Monthly Archives: 1月 2009

休憩所

今日は地元の中心商店街の話をしようと思う。
弘前市の土手町といえば、かつては弘前市のみならず、津軽地方の商業の中心地として、人がすれ違うのもやっとなほど賑わいを見せた時代があった。
上土手町、中土手町、下土手町と連続して商店が続く町並みは、弘前市のまさに中心商店街であったのだ。雪を避けるために自己所有地に設けられたアーケード上の通路、いわゆる「こみせ」が見受けられたり、対面型販売の集合店舗があったり、風情のある町並みだったのだが、モータリゼーション化の波と都市計画に対応し切れぬまま商圏の空洞化が進み、一つ穴が開いた途端にあっという間に商圏としての機能を失った。いや、失ったというよりは、商圏のとしての機能が分散化、拡散化され、必然的に中心商店街としての役目を終えなければならなかった、ということだろうか。
決定的だったのは、中土手町を寸断する形で片側2車線の都市計画道路が開通したことだろう。
40メートル近い道幅の交差点が、連続性を持った商店街に楔を打ち込み、分断してしまったのだ。もうかれこれ5年前の話になる。

弘前市中心街の都市計画道路開通(平成16年3月26日付東奥日報)

弘前市が建設していた市中心街の都市計画道路「3・3・2号富士見町撫牛子線」の中央通り-山道町間が二十六日、開通した。国道7号から土手町商店街までが一本の道路で結ばれることになり、市中心部への交通が便利になった。
開通式は同日午前九時十五分から、土手町通りとの交差点付近で関係者約百人が出席して行われた。金沢隆弘前市長、新戸部満男弘前商工会議所会頭らがテープカットし、弘前市山道町にある明星幼稚園の園児と関係者が歩き初めをした。この後、午前十時から一般車両の通行が可能になった。

整備した区間は中央通りの弘前郵便局前交差点から土手町通りを横切り、山道町通りに至る長さ三百六十一メートル、幅三十六メートル。一九九三年から建設を始めていた道路で、電線地中化などで景観にも配慮したほか、両側に幅八メートルの歩道を確保し、地熱利用の融雪システムで冬でも歩きやすくなっている。
商店街が道路で分断されることになった中土手町商店街振興組合の竹内規夫理事長は開通式の後「道路をめぐってさまざまな意見はあったが、商店街の新しい中心地になる場所だと思う。アクセスが良くなれば郊外大型店と同条件。あとは個々の商店がどう頑張るかだ」と話していた。

当時の新聞にはこんな記事が載っていたのだが、予想通りこの道路は、交通の利便性を高めた(それもほんのちょっと)だけの話で、商店街の中心地になるどころか、土手町の通過点化を更に増幅することとなった。結局、市中心部への交通が便利になったのではなく、市中心部の通り抜けが便利になったのだ。しかも、日中の交通状況や渋滞状況を見る限りでは、果たしてこの道路が本当に必要だったのかは未だに疑問が残るところである(というのも、この道路を利用して市中心部に向かった場合、片側2車線のこの道路の終点は、大型車の通行できない一方通行なのだ)。

結果、客足がさらに遠のき、空き店舗は増える一方で、2年以上前に中土手町商店街の集客テナントとして肝煎りで再オープンさせた「ルネス街」についても、既に空きテナントが目立ち始めているような状態。そんな中、こんな方針を打ち出した振興組合の記事に、思わず我が目を疑った。

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父の筆跡

今朝は20センチ近く雪が積もった。朝5時過ぎに起床し、せっせと雪かき。去年の今頃であれば、薄いジャンパーを羽織り、メッシュの野球帽を被り、黒いゴム付きの軍手をつけた父が、こっちの雪かきがようやく終わる頃になって、青い雪かきを手に、通路の幅を広げるだけのために、申し訳ない程度の雪かきをする光景を目にしていたが、当然のことながら今年はその姿が見えない。雪かきの間、そのことが頭をよぎると同時に無性に悲しさがこみ上げ、寒さのせいなのか悲しさからなのかよくわからないまま、僕はポロポロと涙を流していた。

さて、今日もまた父の話だ。他のネタを楽しみにしている方には申し訳ないと思いつつ、しばらくは父の回想録にお付き合い願いたい。

父は、実に特徴のある字を書いていた。まるで女性が書いたような丸みを帯びた字体でありながら、時としてそれは何を書いているのかわからず、苦労したことが何度もあった。だから、見ようによってはただの乱雑な字。でも、他の見方をすればそれは、暖かみのある優しい字だった。

市議を務めた父には、名目上の後援会があった。しかし後援会といっても名ばかり、実態は選挙が始まる頃だけ集まる程度で、例えば市民向けの定例の報告会を行うとか、あるいは何らかの形で活動状況を発信するとか、そういったことも一切行っていなかった。
有名無実の後援会とはいえ、政治資金規正法の絡みもあり、県選挙管理委員会に毎年収支報告を行わなければならない。県選管のある場所に極めて近いところで働く僕としては、毎年その収支報告を父に頼まれて持参することが、ちょっとした苦痛となっていた。たぶんそれは、まがりなりにも公僕である身分にありながら、いくら父のこととはいえ議員という立場にある者の書類を、まるで小間使いのように持参することに、少なからず抵抗を感じていたからなのだと思う。
だからここ最近は、父から頼まれても「悪いけど直接送ってくれないかな」とやんわりと断りを入れるようになっていた。今となっては、なぜそんなことをしたのか、僕にもわからない。

父が亡くなってからも、父の後援会は存在し続けた。有名無実であろうとも、解散の届け出をしない限りは、後援会としての名前が残ってしまうのである。

昨年暮れ、会計責任者の元に収支報告を求める書類が送られてきたそうだ。主亡き後援会の会計担当者は、どうすればよいのか判断に悩み、年始に我が家に相談にやってきた。
そして僕は、後援会の解散をその場で決めた。後援会関係者の意向はお構いなしだ。
というか、主亡き後援会が存在すること自体が不自然なことであり、解散は当然至極のことではあるが、誰もそのことを口に出さなかったのである。なので、解散したところで文句を言われる筋合いもないし、文句を言ってくる人もいないだろう。
多分これは、議員としての父からの、最後のお願いなのだろうと腹を括った。
「オニチャン、メヤグでもこれ頼むじゃ。」

結局、主亡き後の後援会の、最後となる収支報告書そして後援会の解散届は、すべて僕が調製した。あとは、後援会長と会計責任者が自筆押印さえすれば書類が整うように。

県選管に直接出向き、事情を説明。幸いにして、以前一度別なお仕事でご一緒したことのある人だったので、話はスムーズに進んだ。昨年の内容を確認させてもらおうと書類を見せてもらったら、そこには明らかに父の筆跡で書き記された書類が出てきた。
丸みを帯びた、太くて大きな字で、会計担当者ではなく、父自らが収支報告書を作成していたのだった。

まさかそんなところで父の筆跡にお目にかかるとは思っていなかった。
父が生きていた証であり、父が市議を務めていた証。暖かみのある、優しい字。

父の懐かしい筆跡を見ていたら、空しさと切なさがとめどなくこみ上げてきた。

派遣労働と出稼ぎ労働

先日、総務政務官が年越し派遣村(そもそもこの言い方にも違和感がある)に集まった人たちについて、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まってきているのか」とを発したことについて騒動になった。結局本人が発言を撤回し、収拾を図ろうとしたが、一度口から出てしまったものを撤回することは、そう容易いことではないようだ。

職を失い、家を失った派遣労働者たちにとって、年越し派遣村は数少ない拠り所であったのだが、本当にそのような派遣労働者だけが集まっていたのかといえば、
総務政務官の言うとおりちょっと疑問なところもある。もはやホームレスであることを生業としている人たちや、騒動に便乗したエセ派遣労働者も多く含まれていたことだろう。

かつて津軽地方では、冬期間になると関東や中部、関西地方への出稼ぎ労働者が多数いた。今でこそ労働の需要と供給のバランスから、出稼ぎ労働者の数は激減しているようだが、昨今の派遣労働の仕組みは、短期集中雇用という点では、出稼ぎ労働者の雇用形態ときわめて近いような気がする。というか、出稼ぎ労働に変わって登場した一つの労働体系が、派遣労働なのだと思う。

両者が異なるのは、出稼ぎ労働者は春になると地元に戻り、リンゴの受粉や田植えに精を出すが、今の派遣労働者には戻る場所がないし戻るお金もない、ということだろうか。そしてもう一つ大きく異なる点は、出稼ぎ労働者は肉体労働に精を出し、多額の収入を得ることができたが、今の派遣労働者はその日暮らし程度の収入しか得られないということだろう。
ただ、出稼ぎ労働については、儲けたいという思いから出稼ぎに行くのではなく、家族を養うため、生活を守るための手段だったはずだ。要するに出稼ぎも一つの生業だったということだ。一方の派遣労働に目を向けてみると、その雇用形態や労働者の生活状況を見る限りでは、生業と呼ぶにはほど遠いような気がする。

ところであの政務官の発言は、本当に失言だったのだろうか。
このことを巡ってはネット上でも多くの議論が飛び交っているようで、タバコを燻らしながら炊き出しに向かう派遣労働者(なのかホントに?)の姿が放映されていたこともあり、政務官の失言(発言)を支持する声も多いようだ。

確かに、彼らが本来の意味からするところの「失業者」なのかといえば違うような気がする。
失業とは、仕事を失うことおよび働く意思も能力もあるのに仕事に就けない状態を指す。(出典:Wikipedia)

政務官が言わんとしたことは、「仕事を失ったのに働く意志もなく年越し派遣村に集まっているような連中は、失業者とは言えないし、生きるための自立心をしっかりと持ってほしい。」ということなのだろう。本質的に「失業」の意味を捉えるならば、今回の政務官の発言は必ずしも「失言」ではないような気がする。ただ、残念ながらマスコミは、断片的な部分を報道するが、全体像を報道しない。なので、派遣村でタバコを燻らしながら炊き出しに群がる人も職探しをしない人もごく少数だったのかもしれないが、そういったマイノリティばかりに注目が集まってしまった結果、「何もしない派遣労働者め…」的な敵対心を抱かれてしまったことにも、本気で職探しをしている派遣労働者にとっては歯痒いところではないだろうか。

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郵便での戸籍謄本請求

父方の祖母の戸籍謄本を請求する必要が生じたので、祖母の結婚前の本籍地であった某市のウェブサイトを見て、どういった方法で申請すればいいのかを調べてみた。
今では、かなり多くの役所が遠方に住む人たちのために、郵送での戸籍謄本や証明書の発行を行ってくれる。
インターネットでそのような情報が公開されているということも、飛躍的に利便性を高めた。

さて、ここで一つ問題なのが、今回請求しようと思っているのが、祖母が生まれてから除籍するまで(祖父と婚姻するまで)の間の、全ての戸籍謄本なのだ。

ご存じの方も多いかもしれないが、戸籍謄本はたびたび改製が行われており、その都度新しい戸籍謄本が作られる。最近であれば、電子化による戸籍謄本の改製があった(地域によって導入していないところもアリ)。そして、現在「生きている」戸籍謄本以外は、改製原戸籍ということになる(=証明手数料が高くなる)。
恐らく祖母が生まれてから何度か戸籍の改製が行われている可能性があるのだが、それが一体何度行われているのかわからない。つまり、何通の戸籍を請求すべきかわからないのだ。

某市とそのたびに戸籍謄本の請求、送付のやりとりをするのも馬鹿馬鹿しいし、ハッキリ言って時間の無駄である。
さらに、某市のウェブサイトを見ると、証明手数料については次のような表記があった。

定額小為替により送付してください。切手、収入印紙は使えません。
※同封する交付手数料は、お釣りのないようにお願いします。

請求するのは古い戸籍なので、交付手数料は間違いなく1通750円である。しかし、それが750円で済むのか、1,500円になるのか、あるいはそれを超えるものなのかわからない。
そこで僕は事前に、申請書に必要事項を記載したもの(要するに本籍や誰の分の請求なのかわかるもの)と、今回請求に当たっての事情、祖母が生まれてから除籍するまでのすべての戸籍を請求したいこと、金額、部数についていくらになるかわからないので、電話で連絡を頂ければ改めて請求の申請書と交付手数料を送付する旨の手紙を添えて、既に役所が年末年始の休みに突入した12月27日に郵送した。

1月5日午後3時過ぎ。たまたま外に出ていた時に、携帯電話が鳴った。
某市役所からだった。

「こちら、××市役所市民課の△△と申します。今回お手紙で申請のありました件についてお電話させていただきました。今日から新年の業務を開始しておりますが、手紙が休みの間に届いたようですので、ご連絡が遅くなりました。」(知ってるよ、そんなこと)
「他の役所はわからないのですが、××市では本来、このような電話でのサービスを行っておりません。が、手紙の内容を拝見しまして、とりあえず「○○(←祖母の名前)手数料不足分」というメモを添えて、2,250円の為替を送ってください。」(は!?手数料不足って、まだ正式な申請書も送ってませんけど!?)

本来、こういう電話でのサービスは行っておりませんが(しつこいな、こいつ)、○○さんの戸籍は全部で3通になります。ただ、1通の枚数が相当ありますので、封筒は大きめの方がよろしいかと思います。」

頭の中に沸々と疑問が。そしてはらわたが生煮え状態に。

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今年の抱負

結局この9連休はほとんど家に籠もりっきりの状態で、食っちゃ寝る飲んじゃ寝るの繰り返し。たまに犬の散歩に出かけたことと、市内に買い物に出かけたぐらいで、大したこともせずにゴロゴロとしていた結果、史上最高体重は目下天井知らずの鰻登り状態に。嗚呼、昨今の景気動向もこれぐらいの勢いがあればいいのに…。

さて、気分も新たに今年の抱負なんぞを述べてみたいと思うのだが、何せ未だ昨年の出来事を引きずっているので、正直年を越したという気分もないし、新年を迎えたという気分もあまりない。
ただ、何の目標もないままに日々をダラダラと過ごすのは、あまりにももったいない。というわけで、今年はまずメンタル・フィジカル両面から「普段の自分を取り戻す」ことを目標にしてみたいと思う(笑)。
年末年始の暴飲暴食は、自分の肉体をかなり酷使したはずだ。約2年後に東北新幹線が全線開業した直後に不惑の年代に突入する僕としては、これから本当に体調管理に留意していかなければならないのだと思う。もちろん体重も落とさなければならないだろうし、基礎体力の回復にも努めなければならない。ただ、ここで体重何キロまで、というとそれに達した時点でリバウンドしてしまいそうな気がするので、徐々に減量していこうと考えている(って、何だかアスリートみたいだな)。
一方メンタルな面では、時々僕はとてつもなく感情的になり、他人に対してもの凄く冷酷な素振りを見せることがあるらしく、知らぬ間にいろんな人を傷つけているようだ。
何気ない一言で救われる人がいれば、何気ない一言で突き放される人もいる。そのことを肝に銘じて、言動にはくれぐれも注意したいと思うし、メンタルな部分をコントロールしながら、あまり感情的にならないように過ごしていきたい。これは多分、亡き父を反面教師として見てきた僕への課題の一つなのだろう。

それから、これまでやり残していること、積み残しになったまま放置していたものを、一つでも多く整理していくこと。これは妹にもよく言われていることなのだが、どうも熱しやすく冷めやすい性格が災いし、いろんなものが中途半端のままで終わっている。今年はそういう中途半端になっているものを整理していこうと思う。って、これだけだと何のことやらサッパリわからないが、まあ、言ってみれば身辺整理みたいなものだろうか。

そして、これらに付随する最後の目標が、自己研鑽に努めること。本を読む割合がもの凄く減っているし、学習機会が激変している。というかこれは自分の意識さえ変えれば何とでもなるわけであり、前述のことはすべてこれに繋がるといってもいいだろう。
まあ、あれやこれやと欲張っても全てが叶うわけはない。

質素、謙虚、堅実。

今年はこれで行きます。