東日本大震災の被災地を巡る

東日本大震災から来年3月で15年となる。

平成7年に発生した阪神淡路大震災の状況を、新採用から2年が経とうとしていた当時の職場のテレビで目の当たりにし、思わず絶句した時から16年後の3月、総務部の1階の職場にいた時にそれは起きてしまった。

その後も熊本、北海道、そして能登半島と、想定できないような地震災害が相次いで発生している。この先も、こうした地震による大きな被害がどこかでまた発生することになるのだろう。

気がつくと、自分が県の危機管理局に在籍してから10年目となる。前述の新採用で配属された土木部(現・県土整備部)の在籍期間が9年だったからから、キャリアの中では最も長く配属されている部局、ということになる。

正直言って、絶対に配属されたくないとずっと思っていた部局の一つが防災部門だった。

昼も夜も休みもなく、年がら年中四六時中働かなければならない、プライベートが全くない、そんな印象を持っていたからだ。

「防災」という言葉を聞くと、皆さんはどう思うのだろう。
誰もが一瞬身構え、時としてその言葉に怯み、時としてできるだけ近づかず、場合によってはむしろ遠ざけたくなる。

「防災」というのは、きっとそんな存在なんじゃないかと思っている。

日本国憲法第15条第2項に、こんな規定がある。

すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

地方公務員法第30条には、こんな規定も。

すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

「公務員たるもの常に奉仕者たれ」というのが、奉職してからずっと持ち続けている僕の自負。あれほど嫌だと思っていた防災部門、つまり危機管理局そして防災の業務にすっかりなじむことができたのも、この自負があったからなのかも知れない。

つまり、僕にとって「奉仕者たれ」を最も体現できる場がこの危機管理局だった、ということなのだろう。

またどうでもいい話が長くなってしまった。

東日本大震災の発災から約1か月後、たった4日間であったが宮古市の新里地区で、全国各地から配送されてきた支援物資の仕分け作業に従事した。

この時の作業については、偉そうに「宮古市・災害派遣レポート」なんて高尚なタイトルを付した記事にまとめているのでここでは割愛するが、実はこの時の総務部長が、現在消防庁次長を務められているT氏。記事の裏話となるのだが、僕が一言挨拶をした時に、T氏は一瞬表情を歪め、グッと何かをこらえようとしていたのがとても印象的だった。

あの時に被災地に足を運び、被害の状況を直に目の当たりにし、人生観が変わったというのは決して誇張した表現ではない。

ただし、あれから15年が経とうとする中、なかなか被災地を再訪することができなかった。久慈市や宮古市を数回訪れる機会はあったが、そこから更に南下するきっかけがなかったのだ。

今回、ふと思い立って宮古市から南下し、釜石市そして陸前高田市を訪問することにした。

目的はあってないようなもの。

強いて言えば、15年が経った今、津波によって破壊された街がどういった状況になっているのか、この目で確認すること。そして、当時大きな被害を受けた各地で、消費活動を行うこと。

自宅を出発後、東北道を南下するコースではなく、八戸市へ向かうコースを選択。八戸JCTから、令和3年に繋がった三陸沿岸道路を南下し、一路釜石に向かうというルートを辿った。

説明は不要かも知れないが、八戸是川ICの料金所を通過した後は、全て無料区間となるのがこの路線の特徴。さらに、ほとんどPAやSAが設置されていない代わりに、複数のICからほど近い一般道沿いに「道の駅」が点在している。「避難道」としての役割も担っているため、トンネルや山間を走る区間が多く、太平洋を眺望するような景色はあまり期待しない方が良い。

時速は60~70㎞/hに設定されており、ほぼ片側1車線ではあるが、通行台数などに鑑みれば極めて妥当な設定だと思うし、それほどストレスなく走ることができる。

朝10時前に出発し、青森市~八戸市を経由、階上町での昼食後、三陸沿岸道路へ。

この日に立ち寄った道の駅は、「たのはた」「たろう」そして「みやこ」。

「道の駅たのはた」で食した濃厚ソフトはミニサイズで350円。うまし。

道の駅「たろう」があるポイントは、15年前に最初に訪れた被災現場。赤い×が記された車両が転がっていたのを覚えている。今は、「万里の長城」と言われた防潮堤が遺構として残され、更に高い防潮堤が築き上げられていた。同じく遺構となった「たろう観光ホテル」は、あの当時と変わらぬ佇まいを残していた。

田老の防潮堤から。ピンク色の建物は漁協。前述のレポートにも同じ建物が映り込んでいる。

「万里の長城」と言われた防潮堤を遥かに凌ぐ新しい「壁」

震災遺構のたろう観光ホテル。左側のタワーは増設されたエレベーター棟かな?

道の駅「たろう」内に設置された三陸ジオパークの総合案内版

道の駅「みやこ」はかなり沿岸道路から離れるが、剝き出しになったトイレの跡と、災害廃棄物が山積みになっていた沿岸部がどれぐらい整備されているか、この目で確かめておきたかったのだ。

結局釜石市内の宿泊地に到着したのは、17時過ぎ。降り出した雨と、市内にゲリラ的に出没しているらしい鹿の群れが出迎えてくれた。

翌朝も雨模様。この日は、自分にとって今回の目的地である陸前高田市を目指すことにしていた。本当は、2月に林野火災の被害を受けた大船渡市にも立ち寄りたいところだったが、時間の制約上、通過することにした。

今回の行程で4か所目となる道の駅「道の駅高田松原」は、高田松原津波復興祈念公園に位置する。この辺りまでくると一気に空気感が変わる。沿岸部でありながら建物も何もない荒涼とした土地が広がる風景が震災そして津波の痕跡として存在しているという現実に、何とも言えぬ思いが渦巻く。

実は陸前高田市を訪れるのは今回が初めてだった。14年7か月目となる月命日の11日にこの沿岸部を走り、そして翌日となってしまったが、この地を訪れることができて本当に良かったと思った。

高田松原津波復興祈念公園「海を望む場」から

小雨交じりの高田松原

陸前高田市内に向けて走る電気バス。かわいい。

壊死したためモニュメント化された「奇跡の一本松」

「追悼の広場」で手を合わせ、「海を望む場」で改めて畏敬の念を抱く。モニュメントとなった奇跡の一本松、震災遺構のユースホステルを眺めながら、当時起きたことに想いを馳せる。

この頃になると雨は小降りとなっていた。後ろ髪をひかれる思いではあったが、再訪を心に誓い、この地を後にした。

15年前に宮古市で行ったほんのささやかな支援活動は、今の僕の原点ともいえる。

今回、駆け足とはなったが被災地を巡ってみて、従事している業務に改めて誇りをもって取り組もうと感じることができた。気を引き締めるきっかけを得られたことは、とてつもなく大きかったかも知れない。