。ジョンガリアンは増幅していくことになるのか、それとも…。
※ネーミングはさておき、決して男性だけで楽しもうという会ではありませんので、しつこいですが念のため。

「弘前」ナンバー

2020年から、ご当地ナンバーとして新たに「弘前」が加わることになったそうだ。

対外的に弘前をアピールするのが狙い、とのことらしく、弘前市民に弘前への愛着を更に深めてもらおう、という意図ではないようだ。

こういったところに市民と「あちら側」との温度差を感ぜずにはいられなかったりして。…あ、かく言う自分もそんな「あちら側」の人になっちゃうのか。

7月には図柄入りナンバーの公募を始めるらしい。

(これはバイクのナンバープレート)

元々ご当地ナンバー制度は、2004年に「地域振興や観光振興等の観点から、ナンバープレートの地域名表示を弾力化し、自動車検査登録事務所の新設の有無にかかわらず、新たな地域名表示を認めることとする」として始まったもの。青森県内には陸運支局のある「青森」と「八戸」のナンバーしかなかった。登録台数10万台以上が5万台に緩和されたのを機に、ここに「弘前」が割って入ってきたのは、青森でもなく八戸でもない、「弘前」としての変なプライドが働いたからではないか(いわゆるエフリコギ)、などということをふと思ってしまう。

ちなみにこの「弘前」ナンバー、弘前市と西目屋村が対象地域となるそうだが、当初はもっと幅広いエリアでの構想だったと聞いている。しかし、「弘前」にこだわり過ぎた結果、参画する市町村は西目屋村のみだった。当然の結果というかむしろ、よく西目屋村が「白神」推しをしなかったな、と思う。(「白神」については、かつて秋田県内で市町村合併後の新市を「白神市」にするとかしないとかで騒動があったので、それを踏まえた大人の対応なのかも知れないが。)

しかし、平川市や黒石市の人をはじめ、周辺市町村の皆さまが違和感を持つのは当然だろうし、その地域の皆さんが「弘前」のナンバーを付けるって、弘前市民からしても何となくイヤだろうな、って思ってしまう。

18歳以上を対象にご当地ナンバー導入の賛否を問う住民アンケート(弘前市4,000人、西目屋村100人)を行った結果では、いずれも5割以上の賛同を得たそうだ。まあ、市内や村内にどれぐらい免許保有者がいるのか知らないし、このサンプル数が多いのか少ないのかは知らないけど。

じゃあ、「弘前」ナンバーを自分の車に取り付けたいかと聞かれると、「うーん、そこまでは…」というのが正直なところだ。いや、別に弘前が嫌いなワケじゃないし、むしろ地元愛はバリバリある。だからこそ、あまり気乗りしないのだ。

しかし、手放しで喜べないこのモヤモヤした感じは何だろう。
一つ言えることは、「今更何を?」といった感情が渦巻いているということだ。弘前と言えば、日本一を自負するさくらまつりや弘前ねぷた、更にはりんごの街としても充分国内外に知られた街だと思っている。それでもなお、「ひろまえ」と呼ぶ人がいることも知っている。

それはともかく、それなりに知名度を持っている地方都市の名前をわざわざご当地ナンバーとして付する必要があるのだろうか、という疑問が、「弘前」ナンバーと言われてもしっくり来ない一番の要因なのかも知れない。

ここ最近は本当にご当地ナンバーが増えて、青森県内でも他県のいろんなナンバープレートを見かけるようになった。「盛岡」「仙台」はともかく「平泉」ナンバーには正直ちょっと驚いたけど。まあ、世界遺産の名を冠しているという点では、それ相応の「宣伝効果」はあるのかも知れないが。

その「平泉」に代表される、というわけではないが、ご当地ナンバーは「走る広告塔」とも言われていて、その地域の宣伝やPR効果も高いという。

(ここまでキャラクターがいると、何が何だか…。)

ただ、その一方で「走る広告塔」であるが故に起こりうる懸念も抱かざるを得ないのだ。
だって皆さん、こんな経験ありませんか。

他県ナンバーの車両が傍若無人な運転をしているのを見て、チッと苦虫を噛みつぶしたこと。弘前なんて「さくら」の季節や「ねぷた」の時期になると県外ナンバーの車が市内を走っていることなんてざらにあるわけですよ。
裏を返せば、今後、逆のことが起こりうるワケだ。

例えば。
県外の高速道を走行中に、制限速度を遥かに超えるような猛スピードで追い越していった車両が「弘前」だったら。
県外で白バイに止められていた車両のナンバーが「弘前」だったら。
大きな事故を起こした車両のナンバーが「弘前」だったら。
それこそ、街中で粗暴な運転をしている車両のナンバーが「弘前」だったら。

PR効果どころか、「弘前」そのものに対する印象は悪くなるだけである。
もちろん、全てが全てこういったことを懸念しなければならない、ということではない。
ただ、「ご当地ナンバー」を背負う以上は、「走る広告塔」として運転する側もそれなりに気をつける必要があるのではないか、ということだ。

賛否両論あることを承知で言うと、個人的には「岩木山」の方が地元の愛着が湧いて良かったんじゃないかと思うが、「岩木山」ナンバーだったら弘前市や西目屋村だけではなく、かなり広い範囲で使用されることになり、範囲が抽象的すぎるとか何とか言われてダメなのかも知れない。(一方で、静岡県富士市を中心とした「富士山」ナンバーがあるのも何かちょっと変な感じだけれど。)

当初の導入基準の一つとして、複数の市町村の集合であることが要件となっていたが、要件の緩和によってなのか、単独市町村の申請も通るようになっているようだ。
こうなってしまうと、原付バイクのように各市町村名が付されたナンバープレートでいいじゃないか。今回の「弘前」を含んだご当地ナンバーは第3弾とのことであるが、結局のところ「ご当地ナンバー」って一体何のためにあるんだろう、と思ってしまう。穿った味方をするならば、各地でご当地ナンバーが導入されることにより、多かれ少なかれ何かしらを得る人がいるってことなのだろう。どこかのOBとか、天から下った人とか。

さて、どんな絵柄になるのかはともかく、どうせならば唐辛子の絵柄でも入れて、横に小さく「清水森」って文字を入れた日には、色んな意味でヒネリと凝りが効いていてインパクト絶大だろうに、と思う今日この頃。そうだ、いっそのこと「弘前」じゃなくて「清水森」にしますか!
※ご当地ネタですいません。

「弘前在来トウガラシ」

防災に対する意識、持っていますか。

日本海中部地震から35年、十勝沖地震から50年という節目の年、今一度「防災」を考えるきっかけ、そして、自分の見識を深める機会になればいいと思い、弘前大学理工学部で開催された「地震災害軽減に関するシンポジウム」を聴講してきました。地球環境防災科の教員によるもので、専門的な話に特化してしまうのかな、と危惧しておりましたが、全くそんなことはなく、むしろ頭の中に入りやすい内容でした。

以下、走り書きのメモから概要をピックアップ。

▼小菅正裕教授「あれから35年―変わったこと,変わっていないこと」

50年前の十勝沖地震。気象庁が地震発生当日に発表した震源が十勝沖だったことから、その日に十勝沖地震と命名した。

ところが、震源の位置が違っていたことが後日判明。実際は十勝沖ではなく、三陸沖北部の青森県東方沖であることがわかった。地震の観測地点が少なく、位置の特定が難しかったことが要因。

35年の日本海中部地震。当初、秋田沖が震源とされた(活断層のズレが最初に起こったのは秋田沖だった)。しかしこちらも後日の調査で、青森県の西方沖(青森県岩崎沖)約90km、深さ約20kmが震源であることが判明。

「秋田沖地震」ではなく「日本海中部地震」と命名されたのは、青森県選出代議士が深く関与。「十勝沖地震」の際、被害が甚大だった青森県ではなく、北海道に対して補助金や救援物資が回されたという苦い経験があったから。

当時の地震観測計では、S波(地震の主要波。最初のカタカタがP波、その後のグラグラがS波)を観測することができなかった。青森県内の気象台、測候所は青森、八戸、むつ、深浦の4か所のみ。

2001年の論文で、仙台平野への津波到達の危険性が指摘されていた。10年後、東日本大震災で現実となった。

*地震の観測地点が一気に増えたのは、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)が契機。

未だにできていないこと。まずは地震の前兆観測や発生予測。大震災(サンプル数)が少ないので、シミュレーション、検証ができない。

そして、「災害への心構え」。震災の経験を後世に伝えることが萎んでいき、地震を知らない世代となり、経験が忘れ去られる。そのタイミングでまた同じことが起こる。この連鎖を絶つことが必要。

マスコミ報道への違和感。震源の位置を示す三陸沖の×印の横に、「東日本大震災」の文字。

×印で起きたのは、東北太平洋沖地震。この地震によって人々が暮らす陸地で起きたのが、「東日本大震災」。

防災リテラシーの向上のため、命を守る教育の場が必要。長周波の揺れが発生したら、「とんでもないことが起こっている」という認識を。大津波警報が発令されたら、「必ず津波がやってくる」という認識を。


▼上原子晶久准教授「台湾の地震に学ぶ」

台湾で発生した2つの地震。1999年の地震はM7.3。震源が8kmと非常に浅かった。活断層のズレが最大約10m発生し、断層変位が地表に現れたところでは、ダム本体や橋脚といった構造物が破壊された。熊本地震の阿蘇大橋も、断層変位によるものと考えられる。

2018年2月6日に発生した花蓮地震、M6.4。これも断層変位が地表に現れ、構造物が被害。地震被害はいつも発生するが、特効薬的処方箋はないのか。県の防災計画、これまでも何度も更新。「その取組に終わりはない。」という県幹部。これがまさに、答え。

だからといって対策を講じることをやめてはならない。


▼前田拓人准教授「津波発生研究と即時予測技術の最前線」

津波から地震を観測するという手法。地震発生から津波到着までに地震を調査。S―netという津波の観測網を、岩手~福島の太平洋に張り巡らせた。世界でも前例のないケース。津波の現在地がわかるようになる。将来は、台風の進路予測のような、津波天気図(津波予報)に繋げたい。

地震も津波も、なくすることはできない。備えも避難も決断次第。


▼片岡俊一教授「次の地震にどう備えるか」

自然現象×人間社会=災害(被害)
自然現象はどこでも起こる。そこに人間社会が絡んで初めて、災害が発生する。

自然の力>人間の作ったものの強さ →災害が起こる。
人間の作ったものの強さ(例えば構造物の強度?)は自然の力には敵わない。だから災害が起こる。

が、災害は軽減できる。何を守るか。

震度5強以下の地震(構造物に被害が出る規模ではない)で、室内での死亡例3件。
本棚から崩れた書籍の下敷きになり、圧死(窒息死)したというケース。(しかも亡くなったのは40代の方ばかり)

各市町村の地域防災計画は、それぞれの市町村で完結。隣接の市町村まで踏み込んで書けない。

県内だと津軽、南部、下北、それぞれの相互・広域的なサポートが必要。

20時頃にシンポジウムが終了し、大学の外に出ると、雨脚が更に強くなっていました。弘前市には暴風と大雨の警報が発令されたまま。明朝は久しぶりにAさんの伴走を予定していましたが、そのAさんから連絡があり、練習を中止することに。

明日の予報も「雨」。警報は夜遅くまでの予想ではありましたが、安全面を考慮すると、弘前公園ランニングクラブ定例の朝練習も怪しいところです。

そこで、キャプテンにメッセージを送り、初めて「練習の中止」をFBページにアップ。

今回の「練習中止」のアナウンスは、もちろん仲間の安全を第一に思ってのことではありましたが、もちろん、そうは言っても何人かが練習にやって来ることは織り込み済み。ただ、それが何人なのか、気になるところではありましたが…。


47都道府県を見ると、青森県の防災意識は、太平洋側に位置する各県と比べても低いそうです。恐らく、青森県の中で見ても、特に津軽地方の人たちはその意識が低いのではないかと考えています。というのも、地震に関してだけ見ると、直接的に甚大な被害を受けた日本海中部地震から35年、この間には東日本大震災のほか、阪神淡路大震災の20日前に発生した三陸はるか沖地震など、県内で震度5強以上を観測する地震が発生していますが、津軽地方においては、直接的な被害を受けていないからです。むしろ、平成3年の台風19号の方が印象として強いのではないでしょうか。


朝4時。慣れというのは不思議なもので、土曜日にはこの時間に目が覚めます。

きっと雨がぱらついているんだろうな、と外を見て、唖然としました。

雨が、上がっている!

なんと、天気予報「雨」に騙されました。前日夜の大雨を考えても、まず間違いなく朝方まで雨は降り続いているのだろう、と確信していたのに。

しかも、予定通り警報は解除されており、もはや普段の「曇り」と変わらない天気。

グラウンドの状況を考えれば、恐らく運動会は中止になるでしょうが、「警報解除」の条件付きでの練習中止にすれば良かったのかな、と悶々としつつ、もう一度布団に潜り込みました。

まあでも、川の水は増水しているだろうし、万が一何かがあってからでは遅過ぎるし。

防災は空振りを恐れてはならないんだから、これでよかったんだ、きっと…うん。

誰も練習に来ませんように、と祈りましたが、結局7人が集まったそうです。(これが多いと思ったか少ないと思ったかは、ご想像にお任せします。)

こんな天気になるんだったら「中止」なんてぶちまけなければ良かったと、本当に猛省しています。関係各方面の皆さま、申し訳ありませんでした。

ということで予告。

6月下旬に、弘前文化センターで「防災啓発研修」を開催します。テーマは、「命をまもるために、いま、できることは何か」。

講師お二人をお呼びし、風水害・火山災害への備えと、国民保護に関する講演を行っていただく予定です。

防災意識が低い津軽、という印象を払拭するためにも、たくさんの方々のご参加をお待ちしております。(詳細はまた改めて!)

最後に皆さん、こんな時どうする?

  • 大雨が続いているのに、河川の水位が少しずつ下がっているような気がする
  • 暴風雪警報が発令される中、幹線道路が急に渋滞し始め、車が動かなくなった
  • 田んぼの中の一本道を車で走っているときに、突然Jアラートが鳴りだした

賑やかだった弘前の春空

桜前線が一気に北上した4月。弘前公園のソメイヨシノは4月20日に開花し、23日には園内、外濠ともに満開となった。県内外はもとより、今年は海外からも大勢の観光客が訪れたようで、例年のことながら幹線道路や公園周辺の道路における慢性的な渋滞が発生したようだ。

ソメイヨシノはGW前半を迎える前に散り始め、GW突入の頃には綺麗な花筏を楽しむことができた。
とはいえ弘前公園にはソメイヨシノ以外にもたくさんの種類のさくらがあり、今日5月4日時点でも遅咲きのさくらの花を楽しむことができる。ちなみに、弘前市公園緑地課が発表したさくらの開花状況は、こんな感じ。

ソメイヨシノ
■園内(全体)
開花状況  :葉桜

ヤエベニシダレ
■園内
現在の状況:散り始め

弘前雪明り(原木)
■ピクニック広場
現在の状況:散り始め

その他の品種の開花状況・予想
■鬱金 (本丸・二の丸・ピクニック広場) :満  開
■関山 (二の丸・ピクニック広場・四の丸):7分咲き~満開
■東錦 (二の丸・ピクニック広場)    :満  開
■松月 (北の郭・追手門)        :満  開
■寒緋桜(ピクニック広場)        :満 開
■ひよどり桜(ピクニック広場)      :7分咲き
■普賢象(本丸・ピクニック広場)     :3~6分咲き
■須磨浦普賢象(北の郭・ピクニック広場) :2分~7分咲き

弘前城植物園のサクラ開花状況
満   開 :一葉、鬱金、大寒桜、カスミザクラ、御衣黄、釧路八重
松月、手毬、福禄寿、水上、ヤマザクラ
5 ~7分咲き:関山、兼六園菊桜、琴平、紅時雨
咲き始め  :数珠掛桜、須磨浦普賢象、普賢象、松前紅玉錦

見たことも聞いたこともない名前があるかも知れないが、これ、ぜんぶ「さくら」の種類なのだそう。ちなみに、弘前公園で開催されるのは「弘前さくらまつり」であって、「弘前桜祭り」でもなければ「弘前桜まつり」でもない。なので、どういうわけか「桜」と漢字表記することにちょっとした抵抗というか違和感があって、この投稿でも「さくら」と表記しているのは、そういう趣旨です。

今年は、「弘前さくらまつり」の前身である「弘前観桜会」が開催されてから百周年を迎える。
これに合わせて関連するイベントも開催されていて、弘前公園は中も外も、そして上空も賑わいを見せた。

4月21日は、弘前さくらまつりの開幕日。この日に合わせ、「弘前観桜会100周年事業」として、航空自衛隊松島基地第4航空団所属の第11飛行隊6機が飛来することとなった。
言わずと知れた「ブルーインパルス」の展示飛行である。

前日、デモンストレーション(訓練飛行)を弘前市上空で行った際も、口をあんぐりしながら上空を眺める市民の姿が多数目撃されたらしい。
僕は昨年5月、八戸市の市制88周年記念事業としてブルーインパルスの展示飛行を見ており、今回は2年連続2度目となるブルーインパルス観覧の機会となった。
どうせならば岩木山や弘前城とのコラボを撮影してみたいと考えたが、弘前公園内はもとより、高い建物は撮影の機会を伺うカメラマンや航空ファンで混雑必至。
しかも「ブルーインパルス」がどの方角から飛んでくるのかはわからないし、その時その時で飛んでくる方角が変わることを知っている。恐らく弘前公園内で解説を聞かないとわからないだろう。
しかも、白神山地は世界自然遺産で飛行禁止区域となっている。そうなると、平場で飛行を観ることができる、ある程度の高台ならちょうどいいということか。

あ。他に観覧している人がいない、絶好の場所があった。
10時過ぎ、自宅の2階から屋根に上る。
多少木々が邪魔になりそうだが、ここなら遠くから機体を確認することができるはずだ。
…ふと見ると、近所でも同じことを考えている人がいたようで、双眼鏡片手に空を眺めている近くのオジさんの姿を確認、思わず苦笑する。
10時30分、予想通り北の方向からやってきた6機の機体。飛ぶ鳥を追いかけるかの如くその行方を追いかけながら約20分にわたって撮影した画像が、こんな感じ。

この日はあいにく上空の風が強く(ちなみに午後には暴風警報が発令されるぐらいだった)、ハートや五輪(さくらの花)は煙が風に流されてうまく出来上がらなかったのが残念。でも、一番残念だったのはレンズにゴミが付着していたことに気付かず撮影していたことだった。

さて、昼の上空が賑わった約10日後、今度は夜の上空が賑わうことに。
こちらも弘前観桜会100周年記念として、5月3日の夜に弘前城植物園内で花火が打ち上げられた。

以前も弘前公園内で(季節外れの)花火が打ち上げられたことはあったが、花火の大きさの問題なのかそれとも打ち上げ場所の問題なのか、ほとんどその姿を見ることはできなかった。しかし今回は、自宅から直線で約1キロしか離れていない植物園。これはひょっとして…とまたも2階へ。ただし今回は屋根には上らず、部屋の電気を消灯し、窓枠にカメラをピタリと固定しての撮影(なので、三脚は使っていません)。
シャッターの開放を5秒にしたら、次から次へと花火が打ち上がるために花火が輻輳する羽目に。
しかも、ISOの設定を200のままで撮影してしまったのが心残りではあったが、ほぼ正面に近い位置から撮影することができたので、これはこれでヨシとしよう。

花火の打ち上げとともに、公園内で休み始めていたと思しきカラスが一斉に飛び立ち、大騒ぎしていたのにはちょっと笑ってしまったが、こんな感じで弘前の春空は非常に賑やかだった。

しばらくカメラには触っていなかったので、久し振りに撮影する機会が得られたのは何よりだったけど、レンズの件といい設定の件といい、何だかあまりにも初歩的なミスで何も言えません…。

約35年ぶりの「山登り」

小学校4年の時に、僕はボーイスカウトに入隊した。
先に従兄が入隊していて、心身ともに軟弱な僕を見かねた伯父から「お前はもっと強くならなきゃならん」と強い勧めがあってのことだった。

それから約6年間にわたり、週末はボーイスカウトの活動に従事することが多かった。

二度と思い出したくない、苦々しい思い出が多々ある一方で、印象に残っているイベントも幾つかあって、その中でも、母の生まれ故郷でもある合川町(現:北秋田市)大野台への自転車でのキャンプ遠征と、目屋ダムへの夜間歩行訓練、そして高校1年の時に宮城県白石市(通称「裏蔵王」)で行われた「日本ジャンボリー」は、忘れることのできない思い出となっている。
忘れられない思い出については、機会があれば今後明らかにすることにしたいと思う。

ボーイスカウトのキャンプは弘前市郊外で行われることがほとんどで、自転車を使って移動することが多かった。ただし、参加人数が多くなった時の大きな荷物、例えばテントとか調理器具などは、リーダーや隊長の車に積んで運んでもらうこともあった。
場所は大体決まっていて、弘前市南西に位置する久渡寺山か、岩木山麓にある高長根山、この2か所だった。

久渡寺山に関しては僕の中学校の学区内にあり、自宅からは約6.5キロのところにある。
行きつく先が久渡寺の駐車場という一本道の県道は、延々かつダラダラと上り坂が続く。あの頃はまだ川沿いの自転車道も歩道も整備されていなかったので、時々車にクラクションを鳴らされながら、まさに隊列を組んで怖々自転車を漕ぎ続けたものだった。それが駐車場まで残り2.5キロほどになると完全に農家集落となり、車の数もまばらとなる一方で、上り坂も徐々に勾配を増すようになる。

やがて残り1キロとなると、更に勾配は増し、自転車を漕ぐのもやっととなり、自転車から降りて手押しで坂を上ることもしばしばあった。

しかし、ようやく終点の駐車場に到着しても、ここから更に山の中腹にあるキャンプ場までは、自らの足で登る必要がある。ハイキングといえばそれまでだが、キャンプ用の道具や寝袋の入ったリュックサックを背負って登るのは、ひ弱な少年にとってはなかなか至難の業だった。

「こどもの森」を標榜する久渡寺山のキャンプ場は比較的整備されている方で、飲料水(だったのかどうかは今となっては謎)の蛇口や炊事用の竈などがあったし、平場だったのでテントを張るのも難儀はしなかった。
ただし、夜になると完全に明かりがなくなるため、早い段階で夕食の準備をすることは必須だった。

夕食のメニューはカレーか豚汁と決まっている。理由は簡単。材料がほとんど同じだから。
味噌を入れるかカレーのルーを入れるかで、味が変わるというだけの話。
ただ不思議なのだが、翌朝に何を口にしていたかについては、記憶が全くない。

それはともかく土曜日の午後、キャンプ場に到着すると、テントを設営する係と薪を集めて火を熾す係に分かれ、早々に寝食の準備をする。ロープの結び方や手旗の振り方を年長者から年少者に伝授するという訓練を間に挟み、飯盒で米を炊き、極端に薄いカレーを口にしながら、晩ご飯をみんなで食べる。こういったことが、中学3年になる頃まで続いた。
今みたいにケータイもスマートフォンもなかった時代。単3電池一本で動くトランジスタラジオが、宵闇の静寂をかき消す唯一のアイテムだった。

翌日は、天気が良ければ山に登ることもあるし、悪ければ早々に下山する。
前述のとおり久渡寺までの行きは延々上りが続いてキツいが、帰りは下りなので、楽々スイスイと自転車を転がし、午前中のうちに弘前市内へ戻って来る。
1泊2日の野営は、大体こんな感じで行われていた。
今思えば、サバイバル感覚は確かに養われた…ような気がするし、ひ弱も多少は改善されたのかも知れない。

ただ、奉仕といえばいいのか、困った人を助けたいという精神が養われたこと、そして、料理の腕が上がったことだけは紛れもない事実だ。

あの時以来、久渡寺山を訪れる機会なんてほとんどなかったのに、つい先日、35年ぶりに久渡寺山頂を目指してみようという気になった。

約6.5キロの道路、自転車ではなく自分の脚で何度も休憩を挟みながら久渡寺の駐車場を目指す。
実はこの日、駐車場で折り返すつもりだったのが、あまりに不甲斐ない自分の走りっぷりに立腹していた。
そして、その立腹をどう収めればいいのかわからぬまま、久渡寺山へと足を踏み入れていた。
これが事の発端だった。

…いや、正直言うともう一度久渡寺の山に登ってみたいという思いはどこかで燻っていたのだ。実は昨年も一度登ってみようとアタックしたのだが、登山道が全く思い出せぬまま、すぐに引き返してきた。

取りあえず目指すところは、約35年ぶりのキャンプ場。
道の記憶は相変わらず全く思い出せないのだが、ひとまず登れば何とかなるだろうというノープラン。ある意味、非常に危険な発想だけで山を駆け上がり始めた。

しかも、長袖のランシャツにショートパンツ、ふくらはぎを覆うコンプレッションサポーターといういで立ち。実は、水も持ち合わせていなかった。山を舐めてかかって遭難する軽装者よりも酷い格好だった。本当にごめんなさい。

上り始めて程なく現れた急勾配で、息は完全に上がることに。「久渡寺山頂」と書かれた方向案内板だけが頼りだった。息も絶え絶えで太腿をさすりながら、文字通り歩を進める。縦走というには程遠く、縦歩といった感じ。

馬鹿と煙は高いところへ上る

というが、ジョンがって狼煙を上げた馬鹿が、今まさに久渡寺山を黙々と上っているわけで…嗚呼!そうか、この気持ちは2日前の飲み会「ジョンガルナイト」で焚きつけられたんだな、と思い始めた。

ちなみに「ジョンガルナイト」の模様はFerokieさんが投稿してくださったので、そちらをご覧ください。

話を戻して。
程なく、縦走にピッタリの道と合流。さて、野営の設営に当たり、僕はどっちの道を上ってきたんだろう。視界の開けた中腹にある合流地点に辿り着いたとき、キャンプ場の場所の記憶が蘇った。嬉しくなって駆け上がる。雪に隠れていたフカフカの落葉と枯れ枝がクッションの役割を果たす。5分も上らないうちに、かつてキャンプを行ったそこが現れた。

な、懐かしい…!

今は「お弁当広場」という名前がついているらしい。昔はなかった木製のテーブルと椅子が備え付けられている。
キャンプファイヤーも行えそうなスペースもあるし、更には仮設トイレまで置かれている。昔と全然違うわ…。

妙に感慨深い気分を味わいながら、馬鹿は更に高いところへ上りたくなった。
ハイキングにやってきたと思しき人たちが時々姿を見せる。徐々に道が険しくなり、幅が狭くなる。斜面に辛うじて残ったような道もあり、ちょっと身の危険を感じるな、といったところも。そういえば高いところが苦手なのに。急にそのことが頭をよぎり、途端に足がすくみ、ジョンがっていたものがキュッとなる感覚。

更に山道を上ると、残雪が現れる。やがて残雪の量は、行く手を阻むぐらいの量になっていた。「山頂まであと1キロ」という看板を見てから、どれだけ進んだんだろう。しかし、山頂は未だに見えない。

久渡寺山って、こんなに高い山だったっけ?

35年前の記憶なんて全く当てにならない。
やがて斜面と登山道の残雪で完全に行く手を阻まれ、進むべき道がなくなった。静寂に包まれた森の中で身の危険すら感じたため、「登頂」を断念。急に寒さを感じたのは、残雪のせいだろうか。それとも…。

上って来た道を引き返す。景色に目をくれる余裕もなく、腰の引けた格好で恐る恐る下りながら、これまでの道中をほとんど画像に収めていないことに気がつく。残雪の量も、どれぐらい道が険しいのかも、僕の頭の中にインプットされたのみだ。

結局、中2の気分で山登りを始めたはいいが、47歳という運動音痴の中年にとっては、過酷以外の何物でもなかった。アホだ…アホ過ぎる。

そして、今回記録として残したもう一枚の画像が、これ。下山後、息も絶え絶えの姿。

ちなみに久渡寺山の標高は662.9mだそうな。…色んな意味で山を舐めてはいけません、いやホントに。
いつかまた山頂を目指す…気持ちになるまで考えます。