約35年ぶりの「山登り」

小学校4年の時に、僕はボーイスカウトに入隊した。
先に従兄が入隊していて、心身ともに軟弱な僕を見かねた伯父から「お前はもっと強くならなきゃならん」と強い勧めがあってのことだった。

それから約6年間にわたり、週末はボーイスカウトの活動に従事することが多かった。

二度と思い出したくない、苦々しい思い出が多々ある一方で、印象に残っているイベントも幾つかあって、その中でも、母の生まれ故郷でもある合川町(現:北秋田市)大野台への自転車でのキャンプ遠征と、目屋ダムへの夜間歩行訓練、そして高校1年の時に宮城県白石市(通称「裏蔵王」)で行われた「日本ジャンボリー」は、忘れることのできない思い出となっている。
忘れられない思い出については、機会があれば今後明らかにすることにしたいと思う。

ボーイスカウトのキャンプは弘前市郊外で行われることがほとんどで、自転車を使って移動することが多かった。ただし、参加人数が多くなった時の大きな荷物、例えばテントとか調理器具などは、リーダーや隊長の車に積んで運んでもらうこともあった。
場所は大体決まっていて、弘前市南西に位置する久渡寺山か、岩木山麓にある高長根山、この2か所だった。

久渡寺山に関しては僕の中学校の学区内にあり、自宅からは約6.5キロのところにある。
行きつく先が久渡寺の駐車場という一本道の県道は、延々かつダラダラと上り坂が続く。あの頃はまだ川沿いの自転車道も歩道も整備されていなかったので、時々車にクラクションを鳴らされながら、まさに隊列を組んで怖々自転車を漕ぎ続けたものだった。それが駐車場まで残り2.5キロほどになると完全に農家集落となり、車の数もまばらとなる一方で、上り坂も徐々に勾配を増すようになる。

やがて残り1キロとなると、更に勾配は増し、自転車を漕ぐのもやっととなり、自転車から降りて手押しで坂を上ることもしばしばあった。

しかし、ようやく終点の駐車場に到着しても、ここから更に山の中腹にあるキャンプ場までは、自らの足で登る必要がある。ハイキングといえばそれまでだが、キャンプ用の道具や寝袋の入ったリュックサックを背負って登るのは、ひ弱な少年にとってはなかなか至難の業だった。

「こどもの森」を標榜する久渡寺山のキャンプ場は比較的整備されている方で、飲料水(だったのかどうかは今となっては謎)の蛇口や炊事用の竈などがあったし、平場だったのでテントを張るのも難儀はしなかった。
ただし、夜になると完全に明かりがなくなるため、早い段階で夕食の準備をすることは必須だった。

夕食のメニューはカレーか豚汁と決まっている。理由は簡単。材料がほとんど同じだから。
味噌を入れるかカレーのルーを入れるかで、味が変わるというだけの話。
ただ不思議なのだが、翌朝に何を口にしていたかについては、記憶が全くない。

それはともかく土曜日の午後、キャンプ場に到着すると、テントを設営する係と薪を集めて火を熾す係に分かれ、早々に寝食の準備をする。ロープの結び方や手旗の振り方を年長者から年少者に伝授するという訓練を間に挟み、飯盒で米を炊き、極端に薄いカレーを口にしながら、晩ご飯をみんなで食べる。こういったことが、中学3年になる頃まで続いた。
今みたいにケータイもスマートフォンもなかった時代。単3電池一本で動くトランジスタラジオが、宵闇の静寂をかき消す唯一のアイテムだった。

翌日は、天気が良ければ山に登ることもあるし、悪ければ早々に下山する。
前述のとおり久渡寺までの行きは延々上りが続いてキツいが、帰りは下りなので、楽々スイスイと自転車を転がし、午前中のうちに弘前市内へ戻って来る。
1泊2日の野営は、大体こんな感じで行われていた。
今思えば、サバイバル感覚は確かに養われた…ような気がするし、ひ弱も多少は改善されたのかも知れない。

ただ、奉仕といえばいいのか、困った人を助けたいという精神が養われたこと、そして、料理の腕が上がったことだけは紛れもない事実だ。

あの時以来、久渡寺山を訪れる機会なんてほとんどなかったのに、つい先日、35年ぶりに久渡寺山頂を目指してみようという気になった。

約6.5キロの道路、自転車ではなく自分の脚で何度も休憩を挟みながら久渡寺の駐車場を目指す。
実はこの日、駐車場で折り返すつもりだったのが、あまりに不甲斐ない自分の走りっぷりに立腹していた。
そして、その立腹をどう収めればいいのかわからぬまま、久渡寺山へと足を踏み入れていた。
これが事の発端だった。

…いや、正直言うともう一度久渡寺の山に登ってみたいという思いはどこかで燻っていたのだ。実は昨年も一度登ってみようとアタックしたのだが、登山道が全く思い出せぬまま、すぐに引き返してきた。

取りあえず目指すところは、約35年ぶりのキャンプ場。
道の記憶は相変わらず全く思い出せないのだが、ひとまず登れば何とかなるだろうというノープラン。ある意味、非常に危険な発想だけで山を駆け上がり始めた。

しかも、長袖のランシャツにショートパンツ、ふくらはぎを覆うコンプレッションサポーターといういで立ち。実は、水も持ち合わせていなかった。山を舐めてかかって遭難する軽装者よりも酷い格好だった。本当にごめんなさい。

上り始めて程なく現れた急勾配で、息は完全に上がることに。「久渡寺山頂」と書かれた方向案内板だけが頼りだった。息も絶え絶えで太腿をさすりながら、文字通り歩を進める。縦走というには程遠く、縦歩といった感じ。

馬鹿と煙は高いところへ上る

というが、ジョンがって狼煙を上げた馬鹿が、今まさに久渡寺山を黙々と上っているわけで…嗚呼!そうか、この気持ちは2日前の飲み会「ジョンガルナイト」で焚きつけられたんだな、と思い始めた。

ちなみに「ジョンガルナイト」の模様はFerokieさんが投稿してくださったので、そちらをご覧ください。

話を戻して。
程なく、縦走にピッタリの道と合流。さて、野営の設営に当たり、僕はどっちの道を上ってきたんだろう。視界の開けた中腹にある合流地点に辿り着いたとき、キャンプ場の場所の記憶が蘇った。嬉しくなって駆け上がる。雪に隠れていたフカフカの落葉と枯れ枝がクッションの役割を果たす。5分も上らないうちに、かつてキャンプを行ったそこが現れた。

な、懐かしい…!

今は「お弁当広場」という名前がついているらしい。昔はなかった木製のテーブルと椅子が備え付けられている。
キャンプファイヤーも行えそうなスペースもあるし、更には仮設トイレまで置かれている。昔と全然違うわ…。

妙に感慨深い気分を味わいながら、馬鹿は更に高いところへ上りたくなった。
ハイキングにやってきたと思しき人たちが時々姿を見せる。徐々に道が険しくなり、幅が狭くなる。斜面に辛うじて残ったような道もあり、ちょっと身の危険を感じるな、といったところも。そういえば高いところが苦手なのに。急にそのことが頭をよぎり、途端に足がすくみ、ジョンがっていたものがキュッとなる感覚。

更に山道を上ると、残雪が現れる。やがて残雪の量は、行く手を阻むぐらいの量になっていた。「山頂まであと1キロ」という看板を見てから、どれだけ進んだんだろう。しかし、山頂は未だに見えない。

久渡寺山って、こんなに高い山だったっけ?

35年前の記憶なんて全く当てにならない。
やがて斜面と登山道の残雪で完全に行く手を阻まれ、進むべき道がなくなった。静寂に包まれた森の中で身の危険すら感じたため、「登頂」を断念。急に寒さを感じたのは、残雪のせいだろうか。それとも…。

上って来た道を引き返す。景色に目をくれる余裕もなく、腰の引けた格好で恐る恐る下りながら、これまでの道中をほとんど画像に収めていないことに気がつく。残雪の量も、どれぐらい道が険しいのかも、僕の頭の中にインプットされたのみだ。

結局、中2の気分で山登りを始めたはいいが、47歳という運動音痴の中年にとっては、過酷以外の何物でもなかった。アホだ…アホ過ぎる。

そして、今回記録として残したもう一枚の画像が、これ。下山後、息も絶え絶えの姿。

ちなみに久渡寺山の標高は662.9mだそうな。…色んな意味で山を舐めてはいけません、いやホントに。
いつかまた山頂を目指す…気持ちになるまで考えます。

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