月別アーカイブ: 2015年9月

自分を鼓舞するための、言葉

NHKで放映されている「プロフェッショナル 仕事の流儀」が好きでよく観ています。そこに登場した方々の珠玉の言葉を1冊にまとめた本が、これまで4冊発刊されています。そのうち、最新刊を除く3冊を先週図書館から借りて読んでいます。この中(といっても3冊ではなく2冊)からプロフェッショナルの言葉をいくつかピックアップ、自分への励ましの言葉として整理しました。(自分への励まし、というところがミソです。)

読みながら、頭の中ではすっかりあの音楽と、ジングルと、そしてナレーションが響いていました。
目次に書かれている言葉を拾うだけでも、充分読み応えがあります。
巻頭には、「気になった言葉から読み進めてください」みたいなことが書かれてありました。が、順を追って読まずにはいられませんでした。

どの言葉も、ものすごくズシンと、胸に、心に、そしてお腹に響くものばかりでした。言葉を越えた…いや、言霊といってもいいかも知れないです。そしてその中から、ジャンルも世代も異なる二人の方がお話ししていた言葉を、一つのセンテンスとして自分用にチョイスし、まとめてみました。というか、偶然にもうまくまとまりました。
今の僕にはこれぐらいのハッパが必要。思い切りポジティヴになってやろうじゃないの、やってやろうじゃないの、と。

・人は変えられないが、自分は変えられる。人を変えたいのなら、まず、自分が変わることだ。

前述のとおりこの言葉、前者と後者それぞれ違う方がおっしゃっていた言葉なんですが、何という偶然でしょう。一見すると二律背反のように思えますが、裏を返せばそれは、自分が変わらなければ人も変わらない、ということなのだろうと思います。

・何ごとかをなし遂げるのは、強みによってである。できることは、あきらめないこと。

強くなりたいと思います。その思いの先にあるのは、何かを成し遂げたいという願いがあるからです。でも、それができるかどうかは自分にかかっています。まさに今の自分が求めている言葉。慌てず、焦らず、あきらめない。その先には、きっと成就が待っているはずです。後半の言葉だけでも、ズシンと響きました。

・しんどいなあと思うけど、勉強と努力をやめた瞬間、終わるだけ。静かに、終わるだけ。なんとかなるよ。

前の言葉からも繋がってきますが、勉強や努力をやめた瞬間、つまりあきらめた瞬間、終わるんです。そしてそれは、これまでの努力を水泡に帰することになるわけです。しんどいなあ、辛いなあと思っても、やめなければなんとかなるものなのです。そう、なんとかなる、きっと。

・人生はやるか、やらないしかない。一番大事なことは、腹をくくっていること。

やるというのも覚悟。やらないというのも覚悟。自分自身腹をくくっていると思っていても、実は全然腹をくくれていなかったことが、これまで何度も何度もありました。つまり、覚悟していないんですね。生きていくのも覚悟が必要です。

・何ができるかより、ほんとうにやりたいことは何か。苦労、困難をして得られたものにこそ価値がある。

自分の手の届く範囲でしかない「できること」だけをやっているようでは、そこから成長はありません。ほんとうにやりたいことがあるならば、苦労も困難も厭わない。あるいは、ちょっとした苦労、ちょっとした困難の積み重ねにより、劇的な化学反応が生まれ、それが価値を見出すかも知れません。
今の地位や場所に安住して楽をするんじゃなく、苦労や困難を経験することによって、人間は進化を遂げるのでしょうね。

Prince の新作「HITNRUN Phase One」と関連情報

電車に乗って青森に通勤している途中、目の前に立っていたちょっと可愛めなJKと目が合いまして、彼女がニコニコしながら何かを訴えたそうな顔をしているので、「お!ひょっとして俺もモテ期突入か?」と思って気取っていたら、股間のファスナーが全開になっていることに気づきました。
モテ期から一転氷河期突入。ホント穴があったら入りたかったです。

 

さて、生涯モテ期を驀進中、我らが愛しのプリンス御大。

昨年10月、4年ぶりに本人名義の「ART OFFICIAL AGE」(以下「AOA」と表示)とPrince & 3RDEYEGIRL名義の「PLECTRUMELECTRUM」という2作を同時発売し、その後もこまめに活動を続けていたんですが、突如「HITNRUN Phase One」なる新作を発表してしまいました。しかし、TIDALという、音楽プロデューサーのJay-Zが買収した定額制音楽配信サービスからの発表。
散々インターネットにダメ出ししていながら、結局また配信サービスを利用するだけじゃなく、よくみたら現在は入手困難な過去のnpgmc音源までアップされているし…。(KIDさん情報頂きました。ありがとうございました。)

最後の来日から既に10年以上経過しており、その間もいろんなアーティストが日本に出稼ぎに来ておりましたが、彼の場合はどうやらギャラが桁外れで招聘が難しい、というのが実情なんですかね。そこまで毛嫌いしなくてもいいのに、とか思ってしまうんですけど。

さて、そんなワケで日本ではまだ触りしか試聴しかできないはずの新作「HITNRUN Phase One」なんですが、そこはほらワタクシ、前回の来日を契機に知り合った全国のプリンス仲間に恵まれていることもありまして、あれがアレしてこうなって、ひとまず全曲通して試聴することができました。

収録曲は以下のとおり。
1.”Million $ Show”
2. “Shut This Down”
3. “Ain’t About to Stop”
4. “Like a Mack”
5. “This Could B Us”
6. “Fallinlove2night”
7. “X’s Face”
8. “Hardrocklover”
9. “Mr. Nelson”
10. “1000 X’s & O’s”
11. “June”

ジャケットを見た時点で、「これってAOAのパロディ作品かいな」と思ってしまったのですが、結論から言いますと、結局のところこれって前2作のアウトテイク集なの?みたいな感じ。1曲目は、デビュー作の配信を巡って大手レコード会社と揉めることとなったJudith Hillをフィーチャー。この他にもゲストアーティスト(それも若いオネエちゃんばかり)が参加していて、また何か企んでいるのかしら、と詮索してしまいます。既発の曲のリミックスとか、あれー?この音聴いたことあるなー…っていうツッコミどころが満載で、それはそれで楽しいと言いましょうか何と言いましょうか…ハイ。

Prince Inks Exclusive Deal With TIDAL To Release Much Anticipated New Album, HITNRUN. Release Date Set For September 7th, 2015 (PRNewsFoto/TIDAL)

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(ちなみに上がHITNRUN Phase Oneのジャケット、下がAOAのジャケット)

直近の彼の作品って今ひとつしっくり入ってこないというか、いい曲と捨て曲がハッキリ分かれているというか、そんな印象を勝手に抱いておりまして、正直申し上げると新作が急に発表されるといわれてもあまり期待は持てなかったワケです。
その予想は今のところ当たっておりまして、正味40分弱、ほぼ切れ目のない11曲が、まるでBGMのように流れていきました。まあ、これから聴き込んでいけば「いいじゃん」ってなるのかも知れませんが、「いいじゃん」ってなる前に飽きが来そうな感じ(笑)。例えていうならば、やっつけ仕事で発売した「The Vault」とか「Chaos and Disorder」みたいな印象。(しかしあちらの方が捨て曲は少ない、と思う。)

多分、EDMの流れを汲むことによって、ファンクでもロックでもない、「中性」音楽みたいな仕上がりになっているのが、しっくりこない一番の理由なのかも。(EDMを否定するつもりは毛頭ありませんので念のため。)

もっとも、そもそも何でこのタイミングで発表したの?というのが一番の疑問なんですけど、何かあるんでしたっけ?

まあ、そのうちCDでの発売も予定されているみたいなので、何だかんだ言いながらも取りあえず入手はしておきたいな、と思うところ。更に、噂では「Phase Two」が近々発表されるとの情報もありますが、Phase Twoとなりますと「Phase One」から更に漏れたセカンド・アウトテイク集みたいな感じで、一体どんな作品なんだろう、という興味があります。しかし、こちらもきっと予定通り噂の域を越えることなく立ち消えするんでしょうな。

一方国内に目を転じますと、何と「プリンス論」なる新書が発売されます。著者は「ノナ・リーヴス」のシンガーで音楽プロデューサーなども務める西寺郷太氏。プリンスのデビューから直近に至るまでを6つの章に分類し、240ページにわたって分析を行うという内容。
もう、好きな人にはたまらなくて、興味ない人には「何のこっちゃ?」という書籍になること間違いなし!
是非貴方の本棚に一冊飾ってくださいまし。17日発売。

そして、「WOWOWぷらすと」では、14日の19時30分から、その西寺さんがMCを務め、出版記念の番組を生配信。ゲストに吉岡正晴さんを迎えて、「プリンス論」にまつわる「プリンス論」が展開されるようです。
ちなみにここだけの話ですが、私のお友達もシークレットゲストで登場するらしいです。(お友達、というのは図々しくもあり、おこがましい気もするのですが…。)

WOWOWプラスト

というわけで、にわかに彼の周辺がまた騒がしくなっておりますが、これから一体どういう方向に進んでいくことやら。ファンはここしばらくまた目が離せなくなりましたな。

自死遺族として生きるということ

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今日のタイトルの内容は、知っている人は知っている話。
僕自身このことを隠しているつもりはないし、これから先も隠し通そうなんて思っていない。ただ、こういうことというのはなかなか口外するのが難しく、そのことがまた変に同情を誘っているのではないか、と思われるのもイヤで、なるべく文字や言葉にするのを避けてきた。また、逆に周囲の人は気遣って、腫れ物に触らないようこの話題から避けていた、ということもあったのかも知れない。
少なくとも、「オレさ、自死遺族なんだよ。へへへ~。」なんて明るく振る舞う人なんてどこにもいないはずだ。

でも、社会問題として「自殺」が取り上げられている中、何年経ったところで自死遺族は密かに苦しんでいるんだ、ということは知っていただきたく、あれから7年という年月が過ぎ、敢えて今日はそのネタを取り上げることにした。

ただ、このネタを取り上げるに当たって、自分自身相当のエネルギーを浪費し、また、推敲を重ねるうちにかなり疲弊していたことだけは申し上げておきたいと思う。

導入部として、父との別れについて触れなければならないだろう。これまでほとんど口外してこなかったこのことを、7年経った今だからこそ、改めて振り返り、そして思い返してみたい。

【前兆・予兆】
父は現職の市議会議員だった。市内をかけずり回り、色んな会合に出席し、開催される議会や委員会では、ほぼ毎回質問をしていた。その過程にあって、質問案を作成するときに、僕に意見を求めてくることも結構あった。父と僕との間には(議員と理事者側という)直接的な利害関係はなかったが、そういう形で少しでも頼られていることに、ちょっとした嬉しさも感じていた。
ところが5月あたりから、「今回は質問しないわ。」と言うようになった。まあ、質問するネタが尽きたのか、あるいは市政が健全に運営されているのか、大して気にはしていなかったのだが、今思えば、あれが予兆の一つだった。
そしてこの頃から、家にいる頻度が徐々に増え始めた。普段は会合などで家を空ける機会が多かった(というかほとんど家にいなかった)のに、土日になると家でゴロゴロする機会が多くなった。そしてそれは、「父がいない」ことに慣れていた我々からすると、ちょっとした「厄介者」「邪魔者」みたいな扱いに変わっていった。結婚式の案内状が届いても、「今日は調子が悪い。」といって出席せず、会費だけを僕に持たせて届けるという有様。そういうことも、徐々に増えていった。
さらに、僕が仕事を終えて帰宅すると、既に真っ赤な顔をして独酌でビールを飲み続けている父の姿をしょっちゅう見かけるようになった。500mlのキリンラガーの空き缶が3本。そんな姿に呆れ、父と交わす会話もほとんどなくなり、お互いテレビを観ながら無言でビールを飲み続ける。そういった機会が増えた。
…やがて、父が自宅にいるということ自体が鬱陶しいとまで思えるようになった。

だが、あとで聞いた話では、これが「鬱」の症状なのだということだった。
日々同じ屋根の下で生活している過程において、この変化が「鬱」の症状だということは、当然我々家族の頭の中にはなかった。

【更なる変化】
その後、父が出歩くのは、せいぜい父が仲良くしていたAさんからお誘いを受ける時ぐらいになってしまった。そして、Aさんからお誘いを受けて出かけた夜は、父は帰宅せずにAさんの家に宿泊する、ということがしばしばあった。もっともそれは、その予兆が始まる前から続いていたことなのでさほど気にしていなかった。

8月の「弘前ねぷたまつり」が開幕すると父は連日、弘前市役所や町内などあちらこちらのねぷた運行に参加していた。
ところがその年に限っては、町内のねぷた運行にすら参加せず、例のごとく自宅でビールを呷り続ける、という日が数日あった。
「一体何本飲めば気が済むんだよ!」と母とともに声を荒げることも多くなったが、父は相変わらず無言のままだった。

お盆明けのある日、町内の納涼会に珍しく出かけた父。が、自転車で出かけたはずの父が、帰ってこなかった。Aさんのところには行っていない。その日はAさんがいないことを聞いていたからだ。
早朝、父がいないことを告げると、「またいつものことなんじゃないの?」と誰も気に留めなかったが、自転車がないことに、イヤな予感が走った。たまたま休みだったこともあり、自転車(というか父)を探しに車で奔走した。結局自転車はあるところに停めてあるのが見つかった。そしてしばらくすると、いつも以上に真っ赤な顔をした父が帰宅。家族と会話をすることもなく、また一人で自室にこもってしまった。
が、この日の出来事で、何か父が良からぬことを考えているのではないか、という不吉な胸騒ぎを覚えることとなった。

【平成20年9月7日・最期の一日】
珍しく父が出かけるという。市内で行われる社会人野球の大会に、大会役員の一人として参加するようお誘いを受けたからだ。父の友人が迎えにやってくることになった。珍しくその日に限って、父のためにおにぎりを握った。それも、母と妻と僕の三人で役割分担を決めて。
そして、我々が握ったおにぎりとペットボトルのお茶を片手に、父は出かけた。

…そしてそれが、僕らが見た父の最期の姿となってしまった。

昼過ぎ、妻と買い物に出かけながら、なぜか平川市尾上にある猿賀神社に立ち寄った。中学校時代以来だったので、四半世紀ぶりぐらいに訪れた。既に蓮の時期は過ぎていたが、一輪だけまるで枯れそびれたような立派な蓮の大輪が、見事に咲いていた。何でこんなところに足が向いたのかはわからなかったが、それも思い返せば「何かの予兆」を察知したからだったのだろうか。

…夕方、父から電話があった。一緒に球場に出かけた方と、飲んでから帰るという。
普段そんな電話なんかしないのに、変なの。…と、誰も気にも留めなかった。

…が、その数時間後、父は自らこの世に別れを告げた。

その頃我々は、特に気に留めることもなく、3人で晩ご飯を食べていた。犬たちも含め、何事もなく静かな夜だった。

【平成20年9月8日・青天の霹靂】
翌朝、またしても父の姿がなかった。またいつものことだろうと気にすることなく出勤。この日は関連団体への定例の検査があったため、職場に到着するやすぐに移動を開始。五所川原市金木へと向かう車に同乗していた。
9時過ぎに、携帯に着信があった。発信者が母であることを知った途端、胸騒ぎというか、僕は何が起きたのかを察知してしまった。
電話に出ると母は、聞いたこともないような嗚咽を漏らしながら、父が亡くなったことを僕に伝えようとしていた。
激しく寄せては返す動揺を必死に隠し、同乗者に「父が亡くなりました。」と伝えた。

「ええっ!?」
僕より動揺する同乗者。しかし、その時点で僕の頭の中は真っ白になっていた。何をどうすればいいのか、完全に動転していた。「どうすればいい?」と聞かれ、「取りあえずタクシーに乗りたい」と告げたが、どこに行けば乗れるのか、全く浮かばない。今思えば最寄り駅に行けばいいだけの話だったが、それすらも思い浮かばなかった。
本来向かうべき方向と異なる方向に進む車。その間僕は、妻や妹、親戚など、思い浮かぶところに片っ端から電話を掛けていた。
結局浪岡駅まで乗せてもらい、そこからタクシーで弘前に急いだ。「とにかく冷静に。オレがしっかりしなければどうする。」そのことばかり考えていた。

父が発見されたところに到着すると、見慣れぬ警察の車両や、なぜか他の方々の車がたくさん停まっていた。既に妻も到着していた。狼狽した母が、警察の事情聴取を受けていた。僕の姿を見るなり、泣き崩れる母。この時ほど母が小さくなったと思ったことはなかった。
母の肩を抱き、悔しさと悲しさとやりきれなさをかみ殺しながらまた思った。
「オレがしっかりしなければどうする。」
動揺を必死で抑え、警察の事情聴取を受けた。
程なく、警察官が「ここじゃあれだから」と、自宅で事情聴取を行いたいという。
そういえば父は、どこに?
間もなく、白いシートを被せられた父が担架に乗せられ、警察の車両に押し込められた。白い靴下の底が、真っ黒に汚れていた。

【なぜ、どうして?】
現職市議の自殺というスキャンダルは、あっという間に弘前市内を駆け巡ったらしい。知り得た情報を口外してはならないはずの立場の人が守秘義務違反を犯し、そしてその情報をあちらこちらに漏洩した関係者がいたことも知っている。更に、その情報を嗅ぎつけたスピーカーが、弘前市内全域に喧伝したような勢いだった。
無言の父と帰宅。そして、ようやくその姿と初めて対面した。まだ赤ら顔をした父は眉間に皺を寄せ、ちょっと難しそうな顔をしていた。

…なぜだ。どうして。悲しみより怒りがこみ上げて仕方がなかった。

義母がやって来た。妻と僕は、義母から「お前たち、何やってるの!何でこうなったの!」と激しく叱責された。
その直後に、情報が錯綜し、こちらが混乱していることなどお構いなしで、マスコミからの取材攻勢が始まった。電話はもちろん、直接訪問してくるマスコミ関係者、更にはどさくさに紛れて家に上がり込もうとするとんでもない輩もいた。
挙げ句の果てに、遠巻きに家の外で待機しながら、話を聞きつけて家にやってきた人の帰りを狙って、何が起きたか話を聞いているマスコミ関係者の姿もあった。
こちらはそれどころではないのに、マスコミってホントにハイエナみたいな連中だな、と思った。
そして、無神経で非常識なマスコミの連中が、心底大嫌いになった。(このことから、未だにマスコミ不信は拭えていない。)

僕の仲間が自宅にやって来た。彼が父の訃報をどこからリークしていたのかは知っていた。がしかし、思わず「どこからこの情報を聞いたんだ?」と詰め寄った。彼は口をつぐみ、お茶を濁した。

多分、この時ほど弘前という街全体を憎み、嫌悪感を抱いたことはなかっただろう。弘前ってこんなにイヤなところだったっけ、と疑心暗鬼を抱かざるを得なかった。
続々と情報を聞きつけてやってくる人々。とうとう玄関から靴が溢れた。中には「なぜ?どうして、どうやって発見されたの?誰が発見したの?遺書は?」と、マスコミばりに詰問してくる人もいた。もはや僕には、誰の言うことも信用ならなくなっていた。

昼頃、妹が東京から帰ってきた。妹の顔を見るなり母は激しく泣き崩れ、僕はこういう事態を招いてしまったことに、ただただ謝るしかなかった。

その後、文字通りあっという間に葬儀の段取りがされたが、何が起こったのか咀嚼できぬまま、僕の心の中にはただただ「怒り」ばかりが渦巻いていた。気がついたら、親戚一同が集まっていた。僕は、弔問客(そしてそれは興味本位でやって来た人達も含む)への対応に追われることとなり、その日は、ほとんど眠ることができなかった…。

【怒りから悲しみへ】
喜怒哀楽。
楽しければ喜ばしいし、喜ばしければ楽しい。
哀しければ怒るし、怒ると哀しい。

当時の僕の心境は、この四字熟語が、全てを物語っている。
怒り心頭だった前日から一転、この日はずっと泣いていた。いくら泣いても父が戻ってこないことは百も承知だった。でも、泣くしかなかった。棺に収められた父の顔は幾分穏やかになっていた。客足が途絶えると、棺に向かって無言の会話をしようと試みたが、当然のことながら父は一言も話してくれなかった。

直後に、妻が倒れた。予期せぬ事態に見舞われた結果、過労によるものだったようだ。僕なんかと結婚していなければ、こんな辛い目に遭うこともなかったのに…と本気で思ったし、こういう事態を招く一端となった自分を責めた。この時ばかりはただただ、妻に申し訳ないことをしたと思った。

総じて見るとこの間、僕はずっと自分自身を責めていたような気がする。もっともその自責の念は、今も完全に払拭されたというわけではない。

【父が遺してくれたもの】
その後、皆さんの力を借りながら、滞りなく全ての物事が執り行われ、弘前はまるで何事もなかったかのように普段の落ち着きを取り戻した。…いや、我々だけが嵐のような日々を過ごしたというだけのことで、弘前は別に何も変わっていなかったのだ。

結局、父からのメッセージ(遺書)は見つからなかった。元々我々に対しては無口な人だったので、何も言わなくても何でこうなったのか、お前らならきっとわかるよな、という謎かけをされたような気分だった。
ただ、こういう時には一人では何もできないということを痛感したし、父が持っていた幅広い人脈が、本当にありがたいと思った。
そしてこの人脈こそが我々家族に対する父からの遺産であり、今でもその遺産を大切にしている。

人の噂も七十五日とはいうが、あっという間に我が家の周囲も静寂を取り戻した。
しかしながら、しばらくは元のペースに戻ることができず、仏壇の前に座っては父に語りかける日が増えた。
ある人によると、僕の様子をちゃんと見た方がいい、と助言をした人がいたらしい。つまり、父の後を追って逝ってしまうのではないか、という懸念があったようだ。残念ながら僕には、そんな決断をする勇気なんてないし、そもそも微塵たりともそんなことを考えたことはなかった。

あれから7年という月日が流れた。
これまで明らかにしていなかったことも含めてあの前後に何が起こったのかを、長々と綴ってみた。もちろんこれで全てではないし、ここには書き切れないこと、書けないこともあるということをご了承いただきたい。

そしてここからが、是非皆さんに知っていただきたいことである。

【自死遺族として、生きるということ】
僕にとって一番辛い質問が、「お父さんの後を継いで選挙に出るんですか?」ということだった。
父がなぜ自ら命を絶つに至ったのかは、7年経った今となっても知る由がない。しかしながら、議員であり続けることへのプレッシャーがあったことは、傍で見ていて何となくわかっていた。
直接的な引き金ではないにせよ、既に7年も経ってしまった中で、今更父の後継として選挙に立つわけもなく、そのつもりもない。大体にしてそういうところに身を置く気になれないのだ。

なので、僕に対してこの質問は「愚問」であり、実は一番聞きたくない質問だったということを今だから明かそう。…ただ、亡くなった直後は出るべきなのだろうか、とマジメに考えたことがあったことは事実だ。

実は、父が亡くなった直後に「父の意志を継いで頑張りたいと思います」…としたり顔で公言した議員が何人かいたことを僕は知っている。他人の不幸でさえも自分の票に変えようというそのイヤらしさに、ほとほと議員という仕事に嫌気が差した、というのが正直なところだ。
その方々とは不幸中の幸いで直接対峙しなかったが、一度お目にかかった暁には、是非とも「あの時貴方が語っていた父の遺志って何ですか?」と詰問したいと本気で考えていた。

意外と何でもないような些細なことで、実は結構傷ついているものなのだ。

【他人事と思うことなかれ】
皆さんの周囲で、塞ぎ込んでいる人、あるいはそういう兆候が見え隠れしている人はいないだろうか。アクティブに活動していた人が徐々に出不精になったり、おしゃべりだった人が、何も話さなくなったり。

ちょっとした変化にいち早く気づいてあげること、そして場合によっては心療内科などでの診察を受けさせること。近くにいる人ほど、些細な変化には気づかないものだ。だから、周囲にいる人達がそういった変化に気づいたときは、言いづらいことでも教えてあげた方がいい。少なくとも僕の周りでは、父の変化に気づいていた人が何人かいたけれど、誰もその変化を教えてはくれなかった。後になってから「実は…」という話で聞いた。「実は…」となっては、遅すぎるのだ。

気づいた時には、もはや手の付け所がなかった、ということにならないように。

若年層の自殺の記事を目にするたびに、なぜ遺族の心情も考えず周囲に対する過剰な取材をするのだろうか、と思う。いじめが原因となれば犯人探し、生活困窮者が自殺をすれば社会が悪いと煽り、叩く。
正直、そっとしておいて欲しいと思っているはずだ。だから僕も、ほとぼりが冷めるまでしばらく家から出なかった。仕事場では平静を装っていたが、内心はずっと後ろ指を指されているのではないかと怯えていた。母は、買い物に行くことすら嫌がった。自死遺族として人目に晒されるということは、本人たちにしてみれば神経をすり減らすということなのだ。裏を返せば、自死遺族であるということを、周囲が思っている以上に当の本人が気にしていることの現れなのだろう。

自殺者の数が昨年と比べて何人減ったとか、そういうのはハッキリ言ってどうでもいい。
かといって、そうならないように対策を講じるって凄く難しい。そもそも、そういうことを考え始めた人を思いとどまらせるのは、実はとても難しいことだと、僕は思っている。例えは悪いが僕は、父が「死に神に取り憑かれた」と思い込んでいた。
いくら思いとどまらせようとしたって、やってしまう人はやってしまうのだ。

これからも一緒に生きていくために、相手の言葉に耳を傾けよう。目を見てあげよう。

【死ぬな。死ぬことを考えるな。】
人それぞれ「死」に対する考え方は異なる。そして「死」と向き合うことって、とても難しいことだと思う。
今年の5月、義父がガンのために約5年半の闘病を経て他界した。晩年というか、「もうダメかも知れない」と聞かされて1か月もしないうちにあっという間に衰弱し、この世を去ってしまったのだけど、死を受け入れる準備はしっかりできていたらしい。だが、これは闘病生活を経てのことであり、自死とは全く異なる。

人間誰しも塞ぎ込んだとき(そしてそれは八方塞がりで逃げ道がないとき)、「死」を意識せざるを得ない状況に陥ることもあるかも知れない。だが、その暗闇の中でピンホールを見つけ、そこから「生きていく術」を見つけることが非常に大事なことだと思う。

死ぬ勇気を振り絞るぐらいなら、生きる勇気を振り絞ろう。
死ぬことを考えるのではなく、生きることを考えよう。

【変わらず普段どおりが一番いい】
僕は別に自死遺族を代表してメッセンジャーになる気はないし、所詮こんな内容は関係ない人にとって何の関係もないことだろう。だから、果たして今日のこの投稿が何の意味があるのかは、正直僕にもよくわからない。

ただ、実は自死遺族はこういう苦しみを抱えていることを知っていただきたいと思っただけのことだ。

何だかんだ言って、自死遺族が一番強く願っていることは、多分こういうことなんじゃないかな。

故人が亡くなる前と同じように、普通に接して欲しい。

7年経った今、改めて父の遺した様々な足跡に触れ、その偉大さを噛みしめている。
そして生前父がお世話になった人達に対して、きちんと御礼をしなければならないところ、それすらもまともにできていなかった無礼を詫びなければならないと思っている。

こうやって当時のことを冷静に振り返ることができるようになっただけでも、僕の心の傷は少し癒えたらしい。
僕の中で父は、今もしっかりと生きている。
自死遺族であることにこれから先も変わりはないが、素晴らしい父親に恵まれたことを愚息として誇りに思いながら、これからも父とともに生き続けて行こうと思う。

北海道の魔物に返り討ちに遭う、の巻 -2015北海道マラソン-

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ジャパンツアー2015夏 ~北の国から
最後の夏の思い出は、北海道で。
人生2度目となった昨年8月の北海道マラソンでは、現時点でのワースト記録を打ち立てました(4時間のペースセッターを務めた弘前・白神アップルマラソンを除く)。

8月下旬とはいえ、北海道は侮れない暑さです。
今年は、昨年のリベンジとばかりに色々対策を講じました。ちなみに昨年のタイムは3時間49分。今年の目標は、(1)最低でもそのタイムを上回ること。(2)更に、3時間30分台でゴールすること。(3)あわよくば、3時間30分を切るタイムでゴールすること。
まあ、言うまでもなく最大の目標は(3)だったワケですが。
暑さ慣れするために、練習を色々アレンジしてみました。27~28度まで気温が上がっている中を敢えて走ってみたり。雨の降る中を走ってみたり。7月の月間走行距離は208キロ、8月は大会前日までで220キロを超えていました。走り込みの足りなかった昨年とは雲泥の差があります。とはいえ、痛めてしまった脚は急に良くなるはずがありませんから、極力疲労を残さないようにしながら、試行錯誤を続けました。

昨年に続いて2度目の北海道マラソン。人生で6度目のフルマラソン。
結論から言うと、「それでもダメなものは、ダメ。」

8月29日から北海道入りし、1年ぶりとなる札幌の街を闊歩。
仲間とともに受付を済ませ、やったるで!と気合いも充分。あとは明日しっかり走りきれば、自ずと結果はついてくるはず。
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(青森空港から一緒だったラン仲間の皆さんと。)

その後ホテルでチェックインを済ませ、明日の準備とばかりにゼッケンナンバーやタグをウェアとシューズに取り付け。なるべく身体を動かさないぞ、とボーッとベッドの上で横になっていました。
夕方からは、今回のもう一つの目的であった中学~高校時代からの畏友の店で、パスタを堪能。

その後ランニング仲間と合流してジンギスカンも堪能し、楽しく前夜を過ごしました。昨年と違って、過度の緊張感はほとんどありませんでした。
ホテルに戻ったのが22時頃で、23時前には就寝、翌朝4時30分まで爆睡。

8月30日。起床してから少し熱めのシャワーを浴び、朝食開始。以下、スタート直前まで口に運んだもの。
おにぎり一つと切り餅7個と納豆2パック、調整豆乳200ml、OS-1のゼリーを1本。

8時15分に昨年と同じ場所に集合、弘前公園ランニングクラブと仲間たちが合同で記念撮影。
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(この後、なぜか海外のオッサンランナーが乱入し、一緒に撮影しました。)

昨年同様今回もCブロックからのスタートとなりましたが、建物と建物の狭間での待機となったため、時折吹く空気が冷たく感じられます。とはいえ、気温はジワリジワリと上昇し、スタート直前の時点では21度を超えていました。まあ、それでも昨年の22度に比べたらまだ若干涼しいかな…。

昨年はスタート直後の渋滞に巻き込まれ、5キロ通過まで28分を要したという苦い経験から、今年は10キロまでの給水をぶっ飛ばすことに。代わりに手には経口補水液のゼリーを握りしめ、ポケットには様々な補給アイテムをぶち込み、ゼッケンの裏にはサプリメントをホチキス留めしてぶら下げていました。

大通公園にあるテレビ塔の電光掲示板がカウントダウンを始め、いよいよ午前9時、スタートの号砲が鳴らされました。同じCブロックだった仲間数名とゆっくりスタート。スタートラインを踏むまでの時間が約1分ということで、昨年ほどストレスを感じることなく、順調に前に進んでいます。程なく仲間もバラバラになり、ひとまず先行する仲間の背中を追いましたが、その背中も間もなく見えなくなりました。

あっという間に3キロを通過、ほぼ順調な脚運び。両足首の痛みもあまり感じません。
昨年1度走ったコースということで、脳が大体の位置関係、コースを覚えていました。これだけでもかなり気分が違うものです。
5キロの通過タイムが25分30秒。まずまずといった感じです。じわりと暑さがあるものの、風が心地よく感じられました。やがて2度の右折を繰り返し、南下したコースから今度は北上を開始、緩い坂道を登り切ると、今度はしばらく緩い下りが始まります。
給水2か所をスルーしながら細かな右折左折を繰り返し、8キロを通過、程なく創成トンネルへ。そうそう、昨日パスタを食べた畏友の店はこの近くだったね…なんてことを思い浮かべながら走っていると、この時点で手持ちのゼリーが空っぽになりました。トンネル内で一旦クールダウンしながら、ペースと歩調を整えます。ほぼキロ4分40秒前後で進みながら、創成トンネルを抜けると、再び暑さが。後で聞いたところでは、僕のすぐ背後を仲間が走っていたらしく、僕の発汗量は相当だったようです。ということで、この日のために用意した秘密兵器、経口補水液粉末カプセルの登場!じゃーん!!

…あれ?ない。ないぞ?走りながらあちこちまさぐりますが、カプセルを入れていた袋がありません。どうやら、塩飴を取るときに落としてしまったらしい。ガーン…

しかしこんなことで気落ちしてはどうしようもない。大体にして、まだ10キロも走っていないのであります。気を取り直し、代用のゼリーを1本投入。前回は32キロを過ぎた辺りから、暑さとハンガーノックにやられました。そうならないように、先手を打ったというわけです。
その後も、周囲の声援にほとんど愛想を振りまくこともなく、淡々と走り続けます。ほぼ4分40秒前後のペースをキープし続けています。何かいい感じです。やがて15キロを過ぎ、「新川」の文字が見え始めました。北海道マラソンの最大の難所といわれる、新川通が近づいているサインです。
なぜ新川通が最大の難所といわれているかというと、片道約6.5キロのほぼ直線のコース、声援もあまりなく、景色もほとんど変わらない中、淡々と走り続けなければならないから。精神力が試される、といわれていますが、昨年は25キロで折り返してからちょっとペースを上げた結果、32キロ以降の大失速に繋がりました。

そしていよいよ新川通にさしかかった時に、背中を後押ししていた追い風が少し強くなっていることに気がつきました。

追い風も 逆を向けば 向かい風

前日、札幌市内で南東の風が少し強く吹いていたことが気にはなっていましたが、どうやらこの日もその状況は変わらないようで。これはちょっとやばいなあ、と思いながら、なおも淡々と歩を進めます。

ちなみに、個人的にはこの新川通、さほど苦しいとは感じません。紅白の鉄塔や白い橋脚など、目印にするものはそれなりにありますし、何よりもランナーが大勢いますから、それを見ているだけでも飽きないのであります。むしろ、この新川通を抜けた32キロ以降が怖いわけでして、ハイ。
20キロ付近で取ったコップの水が、思い切り左脚にかかりました。シューズの中がまたチャポチャポと音を立て始めます。
気にすればキリがないと思い、意識をそこに向けないようにしました。先頭を走るランナーが反対方向から走ってきます。後続のランナーも、続々とやってきます。27キロ付近を駆け抜けているのは、並々ならぬ決意で走る同じクラブのKくん。まっすぐ正面を見据え、こちらにはまるで気づきません。といいつつこの日は、誰をどこで追い抜き、誰にどこで抜かれたのかはほとんどわかりませんでした。強いて挙げるならば、3キロぐらいでYさんと今日のレース展開について話したことと、新川通を走っているときに、先行で折り返し、辛そうに走っているSさんの姿を見かけたのと、同じく反対車線を走るTキャプテンと手を挙げて呼応したこと、37キロぐらいでS先生に追い抜かれ、声を掛けられたこと。これぐらいでした。

25キロを過ぎ、折り返し地点を通過。ふと気がついたら、足のチャポチャポ音は消えていました。走っているうちに乾いたようです。しかし、札幌市内に身体を向けた途端、やはり若干強い向かい風が身体を押し返そうとします。風除けとなるランナーがいないか探しながら走りますが、手頃なランナーを見つけることもできぬまま、淡々と走り続けます。
28キロ付近でしょうか、Sさん母娘が弘前公園ランニングクラブの幟を手に応援していました。不思議なもので、あの応援一つで本当に力が入るんですね。一瞬ではありましたが、落ちかけていたペースが再び回復。しかしそう思ったのも束の間、新川通を走り終え、32キロを過ぎた辺りから、キロ5分台にペースが落ち始めました。33キロ通過。ああ、そういえば前回はこの辺で足裏が痛くなり、完全に気力が萎えて歩き始めたんだな…ふと昨年のイヤな思い出が蘇ります。
…あれ?Sさんだ。僕が折り返す前に先行していたSさん。その走り方を見て、明らかに何か異変があったんだろうな、と思いましたが、34キロ付近でとうとうその背中を捉えました。

「もう少し!頑張って!」「はい、ありがとうございます!」

Sさんの前に出るときに、こちらが応援しなければならないのに、なぜか声援を受ける始末。
しかし、いよいよこの辺りでかなり脚がいうことを聞かなくなってきました。35キロの給水でとうとう歩きながら水を受け取り、何杯も水を飲み干し、脚にも水をかけます。
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(35キロ付近。この後の給水で脚が止まりました。完全に失速です。)

しかし、ここで腐っては昨年と一緒、元も子もないと再び走り始め、何とか37キロ通過。残り5キロということで思わず時計に目をやってしまいました。まだ2時間57分。このままのペースで耐えきれば、3時間30分を切れるかも知れない!ふと、3時間20分台でゴールする姿を思い浮かべます。

…嗚呼、僕はまたしても色気を出してしまったのであります!

やがて38キロ手前で、とうとう脚がいうことを聞かなくなり、歩き始めてしまいました。くそー、ここまで我慢すればもう少しなのに…。脚が動かないのは、脳が楽をしたがっているから。必死に脳のスイッチを切り替えるべく、無心になろうとするのですが、呼吸も荒くなり、頭がボーッとしています。程なく後ろからヒタヒタと迫ってきた(というかスタート時には先行していたはずの)S先生に声を掛けられ先行を許しますが、追随する元気というか脚がありません。走っては歩き、走っては歩きの繰り返し。まあ、ここからの4キロが長いこと長いこと。
北大キャンパスに入ってからも、歩いて走って、また歩いて。「弘前公園、頑張って!」と声援を受けますが、それに応える余力もなし。

そして40キロを通過した時点で3時間20分。この時点で、手中からサブ3.5がスルリと逃げたことを確信しました。
頭がボーッとしています。何だか足許も覚束ない感じ。まあでも、最後まで諦めたらダメだよね、ということで、せめて人生初のフルマラソンのタイム(3時間34分50秒)はクリアしようと、ひたすら歩を進めます。歩いて、走って、また歩いて、走って。
残り約1キロ、北海道庁赤レンガ庁舎前。選手の応援に回っていた川内優輝選手(…だと思っていたら、川内選手はパースマラソンに出場中で、どうやらそっくり芸人だったらしい。爆笑)とハイタッチ。これでまた元気が少しだけ出ましたが、ここからがまだ長いんだわ。

それなりに走り込んで脚を作ったつもりでいましたが、まだまだ中身が備わっていませんでしたね。
道庁を抜けた後は遅いなりにも取りあえず走り続け、最後はペースを上げることなくゆっくりと手を広げてゴール。

記録は、3時間33分29秒。

悔しいんだけど、これが今の実力なんだなあ、と妙に納得してしまう自分がそこにはいました。涙の一つも出てきません。
程なく、後ろから同じクラブの仲間が一人二人とゴール。なんと、虎視眈々と記録を狙っていたみんなが、ほぼ同じぐらいのゴールタイムだったんです。
笑いながら「あれえ?お疲れさま!」と声を掛け合います。
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(笑っていますがサブ3.5を逃した悔しさがじわじわと。)

完走証を受け取ると、先にゴールしていたメンバーも含め、仲間数名が集まっていました。
しかし、その表情に笑顔はありませんでした。その場に居合わせた仲間全員がこう思っていたはず。

「いやあ、やっちまったわ!」
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(ニコニコしている前の二人は結果を出し、あとのメンバーは全員撃沈。)

2015年の道マラ挑戦が終わりました。目標にあと一歩届かず。まあ、終わってしまったものは仕方がありません。
悔しさをかみ殺しつつ、お互いの健闘をたたえ合いながらレースを振り返ります。暑かった?いや、昨年に比べれば全然楽だったんです。でも、このコースを攻めることの難しさに、またしてもやられた!というまさに「撃沈」の心境が、みんなの胸に去来していたはずです。悔しさをひた隠し、安堵の表情を浮かべつつ、「自分だけじゃなくて、みんな辛かったんだよね。今日はみんな撃沈だったんだね。」と、こうなると完全に傷の舐め合いですな。

もっとも、この過酷な状況下にあっても自己ベストを更新するなど、しっかりと結果を出した仲間もいたわけで、たまたま3時間切りを目指して走った数名と3時間30分を切れずにゴールした数名が、「失敗ラン」だったというだけの話。
いや、失敗だったわけじゃないんですよね。それぞれに皆さん練習もしっかりしたし、脚も作った。でも、そうなるべくしてなった、何らかの「理由」や「原因」があるわけですよ。
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僕の場合は走り込み、特に30キロ走をもっと増やしておくべきでした。35キロまで耐えたけど、そこから脚が出なくなったということは、ペース配分もちょっと誤ったのかも知れません。でも恐らく、前半であれぐらい突っ込まなければこの結果には多分繋がらなかったことでしょう。これにスピードの上乗せができるようになれば完璧ですが、そんなに上手くいくはずがなく。

それでも、昨年のタイムより15分縮まったということ、そしてこの時期にこれぐらいのタイムを出すことができたということは、まだ可能性が残っているということなのでしょうか。
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(前半で少し突っ込み過ぎたかな。走る上では苦にならなかったんだけど。)

9月以降も大会は続きますが、次に繋げられるよう、まずはしっかりフォローとケアをしていきたいと思います。
夏の北海道には魔物が棲んでいます。次回は魔除け持参で臨みます。…さて、その魔除けはどこで手に入るかな?

最後に。走りながら口に放り込んだもの一覧
・スタート~8キロ OS-1ゼリー(給水2か所を飛ばすため)
・10キロ メダリスト エナジージェル りんご
・12キロ 塩熱サプリ
・15キロ MUSASHI Ni
・20キロ パワーバー パワージェル梅
・22キロ 塩熱サプリ
・25キロ Super VAAM 顆粒
・30キロ MUSASHI Ni
・35キロ サバス ピットインエナジージェル 栄養ドリンク風味
・37キロ 塩熱サプリ

少し食べ過ぎました。