Monthly Archives: 9月 2008

蓮の花

ここ1ヶ月ほどの行動を振り返っている時に、ふと思い出したことがあった。
父が亡くなったその日、僕たちはちょっと奇妙な行動を取っている。

妻と外出し、昼食を取った後で、ふと無性に行きたくなった場所があった。

それは、弘前市の隣、平川市にある「猿賀神社」というところだ。

この神社の隣にある池(その名も「鏡ヶ池」)では毎年7月下旬頃になると、蓮の花が綺麗に咲き誇ることで知られている。
僕の方からは「猿賀神社に行こうか」ということを口にしなかったのだが、何故か妻の方から「猿賀神社に行ってみたい」と言い出した。

(何で同じ所に行きたいなんて思ったんだろう)

そんなことを考えながら、車を走らせた。
この神社を訪れるのは、僕自身約25年振りで、妻は初めてだという。25年も前の話なので何があったかも忘れてしまったし、どういう風景だったのかも全く覚えていなかった。

とりあえず本殿に参拝し、その後、隣接する鏡ヶ池へ。ちょうど翌週に大祭が行われるらしく、施設の修繕などが行われていたが、蓮の花はとっくに時期を過ぎ、葉っぱだけがボウボウと伸びきっていた。

そんな中にあって、綺麗に咲く蓮の花を2~3個発見。
携帯のカメラで画像に収めようと思ったが、こんな時に限って電池切れを起こしていた。まあ、それはそれで良かったんだと思う。
もう一度瞼に焼き付けるという意味でも、見頃を迎えた頃にもう一度行かなきゃならないような気もするし。

父が亡くなった直後に、いろいろ相談に乗って下さる方の所にお邪魔をした時、「今日、猿賀様の大祭だよ」と言われて、正直ドキッとした。

そうか、あの時何かに導かれるように猿賀神社に訪れたことは、ここに繋がっていたのか…。

いや、単なる偶然といえば偶然。
でも。何故それまで興味も湧かなかった「蓮の花」を、わざわざ見に行こうと思ったのだろうか。
そう考えると、何となく必然でその場を訪れたような気が、しないわけでもない。

多分、あの日あの時二人で「蓮の花」を見に行ったことに、深い意味があるんだと、今は勝手に思いこんでいる。

故父の功績

仕事に没頭することで、僕自身は大分落ち着きを取り戻してきたが、帰宅するとまだまだ父の死を悼む来客の足は途絶えていないようで、母の疲労も大分蓄積しているのではないかと思っている。今は母の体調がちょっと心配である。

その一方で、かつて同僚で今は退職された方や、高校時代の恩師がわざわざ僕の職場に足を運んで下さった。その気配り心配りには、本当に頭の下がる思いである。皆さん、ありがとう。

今は何を語ろうにも、父のことしか浮かんでこない。生前、一度も褒め称えたことのない父のことを、亡くなってから称賛する僕は、最低の親不孝者なのかも知れない。

父の遺影は、平成11年頃、2度目の市議選の際に撮影した写真を使っている。どういう因果かわからないが、その後の市町村合併により、その写真を撮影した方(当時村議会議員)は市議会議員となり、そして父と同じ会派で行動をともにすることになった。その方には弔辞も拝読頂いたのだが、数ある父の写真の中でも、一番の写真であると家族誰もが思っているし、恐らく父もそう思っていることだろう。あまり感情を表に出さない父であったが、この時の柔和な笑顔を見ると、やはり父の死を現実として受け入れられない自分がいる。

振り返ってみると父の一番の功績は、何と言っても青森県で初めてとなる「日展」の開催に尽力したことだろう。父は以前から「日展を弘前で開催したい」という思いを抱いていたのだが、父と僕の母校である弘前高校創立120周年記念事業として、平成15年にその思いが結実し、日展側も驚くほどの大成功を収めた。

その後、平成18年に日展側から再度開催の打診があり、この時も父は全面的に心血を注いだ。

言い過ぎかも知れないが、父がいなければ、日展の青森県での開催はなかったことだろう。

北海道斜里町と弘前市との友好都市締結の際も、父は陰ながら尽力したらしい。文化交流の一環として始まった「しれとこ斜里ねぷた」では、かつて踊り手もいたらしいが、その踊りの原点は、父の奇妙な動きにあったとか(真偽の程は不明)。

それにしても、家族も仕事も顧みずに他人のために尽力する父は、実に「ムカつく存在」であった。
しかし、父を送る一連のセレモニーで、父を悼み、大勢の老若男女が涙していた事を考えても、僕が言うのもおかしな話だが、本当に「凄い人」だったんだと思う。

昨日、妹が現実に戻るため東京に向かった。
我が家は、母と妻そして僕の3人だけになった。

我々も、これが現実なんだということをしみじみと感じながらも、母の抱える寂しさを思うと、何とも居たたまれない気分になる。
頭の中では理解しているつもりだが、やはり未だ仏壇の中に置かれた父の遺影に、どうしても納得できない部分があるのだ。

父の肉体は知床・斜里の地を踏むことはなくなってしまったが、近い将来僕は、父の代わりに知床の地に足を踏み入れそうな気がする。いや、必ず踏み入れなければならない。そう確信している。

現実逃避

夢を見た。
その夢の中に、一瞬だけ父が現れた。何も言わず、はにかんだような表情を見せただけだった。

父が忽然とこの世を去ってから、10日目を迎えた。
いろいろな方々から話を聞いていると、こういった形で父との別れを迎えることが、かなり必然性を帯びていたのだと、今は何となく確信めいている。耳を塞ぎたくなるような話もあるが、今は現実と向き合うために、そんな話にも耳を傾けている。

アメリカの人たちにとって9.11が決して忘れられない日となっているように、僕らにとって9.7(そして9.8)は生涯忘れることのできない日となった。

人生は帳尻が合うようになっている。
僕にとってこの言葉はある意味、座右の銘のようなものだった。確かに僕はこれまで、端から見ると順風満帆とも言える生活を送ってきたのかも知れない。ただ、これまで過ごしてきたそんな日々が、たった一日にしてどん底に突き落とされたのだから、正直堪ったものではない。今回のことが僕にとっての帳尻合わせだとするならば、なんて残酷な運命なのだろう。
それにしても、父の人生は帳尻が合っていたのだろうか。その答えは一生掛けても見つからないことだろう。

しかし。
もう、これ以上の底はないんだということを、僕もそして家族も必死に自分たちに言い聞かせている。そして、何とか少しでもその底から這い上がろうと、それぞれが負い目を抱えたまま、もがき苦しんでいる。

それにしても、いくら泣いても涙は枯れないものだ。

今日から職場に復帰した。電車に乗るのもイヤだった。好奇の目に晒されるのも怖かった。でも、何一つ変わらぬ態度で接してくれる同僚の配慮が嬉しかった。

そうだ。
時間が止まっていたのは僕だけであり、周囲はめまぐるしく動いているのだ。
ホントは未だ夢醒めぬ状況にあるのだが、いつまでも現実逃避している訳にはいかない。

少しずつ顔を上げて行くための努力を始めようと思う。

初七日

突然やってきた父との別れ。
現職市議の衝撃的な死は、マスコミにとって格好のスキャンダルとなり、その対応に非常に苦慮した。
何故?どうして?みんなが問いかける。しかし、真実は父の胸の中に秘められたまま。だから、「本人に直接聞いて下さい」と切り返すしかなかった。

僕は喪主として父を送り出すことになった訳だが、何が何だかわからぬまま一連の儀式を終え、初七日を迎えた昨日、納骨を済ませた。
火葬場に集まった人、約200名。お通夜に参列した人、約850名。うち、会場に入りきらなかった人、約100名。お葬式に参列した人、約200名。
これらの数字が、父がいかに偉大な人物であり、そしていかに人に慕われていたかを表すものだと思った。

僕たちは、最後まで家族を守るために万策を尽くし、そしてこの世を去った父を誇りに思う。喪主挨拶でも、僕はこのことを申し述べさせて貰った。

あれほど嫌気がさしていたはずなのに、今は少しでも父の側にいたくて、遺影の前からなかなか離れることができない。

父を送り出したのに、未だそのことを現実として受け入れられないのも事実。ふと父を思い出しては、落涙する時間を過ごしている。

今はただ、時間だけが僕たち家族にとって心を癒す薬となっている。
でも、そっとして欲しい反面、誰かに優しい言葉を掛けて欲しいのも事実だ。しばらく傷は癒えそうにない。


父の訃報に接し、このブログをご覧頂いている多くの方々から御弔意、御弔電等を賜りました。本来であれば直接御礼を申し上げるところでありますが、取り急ぎこの場をお借りして深く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

8/30-9/2

○8/30

恒例というか定例というか、いつものメンバーと久しぶりの飲み会。1次会から参加は5名。
こちらからサザンのコンサートレポートを伝えた後は、各自近況報告。何か話を聞くと、サザンのチケットをゲットできた確率は結構高かったらしい。
それにしてもみんな、もうすぐ不惑だねぇ。




2次会にてタガシ先生合流後。うーん…こうやってみると風貌もやってることも、みんなオヤジだなぁ…。というか、数名既に目が飛んでるんだが…あ、俺もですか。

2次会からやってくるタガシ先生ご指名の店で彼がやってくるのを待っていると、「今日釣れた」マダイとチダイを持参。すぐに店のオヤジさんに裁いてもらい、無言もしくは「うめぇ!!!」の絶叫で堪能。ごちそうさま!




マダイよりチダイの方が人気がありました。この他に、カブトの酔っぱらい煮(酒蒸し)も登場。

…普段ならこの辺で「それじゃまたねー」となるはずなのだが、何故か今日は全員元気がいい。それじゃ、もう一軒行っちゃいますか。と、スナックに乱入。




ちょうど日曜日になった前後の時間、この頃には既に記憶がまだらで、多分彼がこうやって唄っているということは、吉川晃司でも熱唱しているのでしょう。うーん、やっぱりオヤジだ!

飲めや歌えや大騒ぎで(この頃からザワ先生ともども記憶が飛び始める。多分ザワ先生は無意識で曲をチョイスしていたはず!)、結局大団円となったのは午前2時!請求額を見て更にぶっ飛んだ!!!(金額は思い出したくなくて書けません)

○8/31

予想通り死に体に。物凄い倦怠感が全身を襲う。身体を動かそうにも、思うように動かないぐらい疲れがドッと押し寄せている。妻からは「学習しないねぇ」と呆れられる。結局午後1時過ぎまで動くことも出来ず、せっかくの1日が無駄に終わってしまった。

二日酔いでこんなに何も出来なかったのは、記憶がない。相当飲んだことは間違いないのだが、どれぐらい飲んだのかも思い出せないのだ(当たり前か)。
当然の事ながらこの日はビール1滴も飲む気になれず、午後10時過ぎに就寝。ちなみにこの日の睡眠時間、14時間。嗚呼、俺はナマケモノか。

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